GOTH リストカット事件 乙一 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)内部は|黴《かび》と染みに覆われていた。 (例)|色《いろ》|艶《つや》が描写されている。 -------------------------------------------------------  ㈵ 暗黒系  Goth [#改ページ]    † 1  夏休みが二十日ほど過ぎたころ、出校日でひさびさに森野と顔を合わせた。  朝のホームルームが始まる前、登校してきた彼女は、話し声の騒々しいクラスメイトたちの間をぬって僕の机に近づいてきた。  僕たちにあいさつを交わす慣習はなかった。森野は僕の目の前に立つと、ポケットから手帳を取り出して、机の上に置いた。見覚えのない手帳だった。  手のひらにおさまる大きさで、表紙は茶色の合成革だ。よく文房具屋に並んでいるありふれたものである。 「拾ったの」  彼女は言った。 「僕のじゃないよ」 「知ってるわ」  手帳をさしだす彼女にはどこか楽しげな雰囲気があった。  机に置かれた手帳を手にとる。表紙の合成革は滑らかな肌触りをしていた。  ぱらぱらと中身を大雑把に確認すると、手帳の前半部分に細かい文字が連ねてある。後半は白紙のままだ。 「文章を最初から読んでみて」  彼女の言う通り、だれのものなのかわからない他人の文字を目で追っていった。改行が多く、箇条書きのような文章だった。  五月十日  駅前で楠田光恵という女と知り合う。  年齢は十六。  声をかけるとすぐに車へ乗りこんできた。  そのままT山に連れていく。  女は窓の外を眺めながら、母親が新聞の投稿欄にこっていることを話す。  T山の頂上付近に車をとめる。  トランクからナイフや釘などの入った鞄を取り出していると、女は笑いながらそれは何かとたずねてきた。  …………  文章はその先もまだ続いている。  僕は楠田光恵という名前に見覚えがあった。  ……三ヶ月前、T山へある家族がハイキングへ行った。男の子とその両親の三人家族である。父親はひさしぶりの休日だったため、山へ到着するなり寝転んで休んでいた。男の子はいっしょに遊ぼうと父親を起こそうとしたが、だめだった。  昼過ぎ、男の子は一人で森の中を散策。  母親は息子の姿が見えないことに気づく。そのとき、悲鳴が森の奥から聞こえた。  夫婦が森の中を捜すと、男の子は見つかった。彼は少し見上げた格好で立ちすくんでいた。  息子の視線を追った父親と母親は、そのあたりの木の幹が赤黒く汚れていることにまず気づく。そして、奇妙で小さなものが目の高さに釘で固定されているのを見る。周囲を眺めると、まわりの木々にはどれも釘で何かが張りつけられている。  それらが楠田光恵だった。彼女の体は森の奥で何者かに解剖された。眼球、舌、耳、親指、肝臓……。それらは木の幹に釘で固定されていた。  ある本には上から順番に左足の親指と上唇と鼻と胃袋がはりつけにされ、また別の本には彼女のほかの部分がクリスマスツリーの飾りのように並んでいた。  事件はすぐに全国を騒がせた。  森野の持ってきた手帳には、楠田光恵という女を殺害し、どの部位から本に張りつけていったか、どんな種類の釘を使用したのかが、克明に感情を交えず何ページにもわたって記されている。  僕はこの事件に関してテレビや雑誌、インターネットで情報を漁ったことがあるので詳しい。 それでも手帳は、どんな媒体にも露出していない細部まで語り尽くしていた。 「私が思うに、その手帳は彼女を殺した犯人が落としたものだと思うの」  楠田光恵は隣の県に住む女子高生だった。彼女を最後に見たのは、駅前のビルでわかれた友達だった。そして楠田光恵は、今も日本中をにぎわせている猟奇殺人の「最初の」被害者となった。  似た手口の事件がもうひとつ起きており、これらは連続殺人として考えられている。 「二番目の被害者のことも、書いてあるわ」  六月二十一日  買い物袋を抱えてバスを待っていた女に声をかける。  女は中西香澄と名乗った。  車で家まで送ろうかと話を持ちかける。  H山に向かっていたところ、家の方角に向かっていないことをさとり、助手席で女が騒ぎ出す。  いったん車をとめて金槌で殴ると静かになった。  H山の奥にある小屋に女を入れた。  …………  中西香澄という専門学校生の名前が全国的に知られたのは、一ヶ月前のことだった。ニュースや新聞で大きく取りざたされ、学校から帰宅した僕は、二人目の被害者が出たことを知った。  彼女はH山にある小屋の中にいた。その建物は持ち主が不明で、長くそのままになっていた。雨漏りがひどく、内部は|黴《かび》と染みに覆われていた。壁や床は板張りで、縦横三メートルの広さだった。  H山へ山菜を取りに来ていた麓に住む老人は、早朝、いつもは閉まっているはずの小屋の扉が開いているのを発見する。不思議に思い近づいてみると、異臭が鼻をついた。  老人は、入り口から小屋の中を確認する。最初はどうなっているのかわからなかったにちがいない。  小屋の床に、中西香澄は並べられていた。一人目の被害者と同様、体を各パーツに分けられて、几帳面にそれぞれ十センチほどの間隔をあけて十×十になるよう床一面に配されていたのである。つまり彼女は体を百の小さな塊にされていたのだ。  手帳には、その作業を行なう場面が描写されている。  二つの事件で犯人を見た者はおらず、彼女たちを殺害した人間は逮捕されていない。  マスコミはこの二つの事件を連続猟奇殺人事件として今も騒いでいる。 「私は、この事件のことをニュースで見るのが好きなの」 「どうして?」 「異常な事件だからよ」  森野は淡々と言った。  僕も、同じ理由でいつもニュースを見ていた。だから、彼女の言いたいことはよくわかっていた。  人間が殺されて、撒き散らされたのだ。そうなった人間と、そうした人間が実際に存在する。  僕と森野はこういったやるせない話に、特別の興味を抱いた。悲惨で、聞いた瞬間に首を吊りたくなるエピソードを常に求めていた。  この不思議な習性について、はっきりと口にしたわけではないが、お互いにそうであることを無言のうちに感じ取っていた。  おそらく普通の人は顔をしかめるのだろう。僕たちの感覚はずれている。だから、世界中の拷問器具やさまざまな死刑の方法について話をするとき、僕たちは特に小声で会話をした。  手帳から顔を上げると、森野は窓の外を見ていた。中西香澄のいろいろなものが床に並んでいる場面を想像しているのだということがわかった。 「この手帳、どこで拾ったの?」  僕がたずねると、彼女は説明した。  昨日の夕方、森野はお気に入りの喫茶店に居座っていたそうだ。そこはでしゃばらない主人のいる、薄暗い静かな店なのだという。  彼女は店の主人がいれたコーヒーを飲みながら、『世界残酷物語』のページをめくっていた。  ふと、雨音が聞こえた。窓に目をやると、外では激しい夕立が降っている。  帰ろうと立ち上がりかけた店内の客が、また座りなおしたのを森野は見た。夕立がやむのを待つため、もうしばらく喫茶店にいようと考えたのだろう。  そのとき、喫茶店の中には、彼女以外に五人の客がいた。  森野はトイレへ行くために席を立った。店内を歩いている途中、靴の裏におかしな感触があった。床は黒い木の板でできているが、そこにだれかの手帳が落ちており、踏んでしまっていた。彼女は手帳を拾い上げ、ポケットに入れた。持ち主を探して返そうとは考えなかったそうだ。  トイレから戻ったときも、客は夕立の景色を窓から眺めているだけで、数は変わっていなかった。  夕立の激しさは、用事のために短時間、外に出ていた店長の服装からわかった。全身が濡れていた。  森野は手帳のことを忘れて読書に戻った。  夕立がやむと、また外は太陽が照り出した。  客の幾人かは立ちあがり、外へ消える。  夏の日差しはすぐに道路を乾かす。  森野が手帳のことを思い出し、中身を読んだのは、家に帰ってからだったそうだ。 「私は二回、トイレに行ったの。一回目のときには手帳は落ちてなかった。その直後に夕立があり、客が固定された。二度目に席を立ったとき、手帳が今度は落ちていた。あの店内に犯人がいたのね。犯人は、この近所に住んでいるのだわ」  彼女は胸の前で手を握り締めた。  二つの死体は、僕たちのいる町から二、三時間はなれた場所で見つかっていた。この町に犯人が住んでいる可能性はないわけではない。  しかし、それは現実味のない話だった。  この事件はおそらく、長く語り継がれるだろう。まだ未解決ではあるが、そう感じさせる猟奇的なものがあった。全国的にこの事件について会話がなされ、小学生でも関心を持っている。  あまりにも有名になっていた。  その犯人がこの周辺にいるというのは考えづらい。 「この手帳、報道されたものをもとに想像して書いた可能性があるでしょう」 「手帳の続きを読んでごらんなさい」  ようこそ。そんな感じで森野は言った。  八月五日  水口ナナミという女を車に乗せた。  S山の近くの蕎麦屋で知り合った。  山の南側の森に行くと、神社があった。  女といっしょに、森へ入った。  …………  森の奥で、手帳の持ち主は水口ナナミという女の腹部にナイフを突き刺した。  彼女の体が手帳の中で破壊されていく。細かい文字で、彼女の両目の取り出されるさまや子宮の|色《いろ》|艶《つや》が描写されている。  そして、水口ナナミは森の奥に捨てられた。 「水口ナナミという名前に、聞き覚えは?」  森野が聞いた。僕は首を横に撮る。  水口ナナミの死体が発見されたという報道は、まだされていなかった。    † 2  はじめて森野のことを知ったのは、二年に進級して同じクラスになったときだった。僕と同じで、だれとも関わらずに生活しているやつがいると最初は思った。休憩時間になっても、廊下を歩いているときも、彼女は常に人をさけて行動していた。つまり、群れたがらないのだ。  同じクラスでそういうことをしているのは、森野と僕だけだった。といっても、僕は彼女のように、クラスメイトたちのはしゃいでいる様子を眺めて冷ややかな顔をしない。僕の場合は、話しかけられれば返事はするし、人間関係を円滑にするため冗談も言う。普通の生活を送るための最低限のことはしていた。  しかしいずれも表面的なつきあいで、クラスメイトに向ける笑顔はほとんど嘘だった。  最初に話をしたとき、森野は僕のその部分を見通して突いてきたのだ。 「私にも、その表情のつくりかたを教えてくれる?」  放課後に、森野は僕の前に直立して無表情にそう言った。内心で彼女は僕のことを|嘲《あざけ》っていたのだろう。五月のはじめのころだった。  僕たちはそれ以来、ときどき話をするようになった。  森野は黒い色のものしか身につけなかった。直毛の長い髪の毛から靴の先まで暗黒に包まれている。反対に肌はこれまでに僕が見ただれよりも白く、手は陶器でできているようだった。左目の下に小さなホクロがあり、それはピエロの顔に描かれた模様のように、彼女へ魔術的な雰囲気を与えていた。  表情の変化は一般の人よりも少なかったが、ないわけではない。例えば彼女は、ロシアで五十二人の女性や子供を殺害した殺人鬼に関する本を楽しそうに読む。クラスメイトたちのざわめきの中にいるときの死にたくなりそうな青い顔ではない。目を輝かせているのだ。  森野を相手に話をするときだけ、僕は表情を作らない。それが他人を相手にしたなら、なぜ僕が無表情でにこりともしないのかと相手は思うだろう。彼女を相手にしたとき、それがゆるされる。  おそらく彼女も似たような理由から、ひまなときの話し相手として僕を選んだのだろう。  僕たちはお互いに目立つことを嫌っていた。教室ではクラスメイトたちの騒々しさの陰にかくれて静かに生活していた。  やがて夏休みがおとずれて、僕はその手帳を読むことになったのだ。  出校日の次の日、駅で僕たちは合流したあと、S山の麓まで行く電車に乗りこんだ。  学校の外で会うのも、制服ではなく私服を着た森野を見るのもはじめてだった。あいかわらず彼女は暗い色調の服装を選んでいた。それは僕の方でも同じだったらしく、彼女の視線からそのことに気づいた。  電車内は静かで、混雑とは無縁だった。僕たちは話をせず、それぞれ読書をしていた。彼女は児童虐待に関する本を読み、僕はある有名な少年犯罪の犯人の家族が書いた本を読んでいた。  駅に降りたところで、S山の周辺に蕎麦屋は何軒ほどあるのかと駅前の古ぼけた煙草屋の老婆にたずねた。蕎麦屋は一軒しかないことと、その場所がここからそう離れていないことを僕たちは知った。その後で森野は的確な発言をした。 「煙草は大勢の人を殺すけど、煙草の自販機はあのおばあちゃんから職をうばって殺すのだわ」  特に気の利いた回答を求める様子でもなかったので、僕は無視した。  目的の蕎麦屋まで道路の路肩を歩いた。道は上り坂になり、山の側面にそってカーブしていた。  蕎麦屋はS山の麓の、飲食店の並ぶ通りにあった。にぎわっている様子はなく、華や人影のまばらな寂しい雰囲気だった。蕎麦屋の駐車場には一台も車はとまっていなかったが、店を開けていないわけではないらしく、営業中の看板があった。僕たちは店内に入った。 「ここで犯人と水口ナナミは出会ったのね」  森野はまるで観光名所へ来たように店内を見渡した。 「失敬。まだ、出会ったかもしれない、という可能性の段階だったわね。それが事実かどうかを確かめるために来たのだから」  僕は彼女を無視して手帳を読んでいた。  青いボールペンで書かれている。  手帳に書かれていたのは三人の女性が殺される物語だけではなかった。ほかにも、いくつかの山の名前が書かれている。それは最初の方のページで、女性の殺される物語よりも先に書かれたらしい。  山の名前の前に◎や○、△や×などのマークがつけられている。三人の捨てられていた山には、◎がつけられていることから、死体を捨てるのに都合がいい山をリストアップしていたのではないかと推測する。  手帳の持ち主を示すようなことは書かれていなかった。  手帳を警察へ渡そうという考えは、僕たちにはない。僕たちが何もしなくても、どうせそのうちに犯人はつかまるのだ。  手帳を警察に持っていけば、犯人の逮捕が早まるかもしれない。最終的な犠牲者の数は減るだろう。本来は手帳を警察に渡すのが義務だ。  しかし残念ながら僕たちは、手帳など拾わなかったことにして黙っていることに良心を痛めない、|爬《は》|虫《ちゅう》|類《るい》のようなひどい高校生だった。 「四人目の被害者が出たら、それはきっと僕たちが殺してしまったことになるんだ」 「いたたまれないわ」  僕と森野は蕎麦をずるずると食べながらそんな話をした。彼女は「いたたまれない」という顔をしてはおらず、目下のところ蕎麦にしか興味はないという投げやりな声だった。  蕎麦屋で、神社のある場所を聞いた。  歩きながら森野は手帳を眺めていた。表紙を何度も指の先でなぞり、殺人鬼の触ったであろう個所に触れていた。その仕草から、彼女が犯人に対して畏敬の心を抱いていることが感じられた。  その気持ちは僕の中にも少しあった。それが不謹慎なことであるのも知っていた。犯人は間違いなく罰せられるべき人物だ。それを、革命者や芸術家を見るような目で見てはいけない。  そして同時に、しばしば有名な殺人犯を崇拝する特殊な人間がいることも知っている。それらの人々のようになってはいけないこともわかっている。  しかし、僕たちは手帳の持ち主が行なった事件の|禍《まが》|々《まが》しさの虜となっていた。犯人は日常生活のある瞬間に一線を踏み越えて、人間の持つ人格や尊厳を踏みにじり、人体を破壊しつくしたのだ。  それが、悪夢のように惹きつけて止まない。  神社へ行くためには、蕎麦屋のあるところからさらに頂上へむかって歩き、長い階段を上らなければいけなかった。  僕たちは体を動かすということについてほとんど理不尽な怒りを感じるのだ。だから、斜面も階段も好きではない。  神社へたどりついたとき、僕たちはつかれていた。しばらく境内に設置されていた石碑に腰掛け、休憩をとる。境内に植えられた木は高く枝を伸ばしており、見上げると来夏の太陽が葉の間から覗いていた。  二人並んで、頭上から降ってくる蝉の声に耳をすませた。森野の額に汗の粒がぽつぽつとできていた。  やがて彼女は汗を拭いながら立ち上がる。水口ナナミの死体の捜索が始まった。 「犯人と水口ナナミはここをいっしょに歩いたのね」  森野は僕と並んで歩きながら口ずさむ。  神社の奥から、森へ向かった。  どれほどの距離を、どの方向に向かって犯人たちは歩いたのか、わからない。そのため、手探りの捜索となった。  闇雲に探しているうち、一時間が過ぎた。 「あっちがわかもしれない」  そう言って別れた森野が、やがて離れた場所から僕の名前を呼んだ。  声のした方に行くと、崖の下辺りに森野の後ろ姿があった。両手をだらりと下げて直立していた。彼女の横に立ち、僕もそれを見た。  水口ナナミがいた。  森と崖の狭間、一本の大きな大木の陰、夏の薄暗闇の中に彼女は裸で座っていた。  腰を地面につけて、背中を大木の幹にあずけている。両手両足は力なく投げ出されている。  首から上はない。  頭部は、割かれた腹の中に入っている。  二つの眼球は取り出されて、左右それぞれの手の中に握らされていた。  そのかわり、ただの穴となった眼窩には泥がつめられている。口の中にも、腐葉土が塗りこめられていた。  背中をあずけている大木の幹に、何かが巻きつけられていた。それはかつて水口ナナミの腹の中にあったものだった。  血の跡は黒く地面に残っていた。  少し離れた場所に、彼女の服が落ちていた。  僕たちは彼女の正面に立ちすくみ、静かに見た。  何も話はできなかった。  死体をただ静かに見た。  次の日、森野の携帯電話から僕の携帯電話へメールが入った。 『手帳を返して』  彼女のメールはいつも、簡潔で短い。よけいなものはつけない。それは、森野ががちゃがちゃとうるさいキーホルダーやストラップに憎悪のようなものを抱いていることにも通じている。  手帳は僕が持ち帰っていた。水口ナナミのいた場所を去るとき、森野へ返さずにいた。  帰りの電車の中で、森野は衝撃から回復しないまま遠くを見つめているだけだった。  彼女は、あの場所から立ち去るとき、地面に落ちていた水口ナナミの服を拾い上げて自分の鞄に詰め込んでいた。服はほとんど切り裂かれていたが、帽子や鞄、その中身は無事だった。  水口ナナミの持っていた鞄には、化粧の道具や、財布、ハンカチなどが入っていた。帰りの電車の中で、僕はそれらを眺めた。  財布の中に入っていた学生証から、水口ナナミが隣の県に住む高校生であることを知った。プリクラを張りつけておくための手帳も鞄の中にあった。学生証の写真やプリクラで、彼女の生前の顔がわかった。  水口ナナミとその大勢の友達が、プリクラの小さなシールの中で笑顔を見せていた。  メールをもらった日の午後、僕と森野は駅前のマクドナルドで会った。  森野はいつもと違い、暗い色調の服ではなかった。そのため、最初はだれなのか気づかなかった。被っている帽子が、昨日、水口ナナミの遺体のわきで拾ったものと同じだったことから、その服装が彼女に似せたものだということがわかった。  髪型や化粧など、プリクラの中にいる水口ナナミのものと同じなのだ。服は切り裂かれていたので、似たものを探したのだろう。  彼女は手帳を受け取りながら、とても楽しそうだった。  僕はたずねた。 「遺体が森の中にあること、水口ナナミさんの家族には知らせる?」  彼女はしばらく考えて、放っておくことを宣言した。 「彼女は、いつごろ警察に見つけてもらえるかしら」  森野は水口ナナミが死の直前までしていたような格好で、彼女の死について語った。  水口ナナミの家族は、今、どうしているのだろうか。行方不明だと騒いでいるのだろうか。彼氏はいたのだろうか。学校での成績はどうだったのだろうか。  森野は少し、いつもとちがっていた。いっしょに会話をしているうちに、話し方や仕草が、いつもの彼女から離れていく。前髪のありかたを気にしていたり、離れた席に座っているカップルの雰囲気を話題に出したりする。それらはこれまで一度も森野が見せなかった行動だった。  水口ナナミと僕は面識がない。けれど、今の森野を見ていると、水口ナナミはこんな感じだったのではないかという気がしてくる。  森野はテーブルに肘をついて楽しそうにしている。かつて水口ナナミの所有していた鞄をわきに置いている。鞄のファスナーのつまみに、キャラクターもののキーホルダーがついていた。 「当分、その服装で過ごすつもり?」 「そうよ、おもしろいでしょう?」  これは森野の、ごっこ遊びなのだ。それもただ、笑い方や鏡を見てまつげを気にする様を普通の女子高生らしく似せるというだけではなかった。もっと森野の根本的な部分へ水口ナナミが侵食したように感じられた。  マクドナルドを出るとき、森野はごく自然に僕の手を握って歩いた。そのことに彼女自身は気づいておらず、指摘するまでそうしていた。  きっと僕は、死んだはずの水口ナナミに手を握られていたのだ。  駅前で森野と別れて家に帰りつくと、まずテレビをつけた。ニュースで、例の猟奇殺人事件のことを取り扱っていた。  一番目と二番目の被害者のことを報道している。これまでに繰り返し取り上げられた情報ばかりで、目新しいことは言っていない。  水口ナナミの名前はまったく出ない。  二人の被害者について、その友人や家族の悲しんでいる映像が流れる。  ブラウン管に大きく映し出される二人の被害者の写真……。  僕は森野のことを思い出し、嫌な予感がした。しかし、そんなことが起こるのはめったにないはずだ。そうやって、考えたことを否定する。  写真に写っていた二人の被害者の髪型、服装が、水口ナナミに似ていた。  それはつまり、今の森野は、殺人鬼の追い求めるタイプだということだ。    † 3  マクドナルドで会った三日後の夕方、僕の携帯電話は、だれかからメールが届いたことを示す着信音を鳴らした。  メールは森野からだった。 『たすけて』  ただそれだけの短いメールが液晶の画面に表示された。  僕はメールを返信してたずね返した。 『なにがあった?』  しばらく待ったが、彼女からの返事はなかった。  電話をかけてみる。しかし彼女の携帯電話にはつながらなかった。電源を切られたか、破壊されたかしたのだろう。  夜、森野の家に電話をかけた。家の電話の番号は、以前に彼女から聞かされていた。家に電話をするかもしれないという理由で番号を教わったのではない。彼女の家の番号がたまたまごろ合わせで頭の狂った文章になることを、以前、森野は話していた。それを僕は記憶していたのだ。  電話に出たのは彼女の母親だった。高い声で、早い話し方をする人だった。  僕はクラスメイトであることを話し、先生から言づてがあるので彼女と話をしたいと伝えた。  彼女は戻っていなかった。  まさか森野が襲われることはないだろうと思ってはいた。  あの手帳に書かれていたのは真実だったため、殺人犯が彼女と同じ喫茶店にいたということはおそらく事実だろう。犯人が偶然に今の森野の姿を町中で見かける可能性もゼロではない。今のスタイルの森野を見かけた犯人は、先日、殺害した水口ナナミとまったく同じ服装の女がいることを不思議がるかもしれない。そして、心を動かされるかもしれない。  だからといって犯人が森野に狙いを定めるのは低い確率でしかない。おそらく同じような服装の女の子は大勢、町を|徘《はい》|徊《かい》しているはずだからだ。  ただ一つ森野が犯人に襲われるかもしれない根拠があるとすれば、それは、森野と犯人の生活圏内が重なっている可能性だ。二人は同じ喫茶店にいたのだ。犯人がその日、特別に遠出をしてきてたまたまその店にいたのでなければ、日ごろ生活していて目につくところに森野が歩いていることになる。つまり、二人は出会う確率が高い。  夜中に僕は考えた。  たぶん、今ごろ森野は殺されているにちがいない。死体はどこかの山で撒き散らされているだろう。  その様を想像しながら眠りについた。  次の日、彼女の家にもう一度、連絡をいれた。  彼女はやはり、まだ戻っていなかった。母親が言うには、連絡もなく外泊するのははじめてのことだという。母親は心配していた。 「ところであなた、あの子の彼氏なの?」  受話器の向こうで、森野の母親は言った。 「いえ、ちがいますよ」 「そんなにはっきりと否定しなくてもいいのよ。私にはわかってるんだから」  森野の母親は、僕が娘の恋人であることを疑っていなかった。娘には友達らしい友達がおらず、家にだれかから電話がかかってきたのは小学生のとき以来であることを説明した。 「最近のあの子、服装も以前に比べて明るくなったし、男ができたんだと確信していたの」  僕は携帯電話の通話料金を気にした。 「彼女の部屋に、小さな茶色の手帳がありませんか?」  母親はすぐに調べてくれた。受話器から離れて、しばらく沈黙する。やがてまた声が聞こえた。 「あの子の机の上に、それらしいのがあったけど、これかしら」  どうやら森野は、手帳を持ち歩いてはいなかったようだ。もしもそうでなかったのであれば、彼女が外で手帳を開いているところを、偶然、犯人に見られてしまい、口封じのために襲われたという可能性も考えていたのだが。  手帳を受け取りに行くので家の住所を教えてほしいと僕は森野の母親に頼んだ。  電話を切り、森野の家に向かう。彼女が駅からそう離れていないところに住んでいるのは知っていたが、家をたずねるのははじめてだった。  彼女の家は駅の表側にあるマンションの三階だった。  チャイムを鳴らすと、電話で聞いた声の女性が返事をしながら扉を開けた。森野の母親であることは間違いなかった。 「まあまあまあ、いらっしゃい」  森野の母親はエプロンをして、家庭的な普通の主婦だった。それがいつも見ている森野の雰囲気とはかけ離れていたので、この母親でどうして娘がああなるのだろうかと思った。  家にあがるように勧められたが断った。玄関先で用件を済ませるつもりだった。  手帳の話をすると、彼女はすでに用意していたらしく、すぐに持ってきた。手帳を受け取りながら、中身を読んだかどうかをたずねると、彼女は首を横に振った。 「小さな文字を読むのはめんどうだから」  興味の対象は、手帳よりも僕にあるようだった。 「あの子、二年になってちゃんと学校に行くようになったと思ったら、こういうわけだったのね」  森野は一年のとき、学校が退屈だと言ってあまり登校しなかったらしい。そのことを僕ははじめて知った。彼女の趣味は少し特殊だし、その上、周囲の人間に溶けこむことのできない不器用さがある。だからどうしてもそうなってしまうのだろう。  娘を最後に見たのはいつだったのかを僕はたずねた。 「昨日の、昼を過ぎたころかしら。家を出ていくのを見たわ」 「行き先を聞きましたか?」  森野の母親は首を横に振った。 「娘を捜してくださるの?」  玄関を離れるとき、森野の母親はそうたずねた。  僕はうなずきを返す。  ただし、生きた状態ではないでしょう、とつけくわえた。母親は冗談だと思って笑った。  駅に向かって歩きながら、合成革の表紙をめくって山の名前が連なったページを開けた。  犯人が死体遺棄を考えたであろう山の名前がリストにされている。◎のマークのつけられた山は、特に死体遺棄しやすいと犯人が判断した山にちがいない。なぜなら、◎のついた山が全部で四つあり、これまで死体のあった山はすべてその中から選択されていたからだ。  さて、◎のついた四つの山のうち、三つはすでに死体が置かれている。ということは、残った最後の山へ森野はつれていかれたのではないかと考えられる。  それはN山だった。  N山に行くためにはどの電車に乗ればいいのかを駅員にたずね、切符を買った。  N山に最も近い駅で電車を降り、そこからバスに乗らなければならなかった。N山の麓ではぶどうの栽培が行なわれており、ぶどう狩りの看板をバスの窓から頻繁に見かけた。  車に乗ってN山を訪れたとき、犯人はどの辺りに死体を残していくだろうか。おそらく悲鳴をだれにも聞かれない深い場所で犯人の儀式は行なわれるのだろう。僕にはその場所の見当がつかなかった。  バスに乗っているのは僕と運転手だけだった。車内に貼ってあった路線図を見たり、運転手に話を聞いたりして、N山のうちで犯人の立ち寄りそうな場所にあたりをつける。  僕や森野の住んでいる方面からN山を訪れた場合、ほとんどの車はN山の東側を通る県道を使うはずだという。もともとN山を通る道は少なく、その県道以外の道は僕たちの住む方面には続いていないのだ。  犯人が森野を乗せてN山にくる場合、間違いなくその県道を通っただろう。運転手の話では、今、バスが走っている道こそ、その県道だという。  僕は停留所でバスを降りた。もしも車でN山の奥へ向かう場合、一本、太い道が頂上付近まで続いているという。その道にもっとも近い停留所だった。  頂上への道を歩いた。地面はアスファルトだったが、ほとんど車とはすれ違わない。  わき道がいくつかあり、深い森の奥へと延びていた。それらのどこかに犯人と森野は入ったのかもしれないと考えた。  上り坂を歩くうち、次第に高度が増していく。木々の間から見下ろす町は小さくかすんでいた。  頂上付近まではすぐに辿り着けた。小さな駐車場があり、展望台らしい建物があった。そこから先、車は進めない。歩き始めてそれほど時間がたっていなかったので、疲れはなかった。  僕は森野の死体を捜した。  木々の間を延びる道を歩き、途中で見かけたわき道にも入った。  空は曇っており、森は暗く沈んでいる。絡み合う枝葉の間から、深い木々の連なりが覗いた。  風はなく、蝉の声だけが周囲を包んでいた。  N山は、一人のばらばらになった人体を捜し出すには広すぎる。結局、森野を見つけることは無理だと僕は判断した。  バスの停留所まで戻ったとき、歩きつかれて全身に汗をかいていた。  バスの通る県道脇には、まばらではあるが民家がある。頂上へ向かう道のそばにも一軒あり、その庭にいた老人に、昨夜この道を山奥へ向かった車がなかったかとたずねてみた。老人は首を様に振った。その後で家族まで呼び出して僕の質問を検討しだしたが、結局、車は見なかったそうだ。  森野は昨日、どういう状況でメールを打ったのだろう。  犯人に力ずくで連れ去られたのだろうか。  やすやすついていくほど愚かなやつではないと思う。  それとも、犯人につかまったというのは僕の考えすぎだろうか。  停留所のそばに座り、手帳を読み返す。三人を殺害する様を描写した文章から、犯人の性格を読み取れるほど僕は心理分析に長けていなかった。  汗が手帳の上に落ちてインクがにじみ、文字が一部、読めなくなった。犯人が記述に使用したのは、水溶性のインクだったらしい。  そもそも犯人はどこでこの手帳に文章を書いたのだろうか。犯行の直後、自分の車の中か家に戻った後で書いたのだろうか。おそらく犯行中に書いたのではないだろう。犯行を思い出し、たっぷりと想像に浸りながら書いたにちがいない。  バスが来たので、僕は立ちあがった。時計を見ると、正午を三時間ほど過ぎていた。  山を下りるつもりだった。  もしかしたら、まだ犯人は森野を殺しておらず、家に閉じ込めているだけだという可能性もある。本当にそうなのかどうかを確かめるには直接、犯人にたずねるしかない。  もしもすでに殺害しているのなら、森野の死体をどの辺りに捨てたのか聞き出す必要がある。  なぜならそれを見てみたいからだ。  どっちにしろN山を下りて犯人に会わなくてはならない。もちろん、そうするつもりだった。   † 4  森野が常連になっているという喫茶店は、駅前の繁華街から奥まった場所にあった。場所は以前に聞いて知っていたが、入るのははじめてだった。  話に聞いていたとおり、店内の照明はひかえめで、心地よい暗さに包まれている。静かな音楽が流れていて、それは自己主張もなく空気の中に溶け込んでいた。  僕はカウンター席についた。  店の奥にトイレを示す表示がある。その辺りの床に目をやった。手帳はそこに落ちていたと森野は言っていた。  店内には、僕以外に一人、客がいた。若い女性の客で、スーツを着ている。窓際でコーヒーを飲みながら雑誌を読んでいた。  店の主人が注文をとりにきたので、たずねてみた。 「あそこにいる人は、常連のかたですか?」  主人はうなずいた。そして、それがどうかしましたかと首をかしげた。 「いえ、意味はありません……。それよりも、握手していただけませんか?」 「握手? なぜです?」 「いえ、記念にと思って……」  主人は誠実そうな顔をした男だった。若くはないが、まだ中年というほどでもない。肌の色は白く、どこにでも売っているような黒いTシャツを着ている。  髭は丹念に剃られていた。  彼は最初のうち、僕のことをおかしな客だと思っているようだった。僕が見つめすぎたためだろう。  注文したコーヒーはすぐにできた。 「僕は、森野という女の子の友達なんです。ご存知でしょう?」 「常連ですよ」  彼女はまだ生きてますか、と聞いてみた。  主人は動きをとめた。  持っていたコーヒーのカップをゆっくり下に置き、正面から僕を見た。  彼の眼は濁って、穴のように光のない黒になった。  この人が犯人である可能性は、夕立のとき店内にいた客のだれかが犯人である可能性よりも高いと思っていた。それが正解だったことを僕は知った。 「……何のことかな?」  彼は知らないふりをした。  僕は手帳を差し出した。それを見ると、彼は口元に笑みを浮かべた。尖った白い犬歯が覗いた。 「これは、森野さんが先日、拾ったものです」  彼は手帳を手にとってベージをめくる。 「よく、持ち主が私だとわかりましたね」 「半分以上は賭けみたいなものでした」  僕は、N山に森野の死体を捜しに出かけたことと、そこで考えたことを説明した。  犯人は何を思うのだろう。  僕はまず、手帳を落とした犯人について想像をめぐらせた。  この手帳は何のために書かれたのだろうか。記念のためだろうか。忘れないためだろうか。きっと、幾度も繰り返し読んで、思い出に浸っていたのだろう。  だから犯人は、自分が手帳を落としたことに気づいていないはずがないのだ。  そもそも、手帳をどこに持っていたのだろうか。普通なら、ポケットか鞄の中だろう。落とすくらいだから、ポケットの中かもしれない。トイレで手を洗い、ハンカチをポケットから出そうとして、手帳を落としたのかもしれない。  では、いつごろそれに気づいただろうか。数十分後か、数時間後か……。おそらく一日は開いてないに違いない。  そして、最後に手帳を読んだのはいつだったかを思い返すだろう。その範囲内の時間で自分は手帳をなくしたと考える。それはつまり、自分がその日に動き回った地域と照らし合わせて、手帳を落とした場所をある程度、特定する作業となる。  そしてこれは僕の勝手な思いこみだが、犯人はある程度、せまい地域で手帳を落としたのではないかと思う。なぜなら、手帳を頻繁に見たいからだ。頭の中に暗黒の思考が入り乱れるたびに、手帳を読み返して気を落ちつける。そうやって頻繁に手帳を手にして確認するほど、なくす時間や地域が狭まることにつながる。  それから犯人は探すだろう。地面を見て、手帳が落ちてないか探す。  しかしない。  そこで犯人は考えたはずだ。手帳は、だれかに拾われてしまった。  手帳の中身をだれかに読まれると、いけない。おそらく警察が三人目の被害者を捜索して死体を見つけるだろう。それだけなら別にかまわない。問題は、手帳から指紋を採取される可能性だ。また、筆跡を教えることにもなる。  そう考えた場合、僕ならどうするだろうか。  おそらく、四人目の犯行はおかさない。  もしかしたら警察がこの周辺を調査しているかもしれないのだ。なぜなら手帳は、自分が日常に動き回る範囲でなくしてしまったのだから、犯人はこの辺りにいると警察は考えるだろう。  動くのはまずい。  しかし、しばらくしても三人目の被害者である水口ナナミの死体は発見されない。僕と森野が、手帳を警察に渡さなかったからだ。  犯人は、彼女の死体発見のニュースが流れるのを待っていただろう。僕ならば、四人目は安全が確認できるまでひかえておく。  しかし、森野はいなくなった。  森野の行方不明がただの彼女のいたずらだったという可能性は考えないことにして、僕はなぜその食い違いが起きたのかについて考えてみた。  僕が犯人だとして、四人目を殺すのはどんなときだろう。 ・どうしても我慢できなくなったとき。 ・自分を過信して、つかまらないとたかをくくり、警察をなめているとき。 ・警察につかまることを気にしないとき。 ・手帳はだれにも拾われず、読まれなかったと考えたとき。 ・手帳を拾った人間がその内容を本気にしなかったと考えたとき。  それとも、やはり手帳を落としたことに気づいていないのかもしれない。どれも可能性はゼロではない。しかし、僕はもうひとつの考え方に賭けてみた。犯人は、こう思考したのではないだろうか。 ・手帳はだれかに拾われたが、内容は読めなかった。その結果、警察には通報されず、水口ナナミもまだ発見されていない。  喫茶店の主人は僕の話を聞きながら、興味深そうにうなずいていた。 「それで、どうして犯人が僕だと?」  手帳を彼の手から返してもらい、あるページを開けた。汗で文字がにじみ、読めなくなっている。 「インクが水溶性で、濡れると文字が消えることをあなたは知っていた。犯人は、手帳を店の中ではなく、外で落としたと考えたのではないかと推測しました。森野は外が夕立の時に手帳が落ちていたことを説明してくれました。きっと犯人も、あの夕立の時間に手帳を落としたのではないかと検討したはずです」  犯人が普通の考え方をするならば、店内のだれかが手帳を拾ったと仮定した場合、警察にそれが渡るはずだと思うだろう。しかし水口ナナミの遺体発見のニュースは流れない。 「そこで犯人は、その日、夕立の中に手帳を落としたと結論づけたのではないか。そう僕は推測しました。もしそれなら、激しい雨のために手帳は濡れて、中身が読めなくなる」  あの日、夕立の合間に外へ出たのは店長だけだったことを、森野の話は告げていた。  ほとんど想像の中だけで組み立てた綱渡りのような話を僕が終えると、店の主人は口元をほころばせた。 「確かに、その手帳は夕立の中に落としたんじゃないかと考えた」  森野さんは、うちにいる。そう彼は言った。  この喫茶店の二、三階が彼の家なのだそうだ。  そして彼は手帳を大事そうに自分のポケットへ入れた。僕に背中を向けると店の出入り口に向かい、扉を開ける。  さきほどまで曇っていた空は晴れたらしく、夏の日差しに照らされた外の世界が、店内の薄暗い照明になれた目には白く見えた。店を出た彼は通りへ向かって歩き出し、光の中に消えた。  常連だという女性客がテーブルから立ち上がり、会計をするためにレジの前へ立った。視線を店内にさまよわせた後、マスターは? と僕にたずねたが、僕は首を横にふった。  階段は建物の外にあり、上の階へ行くためには一度、店の外に出なければならなかった。  森野は三階で縛られていた。服装は水口ナナミのままで、手足にロープを巻かれて畳に転がされている。乱暴された様子はなかった。  彼女は僕の顔を見ると、すっと目を細くした。それは彼女の笑顔だった。口にはタオルを噛まされていたので、声は出せなかった。  タオルを取ると、彼女は大きく息を吐いた。 「あの店長、骨折したふりをして、荷物運びを私に頼んだの。気づくとこうなっていたわ」  手足に巻かれたロープを外すのは困難そうだった。彼女をそのまま放り出しておき、僕は部屋の中を見まわす。店の主人は一人暮しだったらしいことが、家の中の様子からわかった。  机の上にメモ用紙らしい白い紙が置かれていた。紙面には無数の小さな十字架が描かれていた。  棚の中に、ナイフのセットが置かれていた。それが殺害に使用されたナイフであることは容易に推測できた。手帳の記述の中にナイフという言葉が頻出している。  森野が転がったまま声をあげ、手足を自由にしない僕のことを非難した。  棚のナイフセットから手ごろなものを選び、それでロープを切った。 「早く逃げないと、店長に見つかってしまうわ」 「彼はこないよ」  おそらく二度とこの辺りには現れないだろう。僕はそのことをほとんど確信していた。口を封じるために僕や森野を殺しに来るかもしれないという可能性もあったが、そうはならないことがなぜかわかっていた。  喫茶店のカウンターをはさんだ会話の中で、僕とあの異常者はどこか心を通じ合わせてしまった気がしたからだ。  彼が静かに店を出ていったのは、僕がだれにも話さないことを直感的に知ったからだろう。  店長は二度と戻らないと宣言する僕を、森野は不思議そうに見た。立ち上がりながら服装を直す。 「あなたにメールだけ打てたけど、見つかってしまって……」  机の上に、森野の携帯電話が電源を切って置かれていた。森野がそのとき持っていたはずの水口ナナミの鞄もある。犯人は、三番目の被害者が持っていた鞄と、四番目の被害者になるはずの女が持っていた鞄とが同じものだったことに気づかなかったのだろうか。それとも、同じものだったから森野を狙ったのだろうか。  丸一日、森野はしばられて転がされていたらしい。よろよろした足取りで階段に向かった。  部屋を出るとき、僕は棚のナイフセットと机の上の紙を手にした。それらは記念にもらっておくことにする。警察がすべてを知ってこの部屋を捜索したとき、犯行に使用した凶器が見つからずに困るかもしれない。もちろん、僕は気にしない。  一階に下りて、店内を覗いてみる。無人の店内に静かな音楽が流れている。  ドアにかけられた『OPEN』という札を裏返し、『CLOSE』にした。  森野は僕の後ろに立って、手首をさすりながらその様を眺めていた。手首にはロープの痕が残っている。 「ひどいめに会ったわ」  彼女がつぶやいた。 「もうこの店にはこないことにする」 「でも、よかったじゃないか。あの人に会うことができて」  森野は首をかしげた。 「あの人って……? そもそも、あの店長はなぜ私をこんなめにあわせたのかしら?」  彼女は、あの店長が殺人鬼だということに気づいていなかった。  僕は持ってきた白い紙に目を落とし、無数に描かれた小さな十字架を眺めた。 [#改ページ]  ㈼ リストカット事件 Wristcut [#改ページ]    † プロローグ  人の少なくなった放課後の教室で僕が帰り支度をしていると、背後にだれかの立つ気配がした。振り返って見ると、森野だった。 「帰る前に、言いたいことがあって」  彼女はそう前置きした。森野とは今日一日を通して言葉を交わしていなかったので、声を聞くのはほぼ二十四時間ぶりだった。 「昨日、ビデオショップで変な映画を借りたの……」  森野はどうやら、その映画の話をだれかにしたくてしょうがなかったらしい。しかし彼女がこの教室で話をするのは僕だけだった。それも、僕が他のクラスメイトと会話をしていない一人でいるときに限っていた。だから今日、帰る直前になるまで、森野は僕にその話をすることができなかったのだ。  僕と森野が話しているのを、教室の隅にいた女子の一群が見て気にしていた。小さな声で、僕たちのことについて話題にしているのがわかった。  最初のうち、僕たちがつきあっているのではないかと推測する者もいた。しかし僕たちはお互いに親しそうな顔をしているわけではなく、ぶすっとした表情で会話をしている。だからみんなは、僕と森野がどの程度の親しさなのかを今でも測りかねていた。  そもそも周囲の人間にとっては、森野がだれかと話をしていることが珍しいのだ。彼女はこの高校に入学して以来、学校内で人と話をすることが稀だった。常に教室内では身を潜めて、下校の時間が来たら静かに消え去るといった、海底を進む潜水艇のような生き方を好んでいるようだった。  制服が夏服でないかぎり、彼女はいつも黒い服を着ていて、長い髪の毛から靴の先まで黒色に包まれている。光を嫌い、闇の中へ積極的に溶けこもうとするかのようだった。  森野に、この学校を選んだ志望動機をたずねたことがある。 「学生服が真っ黒で派手じゃないでしょう、だからこの高校を選んだの。ところで、シボウドウキってこの字を思い浮かべたわ」  彼女は黒板に向かって白いチョークで、『死亡動機』と書いた。そのとき制服から覗いた細い腕が目に入る。一度も日光に当たったことのないような白い肌をしている。  彼女は整った顔をしていたので以前は言い寄ってくる人間もいたそうだが、少し前に起きたある事件から少々事情が変わった。学校内で彼女を相手に、セクハラまがいのことをしようとした教師がいたのだ。森野は隠し持っていた痴漢撃退用のスプレーで冷静に攻撃し、近くにあった椅子でその先生を殴りつけた。僕はその場面をひそかに見ていたのだが、それ以来、森野に声をかける男子生徒はいなくなった。  これからする話は、僕と森野が知り合うきっかけとなった事件である、というわけではない。  しかし、教室で彼女の白い手が目に入るたびに、僕はその事件のことを思い出す。  今年の春先、連日のようにニュースをにぎわせていた連続手首切断事件である。僕はひそかに、その事件へ巻き込まれていたのだ。  それは、まだ森野と一度も言葉を交わしたことのなかった五月末のことだった……。    † 1  篠原は自分の手を見つめて考える。手とはもちろん、脊椎動物における前足の末端部分のことである。自分の手は物をつかむために発達しており、五本の指でパソコンのキーボードを打つことや、コーヒーカップを傾けることが可能である。手が人間のすべてであることはおそらく間違いないだろう。だから手相術というものがある。手相術というのは、手のひらの筋にあらわれた形相を観察することにより、その人の性格や運勢を占うものである。すなわち手はその人間の過去と未来を映す鏡なのだ。  子供のころから篠原は手が好きだった。他人の手が気になってしかたなく、親に連れられて外出した際も、幼い篠原の目に映る町中の雑踏は、人間の集団というよりもむしろ無数の手の集まりだった。小学校に通いはじめても、自分のまわりを歩いているのはクラスメイトというより、二つの手をぶら下げた生物だった。  手以外の部分は人間の本質的な部分ではない。例えば、顔の作る表情、口から出る言葉、それらに真実が混じっているとは、篠原には思えなかった。それにひきかえ、手は揺るがし難いほどの真実を含んでいる。筋の浮かぶ甲。伸びる五本の指。指の先端に耽っている爪と、そこに浮かぶ白い半月。指紋は特に個人を特定する重要な部分である。  小学校低学年のころ、姉の捨てた着せ替え人形の手首を、だれにも気づかれないようにはさみで切り取ってみた。人形の小さな手は、篠原の手のひらの上でころころと転がる。それをポケットに入れて、手首から先のない人形は捨てた。それからひまな時間があると、人形の小さく固い手を親指の腹でなぞった。微少な凹凸の感触は、母や先生からかけられる言葉よりもやさしくしっかりと充実をともなって篠原に何かを語りかけてくる。  犬や猫の前足の先端を|剪《せん》|定《てい》ばさみで切り取ったこともある。剪定ばさみというのは、小さな手首をカットするのに、実に都合がいい。篠原は犬や猫が好きだった。肉球は人間の手にはない部分で、ユーモラスな形状をしている。押すと爪が出入りし、表面には毛が生えている。人間のように物をつかむことはできないが、独特の進化をしていておもしろい。  手が人間のすべてであるという自分の考え方が一般に受け入れられないことは充分に承知していた。周囲の人間を観察していると、頭と口による中身のない言葉ばかりが世界を支配していることに気づかされるからだ。大人になり、職につくと、特に自分のそのような考えは隠さなければならなかった。  しかしふとした瞬間に手のことを考える。五本の指がついた、神が創造したとしか思えないデザイン。それが頭の中をめぐる。  この春、はじめて人間の手首を切断してみた。乳児の手だった。乳母車に乗っていた乳児を見つけ、母親がほんの一瞬そばを離れた際に剪定ばさみで切り取った。  乳児の小さな手は、熱く、ふっくらしていた。切断した瞬間、眠っていた乳児は泣き喚き、篠原の握り締める手から熱が消えていく。篠原は乳児の手をポケットに入れて持ち去り、冷蔵庫に保存した。  乳児の手だけにはとどまらなかった。小学生を気絶させ、暗闇の中で手首を切断した。高校生や、社会人の手を切ったこともある。成長した人間の手首は、剪定ばさみで切断するには太すぎた。しかしのこぎりでは切り口がきたなくなり、篠原の美意識が許さなかった。かといって斧は持ち運ぶのが面倒だった。結局、肉切り包丁で仕事をした。気絶させた人間の手首に思いきり打ちつけると、骨まで鮮やかに切断することができた。  死んだ人間はいなかった。篠原は手が欲しいだけで、殺したいわけではない。手以外の部分は、死んでいようがいまいが関係ない。自分の姿を見られていないかぎり、気絶させたまま放っておくことにしていた。  新聞やテレビの報道によると、病院に運ばれた被害者は、いずれも犯人の顔は見ていないと報告したらしい。篠原は安堵で胸をなでおろす。暗闇に紛れて慎重に行動しているとはいえ、やはり逮捕されるのは心配だった。  手そのものも好きだったし、手首を切断する作業も楽しかった。手とそれ以外の部分とを分ける瞬間、解放感が体を駆け巡る。それは、世界を支配する歪んだ価値観から手を解き放つという行為が我ながら英雄的だからだろう。  職場では、小さな人形の手を切ることもあった。布製で、中に綿が入った手のひらサイズの人形である。小さいため、細かい造形はされていない。指はなく、腕の先端は丸みをおびているだけである。だからといって手ではないというわけではないのだ。これは、人形を作製するために進化した、指のない手なのである。それをはさみで切り取るだけでも、世界と自分との間にあった緊張感が霧散する。  切断した手は、すべて冷蔵庫に入れた。人形の布でできた手や犬猫の前足も例外ではない。何一つ、捨てられるものなどなかった。  一人暮しの篠原の家は、一斉に賑やかとなった。冷蔵庫を開けると、手が並んでいる。それらを触ると、持ち主がこれまで体験した過去や、これから待ちうけているであろう未来がわかるようだった。それぞれの感触は篠原に苦楽となって語りかけ、手がこれまで両親から受けた愛情も、世界から受けた悲しい仕打ちも打ち明ける。  新聞やテレビは連日の篠原の犯行を報道した。いつのまにかリストカット事件という名前で呼ばれている。もちろん篠原にとって、事件の名称などどうでも良かった。  ただ、自分が犯人として憎まれていることが不愉快である。自分達の価値観を押しつけないでほしい。  テレビのニュースを見ながらその不満について子供の手に語りかける。冷蔵庫から取り出して握り締めている子供の手である。 「本当にそうだね、きみの言う通りだよ」  子供の手の凹凸や弾力が、手のひら越しに篠原へそう語った。不安や怒りが溶けて消え、胸の奥に生きていく勇気がわいてくるのを篠原は感じる。    † 2  その化学教師は午前中に行なわれた授業でこう言った。 「昼休みに化学準備室の大がかりな片付けをするのでひまな者は手伝いにきてほしい」  彼自身も生徒が手伝いに来てくれることを期待しているようではなかったし、クラスのほとんどの者が教師の話を聞き流していた。だから、昼休みに僕が化学準備室を訪れたのを見て、その化学教師は意外そうな顔をした。  窓の外は晴れ渡っており、春の暖かい日差しがふりそそいでいる。化学準備室はそれと対照的に暗く、少し肌寒かった。外で遊んでいる生徒達の楽しげな声が、遠くからかすかに聞こえてくる。  化学準備室は狭く、棚がひしめいている。中には薬品や分子構造を示す模型、ホルマリンに清けられた何かの内臓が並んでいた。部屋の窓際に木の机があり、植物や宇宙に関して書かれた理科的な書物や紙片が置かれている。古いタイプのパソコンがあり、かたわらの別の机には、積まれた本に隠れるようにしてプリンターがあった。ブラインドの隙間からもれてくる縞模様の外の光が、空中に漂う埃を浮かび上がらせる。 「ええと、それじゃあまず、この部屋にあるごみ箱を化学講義室に持っていってくれ」  化学教師は、丸められた紙くずでいっぱいになった青いプラスチック製のごみ箱を指し示した。僕は頷いてそれを抱えると、化学講義室に向かった。 「だれがわざわざ好きで昼休みをつぶすんだよ」  授業中に化学教師が手伝ってくれる者を募ったとき、近くの席にいたクラスメイトの一人が、僕に小声で話しかけてきた。自分がそれにどのような返事をしたのかはすでに忘れてしまった。しかし、そのクラスメイトが僕の返事で笑い声をあげたことから、気の利いたことを僕は言ったのだろう。  陽気なクラスメイトたちに調子を合わせるのは簡単だった。テレビのバラエティ番組とドラマをチェックして、適当な相槌と作り笑顔を覚えておけば、大抵は足並みをそろえることができた。そうしておくことで僕は性格の明るい高校生の一人としてみんなに認知され、様々なわずらわしい障害は取り除かれる。  障害というのはつまり、これは僕の幼稚園時代の記憶なのだが、人形の顔をマジックで黒く塗りつぶして四肢を切断しなければいけないという強迫観念のもとにそれを実行し、周囲のものを心配がらせるといったことである。当時、母と幼稚園の先生が僕をちらちらと見て不安そうにしていたのを思い出す。  僕が嘘をつくのが上手になったのはそれからだった。たとえば絵を描くときに使っていたクレヨン。それまでは黒いクレヨンばかりが短くなっていったのだが、意識してすべての色のクレヨンが均等に短くなるよう心がけた。自分がどのような夢見がちな絵を描いたのかは覚えていないが、おそらく虹とか花とかそういうものだろう。そうしておけば周囲の大人達はほっとした。  世間で好かれるような価値観を知り、それを覚えて装うことで、僕は問題のない人間として生活することができる。クラスメイトたちとの特に興味のない会話にも、僕は陽気な調子で参加するという作業をこなさなくてはならない。  僕が化学準備室の片づけの手伝いをすることは、クラスメイトたちにはだまっていた。なぜなら教室での僕はそのようなことをするキャラクターではなかったし、積極的に手伝っていい人ぶっているというイメージを与えるのも避けたかったからだ。  それに、化学準備室の片づけをボランティアで手伝うことにしたわけではない。僕には思惑がある。  僕たちのクラスを教える化学教師には、試験の問題を化学準備室の机で作成するという噂があった。そのメモをごみ箱へ捨てる可能性があり、片づけのついでにそれを手に入れられないかと考えていたのだ。  一年生のとき、僕はたまたまその教師と準備室の片づけをしたことがあった。だから、片づけの手順はあらかじめ知っている。  まず、化学準備室にあったごみ箱を隣り合った化学講義室へ運び出す。そして準備室の整理を行ない、その後で先生といっしょにごみ捨てをする。整理中に次々とごみは増えていくので、それらを捨てるときはおそらく二人がかりになる。それが昨年の例だった。  ここで問題が発生する。このままでは、ごみ箱の中をゆっくり探る時間がないのだ。そのため、僕は次のような計画をたてる必要があった。  片づけを手伝う前に、あらかじめ他の教室からごみ箱を借りて、化学講義室に隠しておく。それから準備室を訪ね、片づけの手伝いをする。  昨年の通りだと、準備室のごみ箱を講義室へ運ぶようにと先生が僕に指示を出す。そうでなかった場合は、際を見て講義室に運びこむ。  学校内のごみ箱は、どの教室も統一されている。つまり化学準備室のごみ箱も、他の教室のごみ箱も、青いプラスチック製の同じ形なのだ。したがって、たとえ僕が、準備室にあったごみ箱と、あらかじめ選びこんで隠していた他の教室のごみ箱とを、講義室でひそかに入れ替えていたとしても、教師は気づかないというわけである。  テスト作成のメモが入っている可能性のある準備室のごみ箱は、教師の片づけを手伝っている間、化学講義室の机の下に隠しておく。片付けの仕上げとして教師と焼却炉まで運ぶのは、他の教室から移動させた方のごみ箱である。  後は、教師とのごみ捨てが終わり、解放されてから、ゆっくり化学講義室でごみの中からメモを探せばいい。  化学準備室を訪ねる前、すでに僕は隣の教室からごみ箱を勝手に拝借し、講義室の机の下に隠していた。準備はすべて整い、しかも昨年と同じように、化学教師は準備室のごみ箱を講義室へ運ぶよう指示した。何もかも順調である。  僕は計画を|覚《さと》られないよう自然な様子で先生に従い、ごみ箱を抱えて化学講義室に入った。二つの部屋は扉一枚でつながっており、廊下に出る必要はない。  計画外のことはそこで発生した。さきほどまでだれもいなかった化学講義室に、人がいた。その人物は講義室の隅にある六人掛けのテーブルにつき、一人静かに読書をしていた。髪の長い女子生徒で、化学講義室の薄暗い片隅に腰掛けているため影の塊のように見えた。今年の春から同じクラスメイトになった森野という生徒であることに、僕は気づいた。  彼女が顔を上げ、準備室の扉から出てきた僕を一瞬だけ見る。教室のほとんど対角線と同じ距離を越えて視線があった。それから興味がなさそうに、彼女は机の上に広げた本へ再び意識を向ける。  彼女も片づけを手伝いに来たのだろうかと思ったが、どうやら違うらしい。計画の支障にはならないと僕は判断した。  森野と話をしたことはなかったが、その存在の特異さは時々、目を引いた。彼女は目立つ生徒ではないが、目立たないことが逆に注目させるのだ。クラスには、活発で光を発しているようなカリスマを持った人間がいる。森野はそれを逆方向へ思いきりわがままに突き進んだような存在だった。楽しげに話しかけてくるクラスメイトたちを容赦なく無視し、常に孤立し、その孤独さを愛しているようだった。  講義室の片隅で読書している彼女を無視し、あらかじめ運んできて隠していたごみ箱と、抱えていたごみ箱とを僕はすり替えた。準備室からもってきたごみ箱は机の下に隠す。森野にその作業を気づかれた様子はなかった。  ごみ箱は森野といっしょに化学講義室の中に放置して、何事もなかったように準備室へ戻る。 「女の子がいたでしょう。彼女、昼休みになるとほぼ毎日、講義室に来るんだ」  化学の教師は言った。化学講義室は薄暗く、学校の中で特に静かな場所だった。ここへ来る彼女の気持ちはわかる。化学講義室は、普段の生活をしている教室とはあきらかに種類が異なっている。時間が止まったような静寂と、活発さを求めない暗さ。生き物の生死を観察するような生臭ささえ染みついているようで、居心地が良いと僕は思う。  僕は化学教師の指図するまま、棚の上にあった段ボールを下ろし、何の薬品の壜が入っているかを調べた。  教師は、準備室にあったパソコンのキーボードへ圧縮空気のスプレーを近づけ、キーの隙間に入り込んだ埃などをとっていた。凡帳面な性格らしい。  結局、最初から最後まで化学教師のそばで忙しく手伝わされ、やはりごみ箱の中を調べる時間などなかった。準備室の整理を終え、大量のごみを抱えて教師といっしょに化学講義室を出る。 「彼女みたいな染めていない黒くて長い髪の毛って、最近、めずらしいんじゃないか?」  教師は化学講義室の森野を振り返りながら言った。彼女の髪の毛はそれほど黒く、美しかった。僕の妹も髪の毛はあんな感じですよ、と教師に返事をする。  森野のほっそりした白い手が、本のページをめくっていた。薄暗い講義室の中で、内部からぼんやりと発光するように、その白さが目に焼きついた。  教師といっしょに焼却炉へごみを運び終え、その場で彼とは別れた。僕は足早に化学講義室へ向かう。午後の授業が始まる十分前だった。  講義室に入ると、すでに森野はいなくなっていた。もう教室へ向かったのだろう。作業をするのに好都合だった。  机の下に隠していたごみ箱を取りだし、だれも来ないことを確認して中を探った。しかし残念ながら、目的としていたものはそう都合よく入っていなかった。  そのかわり、ごみ箱の奥から、紙で厳重に包まれたものが出てきた。中を確認すると、腕の先端が切断された人形だった。  手に載るほどの小さな布製である。足先は残っていた。その造形から推測すると、切断された手には、指などの細かい部分は作られていなかっただろう。単純な作りの人形である。  しかし、手から先がない人形は、僕にある事件を思い出させた。  最近、テレビをにぎわせているリストカット事件である。道を歩いていた人間が、男女や年齢を問わず後ろから殴られて気絶させられ、手首を切断されるというものである。前足の先端を切断された猫や犬も発見され、同じ人間の犯行ではないかと議論されていた。いずれの事件も、ここからそう遠くない土地で発生している。  化学教師……篠原先生本人が、人形をこのような状態にしたのだろうか。  なんのために? ただの遊びだろうか?  しかし僕は、先生がリストカット事件の犯人である可能性を考えた。手を切り取った人形が見つかっただけでそう考えるのは短絡的だとは思う。しかし犯人はこの世界のどこかに確実に存在しており、それが身近にいるかいないかは確率の問題だ。先生が人形の手を切り取る理由に思いをめぐらせた場合、彼の趣味の延長であるという意見を、僕は完全に否定できなかった。  手のない人形を見つけて以来、毎日、教室で僕はリストカット事件のことを考えた。中間試験が近いことさえほとんど意識にはなかった。この猟奇事件は、最近の事件の中では特に僕の気に入っているものだった。犯人の、手に対するおぞましい執着を考えると、僕は興味を引かれる。そしてこう思うのだ。  僕と同じ種類の人間がいる。  もちろん些細な部分で僕と犯人とは違うだろう。しかしそれでも僕は、そういった猟奇的な事件の犯人になぜか親しいものを感じることがあった。  休憩時間になると、僕の足は化学講義室の方角へ向かった。篠原先生とすれ違うためである。彼は僕のことを覚えており、顔を合わせるたびに片手をあげて挨拶を交わす。細身の体で短い髪の毛の、苦い男である。彼が本当にリストカット事件の犯人なのだろうかという、幾度も教室で繰り返した問いが胸の中をよぎる。  一度、篠原先生と森野が化学講義室の前で立ち話しているところに遭遇した。森野が脇に抱えている本を見て、その続きを自分も持っていると篠原先生は話をしていた。精神薄弱者をあつかったノンフィクション小説だった。森野はいつもの無表情さを崩さず、「そうですか」と答えていた。  教室での僕は、あいかわらずいろいろなことを偽って生活していた。できるだけ目立たない平均的な男子高校生として生きることは簡単ではあった。しかし、心の中は連日のニュースで報道される切断された手のことばかりが占めているというのに、いまどきと呼ばれる言葉遣いを使用して、周囲の人間と芸能人の話題ではしゃいでいるように見せかけるのは、つかれることだった。時々、そうしている自分が愚かであるようにも感じた。  森野は篠原先生の言った通り、頻繁に化学講義室へ通っているようだった。昼休みに講義室を覗くと、静かな空間にただ一人、彼女は座っていた。  森野は必ずいつも一人で行動していた。いじめられている、というわけではない。むしろ逆に、周囲の人間とは自分から縁を切っているような態度で、いつも席についている。自分はみんなとは趣味も嗜好も違うのだ、という雰囲気を無言で発散しているようだった。 「森野って、中学のときに自殺しようとしたらしいぜ」  そうだれかが言っていた。僕はそのことを意識して彼女の白い手を見つめる。なぜ彼女が死のうとしたのかはわからない。しかし、きっと森野にとっては生きにくい世界なのだろう。  もしも僕が周囲への演技をやめたとき、今の彼女のようになるのだろうかと考える。  僕が究極的に無感動で慈悲のない人間だと周囲の者たちが知ったとき、どれほど生きていくことが困難になるのだろう。そして、今の状況とそのときに置かれる立場とを比較して、どちらが孤独かというと、それはたいして変わらないにちがいない。  人形を見つけて三日後、僕はある計画を実行へ移すことにした。    † 3  篠原先生の家は、静かな住宅街の一画にあった。二階建てのどこにでもあるような家で、いかにも薄そうな白い壁は夕日のために黄色く染まっていた。周囲に人気はなく、上空の高いところを飛んでいる飛行横の小さな音が、家々の静かな並びの上を通っていく。  篠原先生は二年生のあるクラスの担任をしている。そのクラスにいた知人を通じて、先生の住所や、彼がそこで一人暮らしをしていることがわかった。  腕時計を見る。今日は木曜日で、先生たちはこの時間、職員室で会議をおこなっているはずである。まだしばらくは学校から帰ってこないはずだった。  周囲にだれもいないことを確認すると、門を抜けて家の裏手にまわった。小さな庭があり、物干し台がある。それだけだ。殺風景で何もない庭だった。雑草や昆虫もいない、ただの平らな地面の空間だ。家の裏手、庭に面したところに大きな窓があった。鍵がかかっていたので、手にタオルを巻きつけて叩き割る。耳をすませて隣の家から人がこないのを確認すると、鍵を開け、靴を脱いで侵入した。  リストカット事件の犯人は、人間の手首を切断し、手を持ち去っている。その後、被害者の手をどうしているのかは知られていない。眺めて楽しんでいると推測する人もいれば、食べているのではないかと言う人もいる。本当のところはわからない。しかし、どのような場合でも犯人は家の中にその証拠を残している可能性がある。篠原先生の家でそれを探すこと、まずはそれが目的だった。  割ったのはリビングの窓だった。割れたガラスの破片が洋間の床に散らばっている。踏んで怪我をしないよう、気をつけて歩いた。家の中は凡帳面に整理されていた。テーブルの上に置かれた雑誌、テレビやビデオのリモコンは、それぞれ整然と並べられている。  できるだけ音をたてないように歩いた。篠原先生が突然に帰ってくる場合のことを僕は心配していた。玄関の鍵穴に鍵が差しこまれる音を聞き逃してはならない。見つかる前に逃げる必要があった。  よく磨かれた廊下を歩く。電気をつけていないため薄暗かったが、窓から入る太陽の光が斜めに廊下を横切って壁を照らしていた。  階段を見つけた。僕は壁や手すりに触れないよう気をつけて階段を上がる。たとえ指紋を残しても、先生がリストカット率件の犯人であるなら警察に通報はしないだろう。しかし、僕がこの家に侵入したのだという形跡を、何一つ残したくはなかった。  二階へ行くと寝室があり、デスクトップのパソコンがあった。棚に本が並んでいる。大きさもそろえられ、定規で測ったように背表紙が連なっていた。埃なども見当たらない。  先生が犯人であることを示すものは何もない。  僕は自分の左手首に、右手の中指と人差し指をあてた。脈拍を測る。平常時よりも速くなっていた。それはつまり、自分が緊張しているという証拠である。僕は深く空気を吸いこみ、心拍を落ちつけるよう努めた。  手首のことを考えた。人間が生きているのか死んでいるのかを医者が確認するとき、手首で脈拍を測る。リストカット事件の被書者たちは、今後、どうやって医者に生死を確認してもらうのだろう。彼らに手首はない。  腕時計を確認する。学校では、ちょうど先生たちの会議が終わっているころだった。篠原先生が寄り道をせずすぐに家へ向かっているとしたら、急がなくてはいけない。  二階にある他の部屋に目を通す。箪笥や棚のある和室が二つあった。しかし、篠原先生が犯人であることを示すような手がかりはない。  部屋を出るたびに、自分が何も忘れ物をしていないことをチェックした。生徒手帳や制服のボタン、教科書や靴下……。何かを落としていることに気づかず、そこから身元が判明するというのは、最悪の失敗に思えた。なぜなら、気をつけていれば防ぐことのできることだからだ。  侵入した形跡を残しておらず、靴下も履いていることを確かめて、僕は一階へ下りた。  台所へ向かった。  篠原先生は自炊するのだろうか。食器の数は少なく、整理されている。流しに洗い物もためていない。台所にあるコップや調理器具など何もかもが、店から買ってきてそのまま使われもせず飾られているような生活感のなさだった。  テーブルの上に炊飯器が載っている。一人暮しをしているには大きすぎるサイズのものだった。先生の家族や、その歴史に関する情報はほとんど持ち合わせていない。もしかすると数年前まで先生以外の家族もいっしょに暮らしていたのかもしれない。それとも、特に炊飯器の大きさになど意味はないのかもしれない。  流しのステンレスは綺麗に磨かれて、窓から入る傾いた太陽を反射していた。電気をつけていない家の中は、時間を追うごとに暗くなっていく。流しに反射する色を帯びた光が唯一の光源となっている。冷蔵庫の低い音だけが辺りにあり、どこか化学講義室と同じ静寂さを感じた。自分の気持ちが静かになっていくのがわかる。  僕は台所の中央で自分の手首をとり、再度、脈拍を測った。左手首の皮膚の下で、血管がゆっくり一定の速度で脈打っている。その膨張と収縮の繰り返しが、指先に伝わってきた。平常時の速度である。  それが思いがけず唐突に速くなった。手首の中で、血管が爆発するように激しく脈打つ。  鼻が異様な臭いを嗅ぎ取っていた。何かが腐り、細菌の餌食になっていく臭いである。それからイメージさせるものが、僕の脈速度を上げていた。  臭いの元を探した。棚の陰や、引出しの奥には何もない。それから冷蔵庫に目をやった。  冷蔵庫の取っ手にハンカチをあてて、指紋をつけないよう注意して引く。冷蔵庫の扉を開けるとき独特の、密閉されていたものを引き剥がす音と感触。異臭が強くなり、僕は、篠原先生がリストカット事件の犯人であるという推測に間違いなかったことを知った。  冷蔵庫の冷えた空気の中、ランプに照らされて、手が並んでいた。冷蔵庫内の棚の上で、こちらがわに指先を向けてふせた状態で置かれている。指とその先端にある爪とが無数に連なり、ピアノの鍵盤のようだった。  奥に白い小皿がいくつかあった。犬や猫のものらしい前足の先端が載っている。化学準備室のごみ箱に入っていた人形の手らしいものが、ドアのポケットに入っていた。ただの小さな布の塊だったが、発見した人形と同じ色の布だったためにかろうじて人形の手だとわかった。  僕は、リストカット事件の犯人が切り取った手を保存しているという推測に以前から賛成していた。根拠はなく、ただ自分ならそうするというだけのことだったが、それは当たっていた。  手のひとつをとる。女性のものだ。爪に剥げかけた赤いマニキュアの跡がある。僕の手のひらの上に、冷たい重さがかかる。  死人の肌を触る。いや、死んではいないのだ。被害者はいずれも生きている。片手を失ったまま生活しているのだ。しかし、切り離された手首から先は、死んでいると考えてもいいはずだ。  手は、右手もあれは、左手もある。爪が変色して黒ずんでいるものもあれば、張りの残っている美しい肌の手もあった。  僕は手を幾度も撫でた。そして、篠原先生の心の一端を垣間見た気がした。おそらく普通の人間には理解できないだろうし、先生も自分以外に理解者の存在など信じないだろう。それでも僕は、篠原先生がだれもいない台所で一人、手を撫でて孤独を癒している様が容易に思い浮かぶのだ。  冷蔵庫の中に手があったことで、篠原先生が犯人であることが間違いなくなった。しかし、僕にはそれを警察に通報するという考えなどなかった。本来はそうするべきなのだろうが、興味がない。  ただ、僕の中には別の目的があった。  自分も、人間から切り取った手が欲しい。篠原先生のコレクションを直接触り、さらに強くそう感じる。  僕は冷蔵庫の中を見まわす。さまざまな手が並んでいる。どれも、今なら取り放題である。もちろんどれでもいいというわけではない。欲しい手は決まっている。しかし僕は目の前にある手をすべて、用意していた袋の中へ入れた。  篠原が勤め先の高校から帰ってきたとき、すでに辺りは暗くなっていた。玄関を抜けて家に上がり、居間へ向かう。そこで異変に気づいた。  窓が割られ、ガラスの破片がリビングの床に散らばっている。開け放たれたままの窓から涼しい外の風が部屋に入りこんでいる。何者かの侵入した形跡である。  すぐに考えは冷蔵庫に保存している手のことへ向かった。台所へ向かい、冷蔵庫を開ける。  見たものが信じられなかった。朝のうちは賑やかにひしめきあっていた手が、すべて消えている。人間の手、犬猫の手、人形から切り取った手、それらがみんななくなり、冷蔵庫はほとんど空になっていた。残っているのは、手といっしょに入れていたわずかな食料だけである。  何かひっかかるものを感じた。それが何かはわからない。リビングに散らばっているガラスを片付けて綺麗にしなければいけないことと、消えてしまった手首のことで頭は一杯で、正常に思考ができなかった。  二階へ行き、パソコンを起動させて椅子に座る。  何者かが侵入して手を奪った。持って行かれた手のことを考える。  パソコンの載っている机の表面に、透明な水滴が落ちた。それが自分の頬を伝って顎先から落下したものだと知り、いつのまにか自分が泣いていることに篠原は気づいた。  これまでの人生の中で、切断したいくつもの手に触れたときほど、他人と親密に言葉を交わしたことはない。だれかが傍から見れば、自分は無言のまま何をしているのかわからないように思えただろう。しかし篠原は、何も言わない冷たい手の凹凸や弾力に触れることで世界と確かに言葉を交わし合っていた。  呼吸ができないほどの息苦しい怒りに襲われる。警察に通報されることを恐れてはいた。しかしそれよりも、自分から手を奪い去った人間に対する報復の方が重要だった。  手を奪っていった泥棒は、自分のしたことに値する罰を受けなければならない。これまでだれひとり殺さなかったが、その人物は最初の例外になるだろう。  泥棒をつかまえる。篠原は誓った。それからその人物の手首を切断し、手を救出する。後は首を締めるか心臓を刺すかして死に至らしめなくてはいけない。  それにしても犯人をどうやってつきとめればいいのだろう。篠原はパソコンの画面の前で両肘をつき、考えこむ。  キーボードの隙間にある埃が気になった。かたわらにいつも置いている圧縮空気のスプレーに手を伸ばしかける。そこで動きを止めた。自分の目が、キーボードの上であるものを発見した。  間違いない。それは犯人の落としていったものだった。それ以外には考えられない。小さなもので、見落としてしまうところだった。自分が気づいたのも奇跡に近いと篠原は思う。  それから冷蔵庫の中のことを思い出した。先ほど感じた違和感の正体がわかり、笑いがこみあげてくる。手を盗んでいった泥棒は失敗をしている。本当に惜しい間違いをおかした。そのために愚かにも自分の正体を知らせてしまったのだから……。    † 4  次の日の朝、篠原は内切り包丁を鞄に潜ませて勤め先の高校へ来た。いつも手首の切断に用いている包丁である。鞄の中にちょうどそれは収まった。職員室で同僚の教師たちと挨拶を交わすが、だれも鞄の中身には気づかない。  朝の校内は慌しい。職員室の外の廊下を、生徒たちが話をしながら足早に行き交う。もうじき一学期の中間試験がはじまるため、職員室のいくつかの机には、作成した試験問題の紙が置かれている。  同僚の教師が、もう篠原先生は問題を作りましたか、とたずねてきた。それに対して笑みを浮かべて答えを返す。このわずらわしい作業の上で自分の人生は成り立っていると篠原は思う。内心、いらついた。手。手だ。同僚の教師というよりも、手だった。最初に手があって、そこに同僚の教師と篠原の考えている人間がくっついているのだ。だからこのような会話に意味はない。  午前中は授業があり、手を盗み出した泥棒へ会いに行くことはできなかった。しかし、その正体はわかっている。早く捕まえて、冷蔵庫から盗み出した手の在り処を問い詰めなくてはならない。  まだ一晩が経過したばかりである。盗み出された手は、無事にどこかへ保管されていると信じたい。  手の隠し場所がわかったら、肉切り包丁で泥棒の手を切り取らなくてはいけない。体のほかの部分といっしょに、手まで死なせることはできなかった。それならばいっそ自分のものにしたい。  午前中最後の授業を、篠原は自分の担任するクラスを教えて過ごした。教室中の無数の手が、篠原の書いた黒板の文字をノートに書き写す。篠原のクラスには四十二人の生徒がいるため、手の数は八十四個ある。  篠原は試験範囲を説明しながら、冷蔵庫の中から盗み出されていた手について考えていた。  泥棒は食材だけ冷蔵庫に残したまま、手だけをすべて持ち去った。最初は気づかなかったが、そこがあまりにも不可解だ。  やがて、授業の終わりを示すチャイムが響く。高校はこの瞬間に午前中の授業をすべて終え、昼休みへと移る。  篠原は授業を終えて教室を出る。包丁の入った鞄は職員室に置いていた。それを取りに行く。  昼休みに入ったばかりの廊下は、一日のうちでもっとも騒々しく、賑やかである。もちろんそれらはすべて、篠原にとっては雑音にすぎない。  職員室でしばらく時間をおき、篠原は化学講義室へ向かった。    †  僕は昼休みになると化学講義室へ向かった。扉を開けて中を確認すると、だれもいなかった。入って扉を閉める。校内の騒々しさから切り離され、化学講義室は、時間の止まったような静かな空間となる。  手首で脈拍を測ると、全力で走った後と同じ速度で血管が脈打っているのがわかる。自分の肌が固く張りつめており、それは僕が緊張しているからだった。  篠原先生は昨日、家に帰りついてからどうしただろう。手を盗まれているのを知り、どう思っただろう。怒りのために何も判断できない状態になっただろうか……。すべては推測するしかない。  午前中は篠原先生に会わなかったが、もしも会っていれは、知らないふりをしてやりすごすつもりだった。気をつけなければいけない。何かおかしな仕草をしてしまえば、たちまちすべてを見通される危険があった。しかしまだ、僕が手を盗んだことには気づかれていないと思う。もちろんそれは、たんなる希望でしかない。  ……もしかすると僕は、自分で気づいていないだけで何かミスをおかしているのかもしれない。しかしそれが何かは当然わからないのだ。もしもミスがあり、それが何なのかを復讐心にかられた篠原先生に指摘されることがあるとすれば、それは高い確率で僕の命が危険である瞬間だろう。  薄暗い無人の化学講義室内を眺めてそう考えていたとき、化学講義室の扉の前に、だれかの立つ気配がした。    †  篠原は化学講義室の扉を開ける。一人の生徒が見えた。その顔を見た瞬間、激しい衝動を感じた。  ぶちのめしたい。胸に膨れ上がる感情を押さえつけ、軽くあいさつをする。まずは知らないふりをして近づこうと考えていた。  その生徒が篠原を見る。 「こんにちは先生」  何気ない、いつもと同じ様子である。しかし内心では自分のことを笑っているのだろうと篠原は思う。この生徒はこうやって演技をして自分に近づくことで、楽しんでいるにちがいない。手首を盗まれて動揺している自分をただ眺めるためだけにこの化学講義室へ来たのだろう。  篠原は吐き気にも似た怒りを隠しながら、その生徒のそばに歩み寄った。この生徒はまだ気づいていない。手首を盗んだ泥棒の正体に自分が気づいているのだということを、この生徒はまだ愚かにも気づかないまま逃げようともしない。不審がられずに背後へ立つのは容易にできた。  ……泥棒は、切り取った人形の手まで持ち去った。だれがあれを手だと認識できるだろう。ほんの小さな人形の手の先端部分である。指などの造形はない。切り取られた人形の手は、ただ少しの綿を包む半球の布である。それなのに犯人は、他の手といっしょにそれを持ち去った。  あれが手だとわかり、持ち去ることのできた人物……。それはもちろん、手の切り取られた人形を偶然に見てしまった人間だけだろう。おそらくその人形の発見を発端として、自分を教える教師がリストカット事件の犯人であることを推測したに違いない。  篠原は、目の前にいる生徒の肩に、自分の右手を置いた。生徒の肩が、震える。ゆっくりと首が回り、篠原の方に顔を向けた。 「……なんですか、先生」  演技が上手いものだ、と篠原はその生徒に対して思う。  手先のない人形は、化学準備室のごみ箱に捨てていた。それを見ることのできる人物は限られる。  すなわち、化学準備室の片づけをしたあの昼休み、化学講義室に置いていたごみ箱の中身をあさる時間のあった人物、森野という女子生徒のみである。自分を手伝ってくれていた男子生徒には、その時間はなかったはずだ。 「先生、この手を|退《ど》けてください。読書の邪魔です」  いつも通り化学講義室の片隅で読書をしていた少女は、珍しく眉を吊り上げて篠原に言った。記憶にある限り、この少女の表情が変化したのははじめてだった。  昨日、パソコンのキーボードの埃を見ていて気づいた。キーの隙間に、黒く長い髪の毛が落ちていたのだ。広い家の中でたった一本の髪の毛を見つけられたのは偶然だろう。篠原の髪は短かったため、自分の髪の毛であるはずがない。侵入者が長い髪の毛の持ち主であることがそれでわかった。  それに本棚。目の前の少女が読んでいる本の続編が本棚に並んでいる。それが微妙にいつもと位置がずれていた。背表紙は凡帳面にそろえている。五ミリメートルでもずれていればわかった。おそらくこの女がそれを見つけた際にうっかり手をのばしてしまったのだろう。  疑いようがない。手を盗んだ泥棒は目の前にいるこの生徒だ。  篠原は、森野の肩に置いた手へ力を加え、強く握り締めた。そのまま、握りつぶそうと思った。森野が顔をしかめる。 「手を、どこに隠したのか言いなさい」  できるだけ紳士的に、篠原は命令した。しかし、森野は痛みを訴えながら篠原の手から逃げようとするばかりで返事をしない。机の上に広げられていた本が、床に落ちる。 「手は、どこにありますか?」  力を緩めて、聞き取りやすいようゆっくりとたずねる。いつもなら何を話しかけても無表情な様子で篠原をあしらっていたその生徒は、わけがわからないといった顔で首を振る。  知らないふりをしているのだ、と篠原は思った。そう考えた瞬間、いつのまにか少女の細い首に手を回し、力をこめていた。  森野が大きく目を広げて自分を見る。驚愕する顔である。やわらかい首の肌に、自分の手や指が食いこんでいく。自分は今この少女を殺そうとしているが、それもしかたのないことだな、と篠原は考えた。それで、そのまま力を加えつづけることにした。  もうしばらくこうしていれば、この女子生徒は動かなくなるだろう。そう考えたときだった。篠原の視界の端で、森野が小さな細長い円筒状のものを手にしているのが見えた。何かのスプレーだと瞬間的にわかったが、それに気づいて意識したとき、すでに射出口は目の前にあった。  圧縮されたガスの吹き出る音。篠原は目に激痛を覚えた。    †  森野は痴漢撃退用のスプレーを携帯していたらしい。篠原先生はそれをあびせられて、その上、椅子で頭を殴られた。  森野は大声で人を呼んだ。悲鳴などではなかった。ただ冷静に、大きな声で人を呼んだ。  しばらくすると声を聞きつけた生徒や先生たちが講義室に集まった。篠原先生は、野次馬たちの騒ぐ講義室の中心で床にはいつくばり、痛む目を押さえていた。  化学講義室が人であふれ返ったどさくさにまぎれるまで、僕は隠れていた教壇の裏から出ることはできなかった。    † エピローグ  篠原先生は警察に逮捕されたが、リストカット事件の犯人としてではなく、もっとみじめな罪で社会から制裁を受けた。今でも彼の本当の罪を知っている人間はいない。  彼は今、教師の職をおわれて遠い地に住みついている。リストカット事件はその後、新しい被書者を増やすことはなかった。  先生の家から持ち出した手は、すべて僕の家の庭先に埋めていた。それらはあまり必要のないものだった。なぜなら僕は、篠原先生のように手ならなんでもいいというわけではないからだ。  あのとき、森野が手を盗んだ犯人であると先生に思わせようとした。  先生の家で冷蔵庫の中を確認し、予想通りすべての手を捨てずに保存していることを僕は知った。その事実と人形の手を利用して先生の意識を森野に向かわせることは、家に侵入する以前から考えていた。人形の手について気づくほど、先生が頭のいい人間で良かったと思う。ただ、僕がごみ箱をすりかえて、後でゆっくりあさる時間があったことを先生は知らなかっただけなのだ。  さらに、森野と同じ黒く長い髪の毛を、先生の家に残してきた。うちで採取した妹の髪の毛が、それには都合がよかった。どこにそれを置けば発見される確率が高いのか、化学準備室の片づけをする際、先生がキーボードの隙間の埃をスプレーでとっているのを思い出して考え付いた。  たまたま本棚にあった森野に関係した本をずらしたのは、わざとらしい駄目押しだったかもしれない。  森野が手を盗んだ泥棒であると判断し、先生が彼女を殺して手を切断すれば、僕の計画は完成だった。後は先生が彼女の切断した手を冷蔵庫に保存するのを待って、それを盗みに行けばいいのだ。もちろん様々な部分に不確定な要素は多くあった。そもそも、先生が森野を殺したとして、必ず手首を切断して持ち帰るとはかぎらないのだ。しかし達成できる可能性はゼロではなかった。  僕が欲しかったのはただひとつ、森野の優美な白い手だけだった。 「私にも、その表情のつくりかたを教えてくれる?」  教室で放課後、はじめて森野が僕に話しかけてきたとき、彼女はそんなことを言った。  僕はたいてい、だれかと話をするときは微笑みを絶やさなかった。しかし、内心ではまったくの無表情であることを、森野はなぜか気づいていたらしい。だれにも見破られなかった演技を、彼女の嗅覚はかぎとったのだ。  それ以来、僕たちはお互いに話し相手を得た。それは友人と呼べない冷たい関係だったかもしれない。しかし、彼女と応対するときだけ、僕は演技をせず思ったことをそのまま顔表面の皮膚に伝えることができた。したがって僕の額の筋肉は休憩時間を得たわけである。それはつまり、みんなにひた隠しにしていた僕の心の無表情さや非人間的な部分を、森野は心地よい無関心さで許したということだった。  世間の人がリストカット事件のことを忘れてしばらくたった。学校では夏休みが終わり、二学期がはじまっている。  放課後の傾いた日差しが校庭を黄色に染めている。教室の開け放した窓から風が入り、僕の机の前に立つ森野の長い髪の毛を揺らす。 「……それでその映画、本物のフリークスが俳優として起用されているんだけど、すごく変な話だったわ。フリークスたちがおみこしみたいなのをかついでいたりするの」  森野の話を聞きながら、僕は心当たりのある映画の題名を言ってみた。彼女はひかえめに少しだけ驚いた顔をした。それは表情をあまり変えない彼女の、驚愕に値する顔だった。 「正解」  ドイツの女性監督の映画である。そしてこのような変な作品に興味を示すのは、僕の知るところでは自分と森野だけだった。 「ところで、リストカット事件って覚えてるかい」  僕は話題を変えた。 「春ごろに起きていた事件ね」 「もしもきみがその被害者になっていたら、今ごろどうしてた?」  森野は自分の両手昔をじっと見つめた。 「……たぶん、腕時計を巻くたびに困っていたでしょうね。でも、なぜいきなりそんなことを聞くの?」  森野は不思議そうにした。  今でも彼女は、痴漢だと思って撃退したのがリストカット事件の犯人であることに気づいていない。そして僕は、時折、今でも彼女の手に見とれるのだ。もしかすると篠原先生に切断させなくて良かったかもしれないと思う。それは、生きている方が美しいといったことではない。篠原先生は間違った個所で切断してしまいかねなかった。 「別に、なんでもない」  そう返事をして、下校するために立ちあがる。  僕が森野の手を欲しいと思ったのは、自殺しようとしたことを示すリストカットの美しい傷跡が手首に残っていたからだ。 [#改ページ]  ㈽ 犬  Dog [#改ページ]    † 1  点々と血を滴らせながら、相手は草の茂みへ逃げこもうとする。しかし、私にとって前に回りこむのは簡単だった。その四本足の動物は全身に傷を負い、すでに体力を消耗しきって動きを鈍らせている。  私はそろそろ、相手を楽にしてあげたいと思った。もう反撃をするような強い意志など、残っていないだろう。  私はその動物の首筋を、上顎と下顎の間にはさんだ。口の中で、相手の首の骨が折れる。その音と感触が、顎から伝わってくる。その動物は脱力し、私の顎にぶら下がった。  容赦はしない。本当はこんなことしたくはないのだけど、ユカがこうすることを望むのだ。だから私は、相手を殺す。  上顎と下顎を開けると、口からその動物の体が落下する。地面に力なく横たわる。瞳に光は無く、完全に沈黙している。  私は吠えた。  この四本足の動物は、さきほど私とユカが橋の下へつれてきたものだった。ある家の前を通りかかったとき、ユカが立ち止まって、品定めをするように門の奥を見ていたのだ。彼女の視線の先を見ると、この動物が首を傾げて私たちを見返していた。ユカが私を見て言った。  今夜の獲物はこの子にしよう。  私は、ユカの話す言葉が理解できるというわけではない。でも、何と言っているのか、漠然とわかる。  この儀式は時々、夜に行なっている。これで何度目になるだろう。町で見つけた獲物を、私とユカだけが知っている橋の下の秘密の空地へ連れていく。ユカは、そこで私と彼らを戦わせる。  彼女の命令に私は従う。ユカの命じるまま、私は地を駆ける。相手に飛びかかり、はね飛ばす。獲物となる四本足の動物は、いつも私より体が小さい。だから私が本気でぶつかると、相手は簡単に転がり、傷を負う。体毛に血が飛び散り、骨が折れる。  私が勝つと、ユカは微笑む。嬉しそうにする。言葉は通じないが、彼女の感情は、川の水のように私の中へ流れこんでくるのだ。だから、彼女が喜んでいるのだということがよくわかる。  ユカは、私が小さかったころからの友達だ。彼女にはじめて会ったとき、私には、いっしょに生まれた他の兄弟たちがいた。彼らと母親の懐に抱かれて眠っているとき、ユカは好奇心旺盛な顔で私を見下ろしていたのだ。そのことをいまだに覚えている。  私の吠える声は、半分、夜の空を渡る。もう半分は、橋の底に反響して巨大なうねりとなる。頭上近くにかかる巨大な橋は夜空の多くを占めており、見上げると裏側が黒い闇となっている。  幅の広い大きな川に、巨大な橋がかかっている。橋の|袂《たもと》から土手を下りた川辺は、一面に広がる背の高い草の海だった。その中を進むときは、草を掻き分けなければいけない。しかし、橋の下の辺りに、草の生えていない小さな空間がある。そこだけ日当たりが悪いのか、円形の空地となっている。私たちが、今、そこにいた。  夏の日に私とユカはその空地を発見した。真ん中に立つと、まわりを草の壁に囲まれているように見える。発見して以来、そこは秘密の遊び場所だった。  しかし今、空地は、ユカが私を戦わせる場所になっている。  私は、他の動物を噛み殺したくはない。でも、ユカがそうしろと望む。そのときの彼女の目は、光のない真っ暗な夜のようだった。  ユカは、円形の空地の、端の方に座って私の戦いを見ていた。その彼女が、立ちあがる。  帰ろう。  そう考えていることが伝わった。私たちの絆に言葉はいらない。  |屍《し》|骸《がい》をくわえて、穴へ捨てに行く。空地から|叢《くさむら》の中へ少し分け入ったところに、その穴はあった。  放りこむと、小さな相手の体は穴の縁にぶつかり、力なく転がって落ちる。それほど深い穴ではないが、底は暗くてよく見えない。私の耳は、相手の体が穴の底に着地する音を聞いた。  穴はもとからこの場所にあった。だれかが何かを埋めようとして掘ったものかもしれない。闇の中に沈んで見えないが、穴の底にはユカが私に殺させた無数の動物の屍骸が敷き詰められているはずだ。近寄ると、穴からはひどい臭いがした。  はじめて橋の下でこの儀式をやったとき、そこへ屍骸を捨てるようにユカが命令した。私はそのころ戦い方がわかっておらず、相手の屍骸と同じくらいに自分もぼろぼろになっていた。相手と向き合っても、頭が真っ白になるだけで、どうすればいいのかわからなかったのだ。でも、今はもう戦うことになれていた。冷静に相手を殺すことができる。強くなった私を見て、ユカは満足そうにする。  噛みついた際に抜けた相手の体毛が、私の口の中に多く残っていた。それを飲みこみながら水のある場所へ向かった。高い草の中を少し進むと、急に視界が開ける。  広大な流れる水が広がっており、雑草の林はそのほとりで急に途切れている。水はあまりにも黒く、川というよりも、巨大な樹がただ広がっているだけのように見える。頭上の席に並んでいる電灯が、対岸まで川面に点々と写りこんでいた。私は川の水で血に塗れた口を洗い、ユカの待っている空地へ戻る。  ほら、もう行くよ。  ユカがコンクリートの階段へ向かいながら、そのような意味の声を発した。階段は、土手の斜面に合わせて作られており、川辺に広がる雑草の中から橋の袂まで続いている。空地から階段のある場所まで、やはり草の茂みを通らなければいけない。彼女のそばに駆け寄り、いっしょになって階段を目指した。  階段を上がっている途中、そばの叢を振りかえる。  草の尖った葉の先端が、ゆっくりと左右に揺れていた。一瞬、だれかがそこにいるのかと身構える。私は緊張した。耳をすませ、気配を感じ取ろうとする。しかし、どうやら風のせいだったらしい。  ユカはすでに階段を上がりきったところで、私がくるのを待っていた。私は階段を駆け上がり、秘密の場所を後にした。    †  一日の授業が終わって学校を離れた僕は、駅前でクラスメイトの森野と合流した。駅前には大きなバスのターミナルがあり、噴水や花堀のあるちょっとした広場となっている。いくつかベンチが設置され、ひまな時間をもてあましている人々がそこに座る。  森野はベンチのひとつに腰掛けていた。通りから離れた場所で、植木が太陽をさえぎって日陰となっている。彼女はいつもひまな時間は本を読んでいる。しかし今は違っていた。本は閉じてかたわらに置いている。  彼女はベンチに前傾姿勢でうつむいていた。そのため、長い髪の毛がベールのように顔を隠していた。  僕が近寄ると、彼女は顔を上げ、振り向いた。太陽とは縁のない陶器のような白い顔で、左目の下に小さなほくろがある。人形のように生気の感じられない顔立ちである。動かなければ、マネキンの仕事ができるだろう。  彼女は無言で地面を指差した。白い石の板が歩道一面に敷き詰められており、彼女の足元に、小さなごみくずのようなものがある。よく見ると、少しずつ動いている。  蝶が蟻に解体されて運ばれようとしている。蟻の顎に支えられ、ヨットの帆のように立ちあがった蝶の羽根が、地面の敷石に影を落としている。彼女はそれを熱心に見つめていたらしい。  駅前で待ち合わせをしなければならない必要が、あるわけではなかった。スケジュール的には、いっしょに学校を出て、並んで下校してもよかった。しかし、彼女は学校で少々、知名度が高い。風貌や雰囲気、彼女にまつわる逸話などのせいで、歩いていると、振りかえられる場合が多い。そのように目立つ彼女と、あまり頻繁に並んで歩いているところを見られたくなかった。  もっとも、彼女は周囲のそのような雑音を気にしている様子がない。それは、他人を意識するという回路が断線しているからだろう。あるいは、注目されているなどとは気づいていないだけかもしれない。彼女には、少し鈍感なところがあった。 「では、行きますか」  彼女はそう言うと、立ちあがって歩き出した。僕も同じ方向に向かう。これから、彼女がいつも通っている古本屋に案内してもらう約束だった。 「私しか客がいないような、小さな店なの」  教室で店の名前を聞いたが、僕の知らない古本屋だった。彼女に大まかな店の位置を教えてもらったが、聞いただけではよくわからない。  黒板に地図を描いてもらったが、彼女の描く地図は地球上のどこにもありえないような地形で、解読が困難だった。白いチョークで線をひきながら、彼女自身、なぜ川の中にその古本屋が建っているのかを不思議がっていた。そこで、実際に案内してもらうことになったのだ。  店の並んでいる区域を抜けて、住宅地へ彼女は入る。空は晴れており、太陽が背中に当たるのを感じた。道は前方にまっすぐ延びて、両側に一戸建ての家が並んでいる。歩きなれている道なのか、森野は淀みなく歩みをすすめていた。 「最近、近所で起こっているペットの誘拐事件、知っているかい」  僕は彼女に尋ねた。 「ペット誘拐?」  彼女は首を傾げた。どうやら知らないらしい。僕は、歩きながら説明した。  うちの近所の家で飼われていた犬が、朝、起きると、忽然と消えていたそうだ。朝食の席で父と母がその話をしていた。 「最近、多いわね」  母がそうつぶやいていた。僕はテレビなどで異常な犯罪の情報をこまめに調べていたが、近所の事件については母の方が詳しかった。  母の話では、一週間のうちに二回、水曜と土曜の朝、庭で飼っていた動物が消えているのだという。ということは、火曜と金曜の深夜に犯行が行なわれているということだ。消えたペットは、すべて犬だった。最近は誘拐されることを警戒して、夜になると飼い犬を家の中にいれておく家が増えたという。  僕の話を、森野は熱心に聞いていた。僕が知っていることを話し終えても、彼女は、「他に情報はないの?」と知りたがっていた。首を横にふると、彼女は何か考えるような素振りを見せた。  ペットの誘拐事件が彼女の気をひくというのは少し意外だった。知り合って以来、彼女が犬や猫、ハムスターなどの話題を持ち出したことはなく、動物には興味がないのだと思っていた。 「その誘拐犯人は、あれを連れ去ってどうしているのかしら?」 「あれ?」 「嫌な臭いのする四本足の動物よ。うるさく吠えるやつ」  犬のことだろうか。彼女は前方を見据えながらさらにつぶやいていた。 「わからないわ。あの動物をたくさん集めて何をたくらんでいるのかしら。軍団を組織するつもりかしら。さっぱりわからない」  ひとり言のようだったので、僕は特に返事をしなかった。 「ちょっと待って」  古本屋に向かって隣を歩いていた森野が、急に立ち止まる。僕も歩くのをやめた。  正面の遠くにあるT字路の突き当たりまで、まだ道は続いている。僕は彼女に、なぜ立ち止まったのか理由を聞かせてほしいという意味をこめて視線を向けた。 「静かにしてっ」  彼女は人差し指を立てた。  視線を向けただけの人間にそのような台詞を吐くほど、彼女は気が立っているらしい。耳をそばだてて、何かの気配を感じ取ろうとしている。  僕には、特別な物音は何も聞こえなかった。ただどこかで犬が鳴いているだけである。その他は静かな午後だった。じっとしていると、背中に当たる太陽の暖かさばかりが感じられた。 「だめだわ、この先は通れない」  やがて彼女はそう言いきった。  道の先をよく見たが、特に工事をして通行止めになっているような様子はなかった。実際、老人の乗った自転車が、ゆっくりと僕たちの横を通りすぎていく。 「古本屋はあきらめましょう。この道、以前は通れたのに……」  理由をたずねてみたが、彼女は悔しそうに、首を横にふるだけである。これまで歩いてきた道を、彼女は戻り始める。  森野は普段、だれにどう思われようと自分を貫く部分があった。クラスメイトたちには染まらず、他人のどのような言葉も気にかけない。ほとんどの時間を一人、無表情に過ごしている。そのような彼女から、ここまで悔しそうな顔を引き出して敗北させるのは、よっぽどのことがあると感じた。  もう一度、僕は道を調べた。通りの両隣には家が並んでいる。少し先にある家の門から、犬小屋が見えた。最近、飼い始めたのだろうか、真新しい犬小屋だった。わずかに、そこから犬の息遣いが聞こえる。それ以外の音を、僕は探した。最初、犬のことは頭から切り離していた。  気づくまで、しばらく時間がかかった。  そのうちに森野は足早に二十メートルほど道を戻っていた。後を追いかけると、再び彼女は立ち止まり、片手を水平に上げて僕に注意した。 「危ない。これ以上、進まないで」  彼女は視線を先に向けたまま、下唇を噛んでいた。 「はさまれたわ」  緊張を|孕《はら》んだ声で彼女はうめいた。  道の先から、大きな犬をつれた女の子が歩いてくる。  犬はゴールデンレトリバーである。豊かな毛並みをしていた。首輪につながった紐を女の子が握っている。背が低く、痩せ細った女の子だった。小学三年生ぐらいの年齢だろうか。肩までの髪の毛が、歩くたびに跳ねていた。  横を通り過ぎる瞬間、僕は、彼女の連れた犬と目があった。前足を踏み出すたびに上下する犬の瞳の表面に、僕の姿が映りこむ。  深い黒色の、知的な目をしていた。僕は吸い寄せられるようにその瞳を見つめる。  目の表面に映りこんでいた僕の姿が消えた。犬は僕から視線を外し、女の子を見上げる。  やがて犬を連れた少女は僕の横を通りすぎて、すぐそばの家へ入っていった。赤い屋根をした平屋の建物である。 「ただいま……」  そう言った少女の声が聞こえる。ゴールデンレトリバーも玄関を抜けて家に入った。外に犬小屋などが見えない。中で飼っているのだろう。  少女と犬がいなくなると、壁際にぴったりと体を寄せていた森野が何事もなかったように歩き出した。特別に何かコメントがあるだろうと思っていたが、無言だった。態度も表情もいつも通りだったため、森野にとってさきほどのことは日常のありふれた儀式なのだと理解する。 「この道が、こんなに危険だったなんて知らなかったわ」  彼女は悔しそうに言った。他の道を使って古本屋に行けないのかとたずねたが、それだと非常に遠回りになるので面倒だそうだ。彼女はすでに案内する気が失せているらしい。  森野の隣に追いつきながら、僕はまた犬が消え去る事件のことを考えた。なぜ、一週間に二回、火曜と金曜の夜に活動するのだろうか。持ち去られた犬は、その後、どのような運命をたどったのだろうか。  僕や森野は、異常な事件や、それを実行した者に対して、暗い魅力を感じる。心が切り裂かれるような、悲痛な人間の死。叫び出したくなるほどの不条理な死。それらの新聞記事を切り抜いて集め、その向こう側にある人間の心の、深く暗い底無しの穴を見つめるのが好きだった。  そういったものに対する興味は、一般的に悪趣味と呼ばれるようなものだろう。しかし、まるで魔法のように、僕や森野を魅了する。  今回の事件は、特別に異常な事件というわけではない。ただの飼い犬の誘拐だ。しかし、すぐ身近で行なわれているということが気になった。外国の大火事よりも、身近なぼや騒ぎのほうがおもしろいこともある。 「連続飼い犬誘拐事件の犯人がどんな人か興味ないかい」  僕は森野に話を持ちかけた。 「わかったら教えてちょうだい」  彼女は無表情にそう言ったが、その事件……具体的には犬……には近寄りたくないという意思が隠れているように思えた。    †  家には、私とユカ、そして「ママ」が暮らしている。でも、「ママ」はいつも家にいない。朝になると外に出ていく。遅いときは夕方まで戻ってこない。その間、家の中は私とユカだけのものになる。  私とユカは小さなころからいっしょだった。生まれてすぐ離れ離れになった兄弟たちのかわりに、いつもそばには彼女がいてくれた。  ユカはたいてい、いつも寝転がってテレビを見て過ごす。私はそんな彼女に寄り添い、広がっている新聞や雑誌の上に横たわる。寝転んでいる彼女の背中に、顎を載せる。  テレビに飽きると、私たちは起きあがっていっしょに背伸びをする。ユカが台所や洗面所を行ったりきたりする。私は置いていかれまいとその後を必死でついてまわる。  その後で散歩へ行く。散歩も好きだ。私とユカはいっしょに歩く。私たちの間は、散歩用のひもで結ばれている。私が間違った方向へ歩き始めると、ユカが「そっちじゃないよ」と眉間にしわをよせる。  時々、知らない人間が家にくる。大きな、人間の男だ。「ママ」が外から帰ってきたとき、そいつをいっしょに連れてくる。  そうすると、家の中の空気に、嫌な臭いが混じる。それまで私とユカの楽しかった雰囲気が、急にしぼむ。  そいつは家にあがると、まず私の頭を撫でる。「ママ」に笑いかけながら、そうする。でも、決して私と目を合わせようとはしない。  そいつの手の感触を頭で感じながら、私は噛みついてやろうかといつも思う。  私とユカは、そいつが嫌いだ。なぜなら、「ママ」がいないとき、そいつはひそかにユカをぶつからだ。  最初にその場面を見たとき、私は、気のせいだと思った。「ママ」が席を外して、居間に私とユカ、そしてそいつだけになったときのことだった。  そいつの肘が、隣にいたユカを小突いた。ユカは驚いた顔をして、そいつの方を振り向いた。  そいつは口元に笑みを浮かべながら、顔を近づけて何かを囁いた。部屋の隅からその様子を見ていた私には、そいつがなんと言ったのか聞こえなかった。しかし、ユカの表情がかわったのを、私は見た。  恐ろしい胸騒ぎを感じた。部屋の中で私とユカは離れて座っていたけれど、心の深いところを共有している。だから、彼女の感じた動揺や困惑は、そのまま私の中に流れこんでくる。  「ママ」が部屋に戻ってくると、そいつはもう何もしなくなった。ユカは不安そうな表情で「ママ」を見たが、「ママ」は異変にも気づいていなかった。  ユカが、救いを求めるように私を見た。私はただ、部屋の中をうろうろ行ったり来たりしているしかできなかった。  そいつのユカへの態度は、家へ来るたびにひどくなっていった。時々、おなかを蹴ることさえあった。ユカは苦しそうにうめいて、部屋に倒れて咳き込む。私がそばに駆けよって、かばうような格好でそいつを見上げると、そいつは舌打ちする。  あの男が家にくる夜は決まっていた。私とユカは、あいつから身を守るため、いつも家の片隅で固まっていた。そんな夜はいつも、家の中が不気味に思える。いつ、あいつが扉を開けて入ってくるかわからない。ユカはそれをおそれて眠れない。  耐えきれずに、そんな夜、私たちはひそかに家を出る。  ユカが私に動物を殺させるようになったのは、あの男が家にくるようになってからだ。あいつが来るようになって、ユカはいつも泣いている。そして、ぞっとする暗い目をするようになった。  私はそれを、悲しく思う。    † 2 「気づいたのは、夜中の十二時ごろだったわ……」  まだ若いその主婦は子供を胸に抱いて説明した。子供は目を閉じて眠っている。さきほどまで交わしていた世間話の中で、その子は生まれてまだ三ヶ月なのだと、彼女は話していた。 「寝る前に、主人がパブロフの様子を見に行くと、小屋にいなかったの……」  パブロフというのが、二週間前の火曜深夜にいなくなった犬の名前である。僕の知らない種類の、血統書つきの犬だった。  うちから二キロほどしか離れていない洋風一戸建ての家の玄関先に、僕とその主婦は向かい合って立っていた。  学校の帰りに、犬が誘拐されたという家をたずねることにしたのだ。自分は高校の新聞部で、最近、近所で頻発しているペット誘拐のことについて調べているのだと説明しておいた。もしかすると取材の過程で犯人について何かがわかるかもしれないと言うと、彼女は協力的に事件のことを話してくれた。 「後から思い出したのだけど、そういえば十時ごろに、パブロフが激しく吠えていたような気がした。でも、よく通行人に吠えていたから、気にしなかったわ……」 「それが、最後に聞いたパブロフの声ですね?」  そうたずねると、主婦は頷いた。  玄関先から横に顔を向けると、小さな庭があり、空になった犬小屋が置かれている。大きな犬小屋だった。屋根の先に、犬の紐をつないでおくための金具がある。 「犯人はあそこから紐を外して、犬を引っ張っていったわけですね?」  僕が聞くと、主婦は首を横に振った。 「紐は残っていたわ。それと、食べかけのからあげが落ちていたの」  からあげは犯人が置いていったものらしいと、彼女は説明した。市販されているものだったかどうかを聞いてみると、断言はできないが、どこかの家庭で作られたものらしかったという。  犯人は家から犬の食べそうなものを持ち出して、手なずけてから誘拐したということになる。からあげを使ったという部分が、庶民的な犯罪めいて風情のある気がした。神隠しやペット誘拐のプロといったものではなく、もっと人間的な臭いがする。  僕はその主婦に頭を下げて、取材に協力してもらったことを感謝するふりをした。彼女は愛犬のことを思い出しているのか、犬小屋を見ながら言った。 「それより、犯人を絶対に見つけてね」  静かだったが、彼女の声には殺気がこもっていた。胸の子供が起きてぐずりはじめる。僕は別れを告げて彼女に背中を向けた。  そのとき、向かい側の家も犬を飼っていることに気づいた。門の間から、黒い毛の犬が見える。背丈が僕の腰まである、大きめの犬だった。 「チョコレート、という名前なの」  背後からさきほどの主婦が声をかけた。今まで向かいの家にも犬がいたことに気づきませんでした、と僕は話をする。 「そうね、あの子は、あんまり吠えないから」  見たところ、犬小屋は、パブロフの小屋よりも目立つ位置にある。しかし、静かにしていたため、犯人に気づかれなかったのかもしれない。  家に戻ると、妹の桜と母が並んで夕食の支度をしていた。母が鍋の前に立ち、中身をかき混ぜている。桜は包丁を片手に、野菜を切っている。  妹は僕より二歳年下で、高校受験を控えている。いつもなら塾にいる時間だが、今日は休みだという。今年の春ごろまで長い髪の毛の持ち主だったが、夏に短くして、今では少年のような髪型になっている。  僕とは正反対に性格がいいらしく、よく母の家事を手伝っている。頼まれたら嫌だと言えない性格なのだ。  たとえば、テレビの前で菓子をかじっている母が、両手をあわせて妹に拝んだとする。 「桜ちゃん、洗い物よろしくっ」 「え、やだよ。自分でやってよ」  最初、桜は断る。  母は顔をうつむけて、悲しい顔をしてみせる。世界が終わったような暗い顔である。それを見た桜は、あわてふためく。心からショックを受けたような顔をする。 「わかったから、もう泣かないで!」  ほとんどもらい泣きしそうな勢いで、母を勇気づけ、慰める。その後、立ちあがって彼女は台所へ向かう。一連の作業が終わると、母はまたテレビと煎餅に戻る。はたして桜はどの程度わかっていて母の言うことを聞いているのだろう。あるいは天然なのだろうかと思う。この調子で僕のかわりに、彼女が両親の老後を見ることになるのだろう。  そのような彼女には特別な才能がある。その点において僕は一目おいているのだが、彼女自身はそれをほとんど呪いのように思っている。しかし、今のように普通の生活をしているぶんには、どこにでもいる人間に見える。 「またゲームセンターに寄ってきたの?」  帰ってきた僕に、母がため息をつきながら言った。ゲームセンターにさほど典味などなかったが、学校からの帰りが遅くなったとき、いつもそう言い訳していた。  僕は台所の椅子に腰掛けて、料理をしている二人の背中を見た。息があっている。フライパンで野菜を炒めている母が無言で片手を差し出すと、何が求められているのかが妹にはわかるらしく、黙って塩の小壜を渡す。味見をした母が「みりんちょうだい!」と口にする前から、すでに妹がみりんの壜を持って横に立っている。  二人が僕に話しかけてくるので、てきとうな返事をする。二人は、僕の話に笑う。桜は笑いすぎて苦しそうにしながら言う。 「笑わせるのはやめて、お皿に盛りつけてるんだから。それで、その先生はどうなったの?」  桜の言葉で、僕は、学校であった話をしていたらしいと気づく。ときどき、家族に何を話していたのか、なぜ母や妹が笑っているのか、何もかもわからなくなる。なぜなら、家族へ聞かせる話のほとんどは、無意識的な反射であり、|咄《とっ》|嗟《さ》に考えた作り話であり、まったく意味をもたない感想だったからだ。  不思議とそれでも|齟《そ》|齬《ご》は起きない。傍《はた》から見ている分には、母と妹が織り成す家族間の会話へ僕は混じっているように見えるだろう。実際、家族が僕に向ける視線は、勉強はできないが人を笑わせるような明るい青年に向けるものと同じだった。  しかし、僕から見れば違っていた。両親や妹と、僕との間に、どんな会話もなかった。話した内容は直後に忘れた。おかげで、僕自身はずっと黙りこんでいたはずなのに、周囲の者たちはなぜかおかしそうにしているという、異様な夢を見ている気がするのだ。 「キリちゃんちで飼っていた犬、いなくなったままなんだって」  料理に使った器具を洗いながら、桜が母に言った。それまでくぐもってよく聞こえなかった僕の耳が、急に音を伝え始めたようにはっきりとしはじめた。 「そのうちに戻ってくると思ってたそうだけど……」  詳しく話を開いてみる。  桜の説明によると、彼女のクラスメイトの家で飼っていた犬が、先週の火曜日からいなくなっているそうだ。ペット誘拐の犯人の仕業ではないかと囁かれているらしい。 「それでね、犬を見かけなくなった朝、ソーセージでおびきよせた跡があったんだって」 「まあ……」  母はそうつぶやいて、そういえばソーセージを買ってくるのを忘れていたわとつぶやいた。 「犬の種類はなんだった? 大型犬?」  そう聞くと、桜が眉をひそめて僕を見る。 「兄さん……?」  僕は、家族に対してあまり見せないようにしている表情をしていたらしい。 「ん、なに……?」  そう言って僕はごまかした。 「いなくなった犬は、雑種だったみたい。けっこう小さな体だったそうよ」  僕は急に、パブロフの飼い主へ聞き忘れていたことがあることに気づいた。不自然でない印象で家族との会話を打ち切り、制服のまま再び外へ出た。もうすぐ夕飯なのに、と母が迷惑そうな声を出した。  パブロフの飼われていた家に到着したとき、辺りは暗くなりはじめていた。玄関のチャイムを鳴らすと、つい二時間ほど前に話を聞かせてくれた若い主婦が現れた。僕の顔を見ると、あら、と声を出した。子供は抱いていなかった。 「度々すみません、取材し忘れていたことを思い出してしまって……。パブロフは、どの程度の大きさの犬だったのですか?」 「それを聞くためだけにまたきたの?」  彼女は僕の二度目の訪問に当惑しながら、パブロフはまだ大人になりきっておらず、大きくはなかったと説明した。 「子犬より少し大きいくらいですか?」 「うん、そう。でも、大人になると大きくなる種類なの。だから犬小屋も大きなタイプを買っていたのだけど……」  僕は礼を言って立ち去った。  犯人は犬を誘拐するとき、犬小屋に紐を残していった。では、どうやってつれていったのだろう。別の紐を用意していたのだろうか。それなら、犬小屋から紐をはずせはいいことだ。つけかえる手間がはぶける。犯人は、紐を首輪から外し、犬を両手で抱えて運んだのだ。  そして向かい側に飼われていた静かな犬ではなく、なぜパブロフを選んだのか。僕なら、吠えない方を選ぶ。その方が誘拐しやすそうだからだ。しかし、犯人はそうしなかった。おそらく、パブロフの方が小さな体をしており、運びやすかったからだろう。妹の知人が飼っていた犬も、割合に小さな体をしていたという。犯人は犬を誘拐するとき、小さな犬を選んでいるのではないだろうか。  なぜ、運びやすい犬ばかり選ぶのか。推測のひとつとして、犯人は車などの犬を運ぶ乗り物を持っていなかったということが考えられた。だから、大きな犬ではなく、小さな犬を選んだのだ。これまで僕の耳に入ってきた情報によると、犬の消えた家はそれほど広範囲には分布していない。もしも車を持っている人間であれば、せまい範囲の中で繰り返し犯行を行なうことはせず、遠くから犬を盗むにちがいない。  僕は、しばしば動機のない異常快楽殺人事件の捜査に適用される心理分析のことを思い出した。それは、犯人が獲物を選ぶときの、判断基準に関するものだ。  犯人は無意識のうちに、自分よりも弱そうな相手を獲物として選ぶという。たとえば、被害者の身長がいずれも百五十センチ未満で、百六十センチ以上の人間は一人もいなかったとする。すると犯人は、百五十センチから百六十センチまでの身長の人間だと推測できるわけだ。この飼い犬誘拐事件に関しても、似たようなことが考えられるかもしれない。  家に帰ると、父が会社から戻っていた。夕食がはじまっており、僕はコンビニに行ってきたと説明した。自然な様子で家族の会話に混じり、さりげなく、庭で犬を飼っている家を尋ねた。 「あ、あそこの犬ってかわいいよね。なんで室内で飼わないのかしら、あんなに小さいのに」  次々と近所の家の名があがっていく最中、桜が言った。 「家の中だとうるさいからだろ」  父が返事をした。僕は、その家の場所を尋ねた。今日は火曜である。夜、その家へ犯人が現れる可能性はゼロではなかった。  その家は曲がり角に位置していた。古い日本家屋である。塀の上から中を覗いた。庭は広く、犬小屋が端の方に置かれている。犬小屋は手作りらしく、木箱のようにも見える。そばに杭が打たれ、そこに犬が紐でつながれていた。目が大きく、僕を見ると、街灯の下で吠えながら何度も跳ねた。子供でも運べるくらいの小さな体をしていた。  家から距離を置き、離れた位置にある雑木林に身を潜めた。そばに街灯がなく、周囲は完全な暗闇だった。  腕時計を確認する。周囲は暗かったが、腕時計側面のボタンを押すと、内部でランプが点灯して液晶が照らされるようになっている。夜の十時だった。パブロフの鳴き声を主婦が最後に聞いたのは、ちょうど二週間前のこの時間だったという。犯人がこの家を狙って来るとしたら、そろそろだろう。  雑木林の地面は落ち葉が厚くつもっていた。少し身動きをしただけで、周囲にある木々の細い枝が、音をたてて折れた。夏が過ぎたばかりで、昼間はまだ暖かいが、夜は少し冷えた。  上背のポケットに手を入れるとナイフの柄に当たった。念のために用意した武器だった。  犯人をもしも見つけても、通報するつもりはなかった。ただ遠くから、見つからないように眺めているつもりだった。だから武器が必要になることはまずないだろう。  しかし、深い考えもなく僕は、ナイフセットの中から一本を抜き取って持ってきていた。剥き出しのままでは怪我をするため、別に購入した革製のケースに入れていた。  僕は、異常犯罪の犯人を観察するのが好きだ。そのための行動を起こしているうちに、かつて、数人の女性を殺害した犯人と顔を合わせたことがある。その人の部屋にあった二十三本のナイフセットを、僕は勝手に持ち帰って本棚の奥に隠していた。家にいるとき、蛍光灯の下でナイフの銀色の表面を眺めた。まるで濡れているように、白く光を反射した。  時々、刃に映った自分の顔が、かつてそのナイフによって殺された女性の顔へと変化した。それは錯覚には違いないが、確かに苦痛と絶望の叫びが刃に染みこんでいるのを感じた。  僕は内心、ナイフをもてあましていた。記念に持ち帰っていいものではなかったのだ。表面に薄く光沢を|纏《まと》ったナイフを見つめながら、これは実用されるべきものかもしれないと思った。  腕時計を、再度、確認する。液晶を照らし出すランプのボタンを押し、時刻を読む。水曜日になっていた。雑木林に隠れている問、目の前の道をだれも通らなかった。  犯人は、どの辺りの地区に住んでいる人間なのだろう。それがわかれば、もっと張りこむ地点を絞り込めるにちがいない。少なくとも今日、僕の前に犯人は現れないだろうと思った。  十分後、雑木林を出て家に戻った。  父母は眠っていたが、桜は受験勉強をしていたらしい。僕が帰ってきたのを知り、どこに行ってきたの、と言いながら一階におりてきた。コンビニへ行ってきたと僕は説明した。    †  今夜があいつのくる日だということは知っていたのに、居眠りした私がいけなかった。私は、ユカの悲鳴で飛び起きる。声は居間のほうから聞こえた。  眠っていた部屋から飛び出す。  奥の部屋で私といっしょに降れていたユカは、いつのまにかあいつのいる居間に連れてこられていた。「ママ」はどこかへ出かけているらしく、あいつとユカだけが居間にいた。  ユカが、倒れてうめいている。痛みをこらえるような、悲しい声を出している。  あいつはユカの頭のそばに直立して、無表情に彼女を見下ろしていた。私の目からは、頭が天井に届くような大きさに見えた。それにひきかえ、ユカはなんて小さいのだろう。なんて無力に、痛みで|喘《あえ》ぐことしかできないのだろう。  頭の中が、怒りのために沸騰する。  私は吠えた。体の奥から声を絞り出した。あいつは私を振りかえると、目を大きく広げて驚いていた。一歩だけ後退し、ユカのそばから離れる。  倒れてうめいていたユカが、私に目を向けた。愛しいものを見る瞳だった。私は、心の底から彼女を守らなければいけないと思った。  玄関の開く音と、「ママ」の声。買い物袋をかかえた「ママ」が帰ってきた。あいつを家に残して、出かけていたらしい。  あいつの手に噛みつこうとする私を、「ママ」が後ろから捕まえる。私の顎は、寸前であいつに届かなかった。  しかし、その間にユカが立ちあがる。怒りを含んだ「ママ」の声がする中、彼女は玄関の方へ逃げる。それを追いかけ、私たちはいっしょに家を飛び出した。  外に出て懸命に走る。背後から、玄関先に立つ「ママ」の声が追いかけてくる。それを振り払って、夜の奥深くへと逃亡する。  静かな暗い路地に街灯が並んでいた。その足元だけ、白く照らされて地面が浮かんでいるように見えた。私たちは小さな二つの影を連れて、いくつもの街灯の下を通りすぎる。  どこまで進んでも夜は続いていたが、私はユカといっしょだったから恐くなかった。でも、彼女のことを思うと悲しかった。  ユカは泣いているわけではなかったけれど、ひどい苦しみを抱えて歩いていた。それが私にはわかる。体が痛むのか、ときどき、彼女は立ち止まった。痛ましかったけれど、私は彼女のそばをついて歩くことしかできなかった。  お昼に見つけたあの家の動物を、今夜の獲物にしよう。  ユカが言った。今日、散歩をしたときに、連れ出しやすそうな動物を見つけていた。私たちはその家を目指した。  ユカもきっと気づいているが、最近、獲物にしやすそうな動物を見つけるのが難しい。動物を家の中で飼う家が多くなった。私たちの存在が、警戒されはじめている。  心の中で、いつも不安だった。だれにも私たちのやっていることを見られてはいけない……。そう心構えをすると同時に、いつも私はだれかの影を恐れていた。  そのだれかというのは、私やユカでもなければ、「ママ」やあの嫌な人間の男でもない。まったく知らない人だ。その影の人物は、動物をさらう私とユカを追いかけている。そして、橋の下で恐ろしいことをしている私たちを、いつかきっと発見するだろう。  そうなったときのことを想像すると恐くなる。私やユカのやっていることをみんなが知ったら、私たちはひきはなされるかもしれない。私がいなくなったら、誰もユカを守るものがいなくなってしまう。決してそのようなことになってはいけない……。  目的の家が、道の先に見えた。街灯の下に、屋根の先が照らされている。他の場所は暗く、闇の中に消えていた。曲がり角に位置しており、昼間の散歩で確認したとき、小さな体をした犬が庭に飼われていた。  行こう。ユカが言って、その家に向かって歩く。  そのとき、私は視界の端で何かを見つけた。小さな声で私はユカを呼びとめ、立ち止まる。どうしたの、と彼女は私に無言の目配せでたずねた。  さきほど、家よりも事前にある雑木林の暗闇で小さな明かりが見えた。点のような光がついて、そして消えた。  だれかがいる。私は注意深くその暗闇へ神経を向けた。はっきりとはわからないが、だれかが身を潜めて、これから私とユカが行こうとしている家を監視しているように思えた。考えすぎで、実際にはだれもいないのかもしれない。でも、そう直感した。  ……今日は、帰ろう。私はユカに目でそう語りかけた。彼女は家と私を交互に見て、わかった、と返事をした。  私とユカは、その夜、動物を盗まなかった。橋の下でしばらく時間をつぶし、家に帰った。ユカは私に何かを殺させたがっていたが、私は何も殺さずにすんでほっとしていた。  でも、不安だけはつきまとっていた。  私たちを追うだれかの形が、ついに今夜、はっきりした形となって目の前に現れた気がしていた。  その人物は私の杞憂にとどまらず、確かに存在していたのだ……。    † 3  張りこみをした火曜の夜、結局、僕の前に犯人は現れなかった。翌日の水曜日、僕はクラスメイトや家族にさりげなく質問し、どこかの家のペットが消えていないかを調査した。その結果、火曜の夜に犯人は何もしなかったらしいとわかった。もっとも、犯人が野良犬を持ち去っていたり、僕の情報網にひっかからない場所で犯行を行なっていたりすれは別である。 「犯人がどんな人かわかった?」  水曜の昼休み、化学講義室の片隅に座って読書をしていた森野が、僕にそうたずねた。  僕は首を横にふり、まったくわかっていないと彼女に告げた。 「そもそも、なんのためにあんな動物を盗むのかしら。ペットショップに売って、お金に換金しているのかしら」  森野は、あんな動物を欲しがる人の気が知れないとでもいうような口調でそう言った。 「おそらくお金が目的ではないだろうね。ペットショッブで売られている血統書つきの犬でも、育ちすぎると処分されることが多いんだ。買う人はほとんどいないだろう」  もしも購入するとしたら、ペットとしてではなく、研究目的の実験動物としてだろう。飼われていた犬は、野良犬よりも人間に対する信頼が厚い分、扱いが楽だ。だからヤミで重宝されているという話を聞いたことがある。 「犬を盗むのは、虐待するのが目的としか考えられない。そういった趣味を満たすために、インターネットの捨て猫や捨て犬サイトから引き取る人もいるんだ」 「それでは、犯人は盗んだペットを、どこかで殺して楽しんでいるというわけね。犯人は、頭のおかしい人なんだわ」  森野の言葉を聞きながら、僕はふと疑問に思った。  もしそうなら、犯人はどこで動物の虐待を行なっているのだろうか。自分の家ではないだろう。ときどき、殺された動物の屍骸が公園で見つかるというニュースがテレビで報道され、動物虐待に関する問題が取りざたされる。しかし、この近辺で屍骸が発見されたという噂は聞いていない。  水曜と木曜の夕方、学校から帰る途中、ペットの誘拐された家をたずねて歩いた。どこの家の人も、僕が新聞部だということに疑いを抱いた様子はなく、割合かんたんに話を聞かせてくれた。一日に一軒がノルマとなっていた。  結局、犯人に関する有力な情報はなかった。盗まれた動物はいずれも小柄で、雑種だった。食べ物でおびきよせた形跡は、あったり、なかったりした。  金曜日、学校が終わると、僕はバスに乗ってペットの消えた家に向かった。僕の得た情報によると、最初に犬の消えた場所で、うちからも学校からも遠く離れた、川沿いの住宅地にあった。  地図で住所を確認しながら、家を見つけた。真新しい家だった。玄関のチャイムを鳴らしたが、住人は留守らしく、だれも出てこなかった。  小さな庭に、チューリップの花壇があった。空になった犬小屋と、餌の皿が放置されている。皿はプラスチック製で、泥がついて汚れており、子供らしいマジックの文字で「マーブルのお皿」と書かれている。  僕は家を後にして、ふたたびバスに乗り込み、家の近くにあるバス停で下車した。  今日は金曜日だ。夜にまた、どこかでペットが消えるのだろうか。そう考えながら歩いていると、声をかけられた。振りかえると、中学の制服を着た桜が、自転車を押して歩いていた。彼女は少し小走りに駆け寄ってきて、僕の横に並んだ。  彼女はいつも、学校から帰る途中、塾で数時間ほど勉強して家に帰ってくる。それなのになぜ今日はこの時間にここにいるのかと質問した。 「わけありで、塾に行かなかったのよ……」  彼女は元気の失せた声で言った。顔色が悪く、ふし目がちで、自転車を押すのもままならない様子だった。 「……また、何かを見たのか?」  彼女の自転車を受け取り、かわりに押した。ありがとう、と小声で彼女は言って、うん、見た、と唇を動かした。  彼女は特殊な星のもとに生まれついている。僕はそれを才能だと思っているが、彼女自身はそのことを呪いだと思って忌み嫌っている。  桜はよく、死体を発見するのだ。  最初は小学校の遠足で行った山だった。当時、彼女は一年生だったのだが、一人、みんなから離れて道に迷っていると、湖のほとりに出たそうだ。そこで彼女は、湖面にただよっている人間の水死体を発見した。  二度めは四年後だった。友達の家族と行った海で、やはり桜はみんなとはぐれてしまった。そのうち海岸の端に辿り着き、岩場の陰に打ち上げられた男性を見つけた。  三度めはさらに二年後、中学二年のとき、バレー部の合宿で行った高原でのことだった。ランニング中にコースを聞違えて、あまり人の近寄らない場所へ行ってしまった。なにかに|躓《つまづ》いて、彼女は転んでしまった。彼女の足をひっかけたのは、人間の頭蓋骨だった。  彼女は死体を発見するたびに、青い顔で家へ帰ってくる。それから熱を出して、一週間は寝こむ。 「なんで私ばっかり……」  うなされながら泣く。  しかし、彼女が死体を発見する間隔はしだいに短くなっている。この計算でいくと、今年か来年に四つめの死体を発見するだろう。彼女が年を取ったとき、毎分一体の割合で死体を見つけることになるかもしれない。 「それで、今日は何を見た……?」  僕は彼女に聞いた。押している自転車のタイヤが、からからとまわる。 「さっき、塾に向かっている途中、ちょっと気持ち悪いものを……。それで、気分が悪くなって、塾を休むことに……」  中学校と塾との間に川がある。大きな幅の川で、ゆったりと大量の水が流れていた。そこには大きなコンクリート製の橋がかかっており、多くの車が行き交っている。車道と別に、歩行者や自転車が通るための区画があった。桜はそのとき、歩道を自転車で渡っていたそうだ。 「自転車のカゴに、鞄とタオルを入れていたの」  彼女の気にいっている、白と青の縞模様のタオルだったそうだ。そばをトラックが通り抜けた瞬間、風が吹いてカゴの中のタオルが空中へ舞いあがった。彼女の見ている前で、橋の外に飛んでいき、風に流されて落ちていった。  背後で車が行き交う音を聞きながら、彼女は手すりから顔を突き出して見下ろす。幸いにも、タオルは川の中へ落ちたわけではなかった。はるか下の川辺に生い茂る一面の緑色の中に、小さくタオルが引っかかっていたそうだ。 「私は土手におりてタオルを拾いに行くことにしたの」  川のそばへ下りるための階段が、橋の|袂にあった。コンクリート製で、そこをつかって土手を下りる。階段を下りきると、雑草の林だった。緑色の尖った無数の葉が、目の高さまである。雑草の茂みをかきわけて彼女は進んだ。生い茂っているといっても、人が通れる程度の余裕はあったらしい。 「上からは気付かなかったけど、橋の下あたりに、草のあまり生えていない広場があったの」  その広場は、円形に乾いた地面が露出していたという。周囲は雑草の壁であるから、中心に立つと檻に囲まれたような印象を受けたそうだ。  頭上の高いところに、巨大な橋がかかっていた。ほとんど屋根のように覆い被さって、見上げた空の半分は、橋の裏側でさえぎられていたそうだ。 「私はタオルを探してその辺りを歩いてみたのだけど……」  そのうちに彼女は、虫の飛ぶ音を聞いた。蝿が羽を忙しく震わせる、あの音だ。よく見ると、雑草の上空、ある一画だけ、やけに蝿が多いことに気づいた。 「私はためしに、そこへ近づいていったの……。タオルの引っかかっていた方向だったし……」  彼女が歩みを進めると、何かの腐った臭いがしはじめた。草をかきわけ、やがて虫の飛んでいる場所に近くなったとき、唐突に彼女の足元に、黒い穴が出現した。穴というよりもくぼみだった。半径、深さ、ともに一メートル程度で、あやうくそこへ足を踏み入れるところだったという。腐臭に胸をつまらせながら視線を下ろし、彼女はその穴の中にあるものを見た……。  穴の中には、おびただしい数の、何かの塊が敷き詰められていた。ぼろぼろで外見をまともにとどめておらず、最初のうち、何があるのかわからなかった。黒く、そして赤い塊だった。  僕は腐臭に耐えながら穴の縁に屈み、底へ顔を近づけた。  犬らしい顎、尻尾、そして首輪があった。毛皮の下や、柔らかく崩れたものの間から、無数の小さな白い蛆がぽろぽろと這い出して表面を覆っていた。それが幾重にも折り重なり、原型をとどめずに穴の底で層をなしている。かつてこれが、命を持ち、太陽の下を駆け回っていたのだと考えると、不思議な気持ちにさせられる。おそらくそれが、死と破壊の持つ魅力だった。  腐敗と悪臭の穴だと思った。中にあるものを見ながら、僕はわけもなく第二次世界大戦の記録映像や写真を思い出した。この死の穴はそこともつながっている気がした。  立ちあがり、僕は周囲をあらためて見渡した。橋の下は、桜の言ったとおり、雑草しかない。草の尖った先端に赤い夕日が載っており、蝿の黒い点が飛びまわっている。僕を仲間だと思うのか、蝿がさきほどからしきりにまとわりついて学生服や頬に衝突する。傾いた太陽が視界にあるものすべてを赤く染め上げていた。  桜から話を聞いた僕は、穴とペット誘拐事件とをすぐに頭の中で結び付けた。彼女の見つけたものは、僕の探していた場所である可能性が高いと思った。  彼女を一人で家に帰らせると、僕は橋の下へ向かった。橋の袂からコンクリートの階段を使って土手に下りると、話に聞いたとおりの円形の広場が、雑草の海の中にあった。そこからさほど離れていない場所に、虫の多く飛んでいる場所はあった。  足元にある穴を見下ろす。この屍骸の中に、パブロフとマーブルもいるのだろうと思った。僕は穴に背を向けて、橋の下を立ち去った。  家に帰り、夜が深くなるのを待った。時計の針が十時を指したころ、ナイフをポケットに入れて自分の部屋から出る。  桜はまだ動物の屍骸を見たショックが残っているのか、居間のソファでぐったりとしていた。その前を通り、玄関へ向かう。テレビドラマを見ていた母が振りかえって、どこへ行くのかとたずねた。コンビニに行くと答えると、「深夜のコンビニ族……」と桜がつぶやいた。  僕は再び橋の下へ向かった。今日は金曜である。犯人が席の下に現れる可能性は高かった。  歩きながら、楽しみのために小さな動物をいたぶって殺す人間の姿を想像した。その人物が死んだ犬を穴に投げこむ場面も思い浮かべる。  できることなら、その様子を見てみたいと思っていた。どのような儀式が行なわれた末にここへ屍骸が捨てられているのか、興味がある。  猟奇的で残酷なことに、いつも僕は心をゆり動かされる。胸の奥に深く響いてくるのは、クラスメイトたちとの楽しい話でもなければ、家族と交わす暖かい言葉でもなかった。まるでそれらはチューニングのあっていないラジオの雑音のようにしか聞こえない。  巨大な川は夜になると、一面が黒くなり、地上に星のない宇宙が広がっているように見えた。横に並んでいる街灯がかろうじて薄く辺りを照らしている。周囲にだれの気配もないことから、犯人はどうやらまだ来ていないとわかる。  硬いコンクリートの階段を一歩ずつ下りて草の海へと入る。雑草の中をかきわけて進みながら、家を出る前に電話で交わした森野との会話を思い出す。 「これから犬好きの人間を見に行くつもりだけど、きみはどうする?」 「……ああ、本当は行きたいのだけど、宿題をやらないといけないから」 「宿題なんて出ていなかったはずだけど」 「……お母さんが病気で、死にそうなの」 「無理に理由をつくらなくても、犬嫌いの人を無理に誘わないよ」  僕がそう言うと、予想を越えた返事がきた。 「な、なにを言っているの。私が犬嫌いだなんて、馬鹿にしないで……。あんなもの、別に恐かないわよ……」  彼女の声はどうやら本気だったし、人をからかうようなサービス精神を持った人間でもない。僕はひとまず謝罪し、彼女のプライドのために気付いていないふりをして電話を切った。  雑草の中に僕は身を隠す。  膝を地面につけた格好で、ポケットからデジタルカメラを取り出した。明かりは横の上にある街灯だけなので、映るかどうか怪しかった。絞りを解放してシャッタースピードを最長に設定する。フラッシュを焚かずに写すための努力だった。フラッシュを焚けば、犯人に気づかれるだろう。それを防ぎたかった。  犯行を警察に知らせるつもりはなかった。犯人に自分の存在を覚られることも避けたかった。僕は事件に関わりあいになってはいけない。それはルールのように心の中で決めていた。第三者の立場で、ただそっと眺めているだけだ。通報せずに、このままペットが誘拐され続け、何人の人間が悲しみで泣こうと、まったく良心は咎めない。僕はそういった人間である。  隠れている茂みから、川辺に下りてくるコンクリートの階段と丸い広場が観察できた。屍骸のある穴へ向かう途中、おそらく広場の中を通るはずだ。そのときがシャッターを切るチャンスだろう。  巨大な川を大量の水が流れている。その音が、雑草の中に身を潜ませている僕のもとにまで聞こえてきた。頭の中に、夜を映し出す漆黒の川面が思い浮かんだ。ひどく静かな光景だった。  冷えた風が吹き、周囲の雑草が一斉にざわめいた。僕の頬に、尖った葉の先端が触れる。  腕時計の液晶が深夜の十二時を示したとき、土手の上に、黒い影が立った。影は階段を下りてくる。僕は頭を低くして、自分のいることを|覚《さと》られないよう呼吸を小さくした。  影は階段を下りきって、一度、雑草の中に埋没する。橋の上から降り注ぐ薄明かりの中、その人物がかきわけているらしい辺りの、草の先端だけが揺れている。徐々に草の揺れが近づいてきて、やがてその人物が、円形の広場に現れた。階段を下りてくるときには黒い影に覆われていたが、雑草の中から現れたとき、薄明かりが影を拭い去った。  草をかきわけて顔を出したのは、少女と犬だった。少女は背が低く、髪の毛は肩までで、ひどく痩せていた。犬はゴールデンレトリバーだ。以前、森野と道を歩いていたときにすれ違った少女と犬だと気づく。  少女の胸に、さほど大きくはない犬が抱かれていた。犬はもがいて吠えているが、犬の扱いになれているらしく、放さない。  僕はカメラを構えた。    †  私とユカがはじめて橋の下の広場を見つけたのは、夏の、とても暑い日だった。空には雪が一片も見当たらず、高いところにある太陽が、橋の下に広がる草を一面の緑色に輝かせていた。  私とユカは、散歩の途中だった。いつもやっていた遊びの中に、全速力で息が続かなくなるまで走る、というものがあり、その日も私たちはとにかく走っていた。やがて息が切れて走れなくなったとき、川沿いの道に出た。  私たちはコンクリートの土手に腰掛けて休みながら、橋の下に広がる草の海を眺めることにした。かすかに吹く風が、見えない手で触ったように、草の茂みを揺らして消えた。  ユカが私を呼んだ。振りかえると、彼女は橋の袂にある階段に視線を向けていた。  下に行ってみよう。  躍るような、彼女の冒険心が伝わってきた。階段を下りると、そこは周囲に草しかない世界だった。濃厚な草の匂いの中を、私たちは進んだ。  普通に進んだのではつまらないと思ったのか、ユカが、背後を歩いていた私をちらりと見て、急に走り出した。それは追いかけっこをはじめる合図だった。私たちは走りつかれていたことも忘れて、草の中で追いかけっこをした。夏の熱気が、すぐに私たちを熱の塊にする。  草をかきわけながら逃げるユカを、私が追いかける。彼女の背中を見失って途方にくれると、すぐそばから彼女の笑い声が聞こえる。そこにいたのかと、声のしたほうに突進すると、またユカが逃げ出す。  そうしていると、唐突に、広いところへ出た。急に視界が広がったような気がした。濃厚だった草の匂いが薄れ、涼しい風が体を包む。草が生えていない円形の広場だった。  先を走っていた彼女は、面食らった顔をして広場の中央にいた。周囲を眺め、そして草の壁から飛び出してきた私を見る。最初のうち戸惑っていたが、すぐに、いいものを見つけた、という気分になったらしい。彼女の瞳は、楽しいことの予感で、明るく輝いていた。  あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。まるで、遠い昔のことのようだった。  橋の下の広場を見つけてまもなく、あいつがうちへ来るようになったのだ。そして、私とユカは夜に出歩くことを覚えた。日に日に風は冷たくなっていく。あの夏の日、私たちを包んでいた暖かい光は、もう感じなくなっていた。  昼間に散歩をしても、全速力で走る遊びや追いかけっこをしなくなった。遊ぶかわりに、家々で飼われている犬を調べながら歩いた。事前にそうしておけば、夜に散歩をするとき、獲物探しが楽だった。  ユカが私にそうすることを命令する。何のため私にそうさせるのかはわからない。でも、彼女自身の楽しみのためではないと、なぜかそう感じる。ユカの目は、いつも笑っていない。どんな感情よりも強く、悲しみや憎しみが宿っている。だから、私はしたがうのだ。  風は、前回のときよりも、また少し冷たくなっていた。夜のまだ早い時間だったから、橋には多くの車が行き交っていた。ライトのまぶしい光が近づくと、私とユカの影が地面に細長く伸び、横を通りすぎると、伸びた影がぐるりと円を描いて消える。  私たちは、階段の上から草の海を見下ろした。大部分が闇の中に消えている。草同士の、風でゆれてこすれる音が、黒々とした闇の中から波のように聞こえてくる。橋の上からの街灯に薄く照らされた部分だけ、雑草の形が見えた。  私とユカは階段を下りて草の間を進み、円形の広場に到着した。  周囲を取り囲んでいる草の壁をよく観察する。だれか潜んでいないだろうか。風に、だれか知らない人の臭いが含まれていないだろうか。  私が神経を尖らせて警戒していると、ユカが呼んだ。  そろそろはじめるよ。  円形の乾いた地面に、私とユカは、連れてきた犬を放り出す。子犬というほど小さくはないが、大人というほど大きくもない。ようやく子供の時期が終わろうとしている若い犬だ。驚いたような顔で、私とユカを見つめる。さきほど、ここへ来る途中、誘拐してきた犬だった。  動物を連れ出すとき、大きな声で飼い主に知らせようとするので大変だった。私とユカは、そんなとき、私の分のごはんを彼らの鼻先に突き出して警戒を和らげる。  ユカが、私と相手の犬を残して、広場の端の方へ下がる。いつも彼女は、そこに座って|殺《さつ》|戮《りく》を眺めた。私と相手とを、交互に眺める。  私は、飛びかかる用意をした。相手を睨み据えて、姿勢を低くする。神経を尖らせて、ユカの合図を私は待つ。  相手は、これから何がはじまるのかわかっていない。不安そうな顔で、目の前にいる私を見つめている。細い声を出した。飼い主を探している声だった。  夜の冷たい風が、潮騒のように周囲の草を鳴らして消える。静寂が訪れた。橋の上を通る車も途切れたのか、かすかに聞こえていたタイヤの音もなくなる。沈黙の中、私は緊張した。空気が張り詰めていた。そして、小さな穴が開いて破れ、破裂するのを待っている。私は毛の先まで神経を通し、はじまる瞬間を、逃さないようにした。  目の前で心細げにしていた犬が、辺りの異様な気配に気圧されたのか、再び飼い主を求めて細い声を出した。  その声が出た瞬間、短く、鋭いユカの声が上がる。  かかって!  私は地を蹴った。まだ状況のよくわかっていない目の前の犬へ、一瞬で距離を詰める。肩からぶつかった。犬は撥ね飛ばされ、転がる。喉の奥から鳴り声をあげた。相手は、状況をうまくつかめないながらも、歯を剥き出しにする。目は、困惑と敵意に満ちている。  私の心臓の鼓動が速さを増す。足の裏側に感じる地面、空気の流れ、そういったものがはっきりと感じ取れる。自分と相手との距離、それをどれほどの時間で詰められるかを、頭の中で分析する。相手のささいな仕草から、次にどの方向へ動くのかを推理する。幾度も繰り返した殺戮のおかげで、私はそういったことができるようになった。  でも、胸の中はいつも悲しみで満たされていた。ユカは、いつまで私にこんなことをさせるのだろう。本当は、何かを殺すのは嫌だった。生まれてからこれまで、自分の顎を、こんなことのために使いたいと思ったことはなかった。  相手の犬が右へ動く。私はそれを読んで、一瞬、先にそちらへ地面を蹴っていた。相手の毛が、空中に散る。血を流して、相手がよろめく。その姿が、闇の中に浮かぶ。  しばらく攻防が続いた後、ユカが立ちあがった。  噛みついて!  彼女は叫ぶ。憎しみで焦げついた声だった。その感情は、おそらくあの人間の男に向けられたものだ。彼女が私にこうさせるようになったのは、あの男がくるようになってからだ。心にためていった苦しみを、彼女はこの場所で、私に殺戮させることで解放している。  目の前で傷ついている犬と、心の底から絶叫するユカを見て、私は吠えた。声は高く、橋の裏側に反響しながら夜空を渡る。頭が熱くなる。どうしてこうなってしまったのだろう。なぜ、以前のように笑って遊びまわることができなくなったのだろう。  相手は震えながら、薄闇の中へ体を半分、隠れさせている。もはや目に、反抗する意思が残っていない。ぼろぼろになった状態でようやく立っており、つきつけられた死に恐怖している。  今、終わらせてあげる。  私は心の中でつぶやきながら、四本足の動物を押さえつけた。上顎と下顎を大きく開け、首の後ろに噛みつく。歯が皮膚を突き破り、深く食い込む。あふれる血液で、口が濡れた。  あの夏の日、幸福の光で満ちていた。私とユカは、草が気まぐれにつくった円形の広場の中を走りまわった。私がユカに飛びつくと、彼女は転んだ。一瞬、私は、やりすぎたかもしれないと不安になった。でも、彼女は転んだまま、愉快そうな笑顔を浮かべていた。そして私たちは並んで地面に横たわり、はるかな高い空を見上げた。太陽が私たちの体を温かくして、鼻は草の匂いと、かすかな汗の匂いとを感じていた……。  顎の中で|痙《けい》|攣《れん》していた動物は、やがて静かになる。私の顎を、軌物の体からあふれた血が伝う。急速に体温がなくなっていく。それまでの喧騒が止み、また周囲は静かな空間となった。  私は、殺すのがうまくなった。はたしてそれがいいことなのかどうかわからない。でも、私の顎が武器にもなるのだということを、ユカの命令は教えてくれた……。  顎の中にあったぬくもりが、完全に消えた。後に残ったのは、冷たい塊だった。  教えてくれた……。  もう一度、私はその思いを繰り返す。  口にくわえていた犬を地面に置いて、ユカを見る。彼女も、私を静かに見つめていた。  ユカの意図が、わかった。私の中へ、彼女の強い意思が流れこんでくる。  なぜ、私に多くの動物を殺させたのか?  これまではわからなかったが、たった今、彼女の考えに気づいた。ユカは私に、練習をさせていたに違いない。  多くの動物を殺させて、幾度も「殺す」ということを経験させる。そうして、ユカは私の中にあるとても重要なものを尖らせていた。本番でうろたえたり、ためらったりして失敗をしないように、私は死のやりとりを経験させられていたのだ。  ユカはあの人間の男にかなわない。でも、私なら、彼女を守る牙になりえるにちがいない。  ユカが、頷いた。私が理解したことを、彼女は感じ取ったのだろう。彼女はこれまで、私が自分で気づくのを待っていたのだ。  もう、練習は必要ない。私はそのことを彼女に訴えた。  男は今夜、うちに泊まっている。  明日の朝、決着をつけようね。  ユカはそう囁いた。  噛み殺した動物は穴に捨て、私は口を川の水で洗い流した。口の中にはりついていた動物の毛も、飲みこむ。後は帰って、明日の朝が来るのを待てばいいだけだ。  私とユカは橋の下にある円形の広場を立ち去ろうとする。草の壁の中にもぐりこもうとする直前、私はふと、足を止めた。すでに草の中に入っていたユカが歩くのをやめ、振りかえる。  どうかしたの?  彼女が問うような視線を私に向ける。  私は、彼女の顔と、背後の草とを交互に見た。さきほど、一瞬、背後にある草が不自然に揺れたように感じた。  ……なんでもないよ、行こう。  私は背後の叢から視線を外して、ユカのもとに駆け寄りながら返事をする。  そこに、だれかがいたかもしれない。いや、きっといた。私はそう確信する。それは、これまで私とユカを追いかけて、つかまえようとしていた者にちがいない。そのだれかは、今夜、ついに隠れて私たちのやることを見ていたのだ。  ついさきほどまで、見つかることが不安だった。でも、今はそうでもない。自分のやるべきことがはっきりすると、不安が消えていった。  私たちはもうここで動物を殺すようなことはしない。練習の時期は終わったのだ。だから、もうそのだれかの影に追いかけられて怯えることもない。  階段を進んで土手の上に向かう。私は最後に一度、振りかえって、夜の闇にほとんど消えている草の茂みを見下ろした。  そこに潜んでいるだれかに、私とユカがしていたことの本当の意図を教えてあげたい。ユカがどんな仕打ちのはてにこんな決心をしたのか、知ってほしい。  不思議だけれど、今ではそう考えられた。    † 4 「もしもし……?」  森野の眠そうな声が携帯電話の向こう側から聞こえてくる。彼女は、このような朝早くに電話をかける僕が理解不能だという意味の言葉をもらした。  窓の外は明るくなりかけていた。僕は三時間ほどしか眠っていなかったが、睡眠時間を自由に調節できるという特技を持っていたため、早くに起きるのがさほど苦痛ではなかった。  森野に、昨夜、ペット誘拐の犯人をつきとめたことを話した。 「あ、そう……」  そう言うと、彼女は一方的に電話を切った。犯人の正体が、以前に道ですれちがった少女とゴールデンレトリバーだったことなどを説明する前だった。森野にとっては、ペット誘拐の犯人よりも、睡眠の方が大事なのだろう。  そう思っていると、携帯電話が鳴った。森野からだった。電話に出ると、彼女は前置きもなく短く質問した。 「犯人の顔、写真に撮った?」  昨夜、デジタルカメラで撮影しようとしたが、失敗したことを説明する。橋の上の明かりだけでは、不充分だった。暗すぎたり、ばけていたりした。 「そう」  彼女は再度、電話を切る。  服を着替えて、部屋を出た。両親や妹はまだ眠っているらしい。家の中は静かである。玄関で靴を履き、外に出る。東の空が朝焼けで赤くなり、立ち並ぶ電柱が黒い影になって見えた。 「明日の朝に……」  昨夜、あの橋の下でそうつぶやいた彼女の声を僕は思い出した。殺戮の儀式の直後、小さな体の少女が、大きなゴールデンレトリバーに顔を近づけて囁いていたのだ。  叢の陰に隠れていた僕は、はっきりと全文を聞き取ることはできなかった。明日の朝、つまり土曜の朝に何が起こるというのだろう。  また同じことをするのだろうか。僕はカメラ持参で彼女の家へ向かうことにした。家の場所はわかっている。先日、彼女と犬が家に入るのを見た。おそらくあれが彼女たちの家なのだろう。そこから彼女たちを密かに追いかけて、誘拐する様子を見るというのが、僕の計画だった。  家を出て、少し歩き出したところで、何か忘れ物をしている気がした。財布もカメラも持ってきている。ポケットを確認し、背後にある自宅の二階、僕の部屋の窓を見上げた。ナイフを部屋に残したままだった。  使いもしないナイフのために戻ることと、そのまま少女の家に行くこととを天秤にかける。できるだけ無駄な動きはしたくない。そのまま家を後にしたほうが労力を抑えることができる。  そう考えたはずなのに、いつのまにか、何かに呼ばれたように僕は自室へ戻っていた。本棚の奥にあるナイフのセットから一本を取りだす。刃の表面に白い光沢があり、僕はそれで不意に指先を切ってみたくなった。その感情を押しとどめ、革製のカバーに入れた。  ポケットの中、指先でナイフの柄の感触を確かめながら、家を出る。なぜかはわからないが、渇いている、という気がした。ナイフの刃が、焼けた砂浜の砂のように、渇きを訴えている。  東の空を見ると、朝焼けが血のように空を染め上げていた。    †  朝が訪れる。  まぶしくて、私とユカは同時に目を開けた。カーテンの隙間から、外の光が細く線状に伸びて部屋を横切っていた。|絨《じゅう》|毯《たん》、ベッド、布団、そしてくっついて眠っていた私とユカの顔を、白く清潔な光で輝かせた。布団の中で、私たちはしばらく見つめあってじっとした。  ユカといっしょに目覚めるのは楽しかった。足でお互いの体を蹴りあいながら、今日は何をして遊ぼうかという気持ちで心が躍った。私は絶対に今という時間を忘れないだろう。たとえ離れ離れにさせられても、彼女の記憶を胸に残して生きよう。  空中に漂っている小さなほこりを眺めた後、決心して、私たちは布団を出た。  寝室の扉を開けて、辺りをうかがう。 「ママ」の部屋から、あいつの寝息が聞こえてきた。あいつは家にきたとき、いつも「ママ」と同じ部屋で眠っている。でも、「ママ」はいつも朝早くから外へ出かけてしまう。だからあいつは、午前中、部屋で一人、眠っていることが多い。  私とユカは、静かに廊下を歩いて、「ママ」の部屋の入り口に立った。家の、一番、奥まったところにその部屋はある。  廊下と部屋の間は、引き戸で区切られている。しかしその日の朝、「ママ」が閉め忘れて出ていったらしい。私が通り抜けられる程度の隙間が開いていた。  その隙間に鼻先を突っ込んで、私は中を確認する。  畳の上に布団が敷かれていた。そこへ、あいつが一人で仰向けに眠っている。口を半ば開き、喉元をさらしている。立つと巨大で、喉に噛みつこうとしても届かない。でも、眠っていると、私の鼻よりも低い位置に男の喉があった。  引き戸の隙間に体をねじ込んで、私は静かに部屋へ入った。歩くと、畳がわずかに音をたてる。ユカは入り口に残り、部屋の中を見つめていた。私を心配そうに見つめている。  私はあいつの頭のそばに近寄る。あいつは、気配を覚って起きる様子もなく、|瞼《まぶた》を閉じたままだった。掛け布団がおなかにかかっており、寝息のたびに上下する。  一瞬、私の視界の隅で、何かが動いた。  そちらを振りかえる。窓にかかったカーテンの向こう側を影が横切ったように見えた。  ユカが、私の戸惑いを察した。引き戸の隙間から、どうしたのという視線を向ける。  窓の外にだれかがいたのだろうか。いや、カーテンがゆれただけかもしれない。あるいは、外の木が風で揺れて、影が動いたのかもしれない。私は頭を振り、気にしないことにした。今は、目の前の男に集中しなければならない。  男の寝顔を見る。ユカをいじめた姿を思い出し、私の胸の中に憎しみが広がった。  ユカを振りかえって、目を見つめた。  言葉はいらない。彼女が何をしてほしいか、私にどうすることを望んでいるのか、目を見れはわかる。  私は、ゆっくりと顎を開けた。  ためらいはない。これまで、幾度も橋の下で行なってきたことの繰り返しだった。  私は噛みついた。  歯が男の喉に食い込む。皮膚が破け、血が盗れた。噛み砕き、喉の肉を食いちぎるつもりだった。しかし、思いのほか、人間の喉は強靭だった。ごり、とした感触とともに私の顎は途中で止まった。  男は目覚めて、上半身を起こした。それでも私の歯は食いこんだままだった。男の動きにつきしたがって私の体も引っ張られた。  私を見て、男は驚き、悲鳴を上げた。しかし、大きな悲鳴は出なかった。喉の重要な部分はすでに壊れていた。男が拳で私の顔をぶった。それでも私は噛みついたままだった。男が立ちあがる。私はぶら下がった状態になる。あいつは焦ったように私を振りきろうとした。  私は、畳の上に落ちて転がった。  一瞬、静寂が訪れた。まるで時間が止まったように感じた。  男の足元に転がった私の上へ、赤い液体がぼとぼとと落ちてくる。見上げると、男が呆然とした顔で、自分の首を触っている。喉の一部分が、|抉《えぐ》れている。赤いものはそこから大量に落ちてくる。男が喉を手でおさえても、血は指の間から溢れた。  私は立ちあがり、口の中にあるものを吐き出した。布団の上へ広がった血だまりの中にそれは転がる。男の喉から食いちぎった肉片だった。  男はそれを見ると、「あ!」という表情をして膝をつき、あわてて拾い上げた。少しの間、喉の傷口に押し当てていた。それでも喉からは赤いものが溢れ続けた。やがて男の手が震え出して、私の噛み千切った喉の肉を取り落とした。しかし、男はもうそれを拾い上げなかった。  私の顔を見つめて、複雑な顔をしていた。怒ったようでもあるし、泣きそうな表情でもあった。大きく口を開けて、男も、吠えた。喉の抉れたところから大量に空気がもれてひゅうひゅうとおかしな音が混じっていた。しかし、部屋の中を震わせるほどの大きな声だった。  男が私に飛びかかってきた。男の力は強く、おなかを蹴られると意識が消えそうになった。  部屋の入り口にいたユカは、叫びながら、どうしたらいいのかわからないというように立っていた。  逃げて!  私は彼女に声をかけた。しかし、ユカは私を置いて逃げなかった。  男が私の首を両手でしめた。血で汚れた畳に押さえつけて、恐ろしい言葉を吐いた。口から唾と血の混じった液体が驚くほどよく流れ落ちて私の顔にかかった。私は男の手に噛みついた。一瞬、彼がひるむ。私はその際に立ちあがり、引き戸の隙間を抜けて、ユカと一緒に逃げた。  大量の血を出しているのに、男が死ぬ気配はない。犬だったらすでに戦意を喪失しているだろう。しかしあいつは、倒れない上に、すごい勢いで襲い掛かってくる。  廊下を駆け抜ける私とユカの背後で、大きな音がした。男が引き戸を半ば押し破るように開けた音だった。  私は恐怖した。だめだ、殺せない。力の差が大きすぎる。幾度、噛みついても、あいつは立ちあがって私をぶつだろう。私を殺したら、きっとユカにも手をかけるだろう。私はどうすればいいのかわからずに混乱した。  私たちは玄関の方へ向かった。私とユカの後を、あいつが追いかけてくる。その足音が、背中に追っている。 「ママ」の部屋から玄関まで、廊下は一度、折れ曲がった後、直線となる。玄関に辿り着くまではおそらく一瞬である。しかし、その短い時間が、やけに長く感じられた。  あと少しで外への扉に到着するというときだった。小さな悲鳴とともに、隣を走っていたユカが足を滑らせて転んだ。廊下の途中で彼女はうずくまる。  ユカ!  私は叫び、あわてて立ち止まろうとした。しかし全速力で走っていた私の体は急に止めることができなかった。土間に置かれていた靴を撥ね飛ばし、玄関の扉に体を当てて、ようやく停止することができた。  舞い戻り、ユカを助け起こそうと、背後を振りかえる。そこで私は、動くのをやめる。  あいつが、ユカのそばに立っていた。喉から血を滴らせながら私を見下ろす。恐ろしい顔をしていた。何か言葉を発していたが、うまく発音はされなかった。  男が一歩、私に近づいた。両手を伸ばし、私が逃げないように気をつけている。  玄関の土間に立ったまま、私は動けなかった。ユカを置いて、自分一人で外に逃げ出すこともできない。  どうすればいいのだろう。考えても、答えは出なかった。ただ胸の中で、悔しさと怒りが荒れ狂う。しかし、もはや隙をついて襲いかかることもできない。  諦めが、私の心を覆った。  これまで、ユカはあいつに嫌われて、ひどい仕打ちを受けていた。彼女を助けようにも、私は、力が弱かった。どんなに立ち向かおうとしても私たちは無力で、あいつの気分次第に物事は決まっていく。私がもっと強かったら、ユカを守ってあげられていたのに……。  男がそろそろと両手を突き出し、私を捕まえようとする。  廊下に倒れているユカが、私を見ていた。  ごめん……。心の中でそうつぶやく。顔をうつむけるほか、私にできることはなかった。かわいそうなユカから目をそらし、男の手に捕らえられるのを、私は待つ。  蛍光灯はついていなかったが、窓から入る朝の光が、周囲を薄く照らしていた。うつむいた視線の先、廊下と土間の段差を、男の伸ばした手の影が移動する。少しずつ、私との距離を縮め、近づいてくる。  助けてあげられなくてごめんね……。  手の影につき従って、男の喉から滴っているらしい血が、線になって伸びてくる。土間の段差を滴って、靴の中に落ちる。  いっしょにまた、遊べるとよかったのにね……。  男の手の影が、ついに私の影へ重なった。私はうつむいたまま動かなかったが、顔のすぐ両側に、男の両手のひらがあった。視界の端に、赤く染まった男の手が見えた。まるで太陽が落ちて、辺りが暗くなるように、男の影が私の上へ覆い被さる。  ユカ……。  私の目に、涙が溢れた。  その瞬間、背後で、何かの気配がした。私の背中には、扉があるだけだった。その向こう側で、だれかの靴音を聞いた気がした。  ギィ……。なにかの|軋《きし》む音がする。続いて、硬い金属製のものが土間に落下する音……。  うつむいて足元ばかり見ていた私の視界の中に、何かが落ちて転がった。それは、男の影の中でも、白く輝いていた。  顔の両側にあった男の手が、止まった。突然のことに気を取られたらしい。時間が停止したような静寂が辺りを覆う。  扉の向こう側で、再度、靴音がする。今度は、遠ざかるような足音だった。扉には新聞を受け取るための小さな窓があり、目の前のものは、そこから投げこまれたようだった。さきほどの何かが軋む音は、その窓が開閉する音だったのだろう。  私とユカを追いかけていた知りたがりのだれかだと、私はすぐに悟った。さきほど窓の外に見かけた影も、その人物だったにちがいない。  私が男よりも早く動けたのは、そのだれかの存在に薄々気づいていたからだった。決断の早さに差が生じ、それがおそらく運命をわけた……。    †  やがて少女と犬が門から飛び出して走り去っていった。僕が身を潜ませている曲がり角のある方向とは、反対側へ彼女たちは向かった。そのため、僕がいることには気づいていなかった。  彼女たちがいなくなって、僕は家へ向かった。玄関の扉は錠がおりていなかった。開けると、男の死体が横たわっていた。仰向けになり、心臓に突き立っているナイフの柄がよく見えた。廊下の鼻から玄関のそばまで、点々と血が続いている。辺りは赤く汚れていた。  どこにも手を触れないよう注意しながら調べる。男が何者なのかはよくわからないが、おそらく少女の父親なのだろう。母親はいないのだろうか。僕はデジタルカメラで彼を撮影して、現場から立ち去った。ナイフのことが気にはなったが、その場へ残していくことにした。そこが、ナイフのあるべき位置だという気がした。  立ち去るとき、玄関扉の取っ手を、服の袖で拭いた。指紋を残してはいけない。  僕は一度、家に戻った。桜がテレビを見ながら宿題をしていた。 「どこに行ってたの?」  彼女の質問に、コンビニ、と返事をして、僕は朝食をとった。  昼過ぎに、もう一度、少女の家へ向かった。目的地が近づくと、妙な騒々しさを空気中に感じた。曲がり角を越えて少女の家が見える場所にくると、その理由がわかった。だれかが通報したらしく、警察と野次馬が集まっていた。  パトカーの赤いランプの明滅が、家の壁に反射していた。通りにあふれている人々は、少女の家を指差して囁きあっていた。近所の人なのだろう。エプロンを着た主婦や、パジャマ姿の中年の男が多かった。僕は、彼らの背後に近寄って、一緒に家を見上げた。囁かれている会話が、ざわめきの中で聞こえてきた。  話によると、この家に住んでいる主婦が帰ってきたとき、知人の男性が刃物で刺されて玄関に倒れていたのだそうだ。その情報から、あの男が少女の父親ではなかったことを知った。  僕はさりげなく、そう話していたエプロン姿の女性へ声をかけた。この家に住んでいた家族について質問してみる。突然、話しかけたにもかかわらず、その女性は答えてくれた。事件による興奮が口を滑らかにしたのだろう。  その家では、母親と娘と犬が暮らしていたそうだ。父親がいないのは、離婚したためらしい。女の子は小学校をずっと登校拒否して、家で犬といっしょに生活していたという。  その女性の話によると、現在、少女と犬は行方不明で、どこにいるのかわからないそうだ。  僕は騒々しい事件現場に背中を向けて立ち去った。途中、自転車に乗った子供とすれ違った。まるで祭りでも見に行くように、事件のあった家へ自転車をこいでいた。  橋の袂から、川辺へ降りるための、コンクリートの階段が伸びている。下の方は、一面に広がる雑草の海へ沈んでいる。  天気のいい日になった。階段を下りながら、コンクリートに濃く写った自分の影を見た。草は緑色に太陽を反射し、風が吹くと波打つように揺れた。  階段を下りきると、視界は背の高い草に遮られた。目の高さまで草の緑があり、見上げると、すぐそばにかかっている巨大な橋の裏側と、どこまでも青い空とが見えるだけだった。  草をかきわけて進んでいると唐突に視界が開けた。雑草の生えていない円形の空間があり、そこにゴールデンレトリバーは座っていた。  少女はいない。  犬は、紐でどこかにつながれていたわけではなかった。緑色の草に囲まれて、彫像のように待っていた。まるで僕の来ることを、あらかじめ知っていた様子だった。優雅で、瞳には知性がある。美しい犬だと思った。  この場所になら、少女と犬がいるかもしれないと僕は思っていた。しかし、予想は半分しか当たらなかった。  犬に近づき、頭に手のひらを載せてみる。犬は動揺せず、おとなしく僕に触れさせた。  首輪に、紙が一枚、はさまっていた。それを抜き取る。  ナイフをくれたひとへ。  そう書かれてある。どうやら、あの少女が僕にあてた手紙らしい。彼女は、僕のことに気づいていたのだろうか。この場所に僕が来るかどうかは、賭けだっただろう。  手紙は、破ったノートに、鉛筆で書かれたものだった。コンクリートの階段で書き記したものだろうか。文字にそういった歪みが見られる。  文章を読む。まとまっておらず読みにくい文だったが、内容は理解できた。なぜ自分たちがペットを誘拐していたのか、なぜ橋の下であのようなことをしていたのかについて触れていた。義父となる男の暴力についての説明と、ナイフを投げこんでくれたことへの感謝が述べられている。いずれも子供っぽい文章ではあった。しかし、一生懸命に文字を書いている様子が見えるような手紙だった。  最後に、犬をもらってほしい、という意味の言葉が書かれている。その一文を書くために、よほど時間をかけたのだろう。何度も文字を消したような、ためらいの跡がある。いっしょに連れていけば、自分がつかまったときに処分されてしまうと考えたのだろう。  手紙をポケットに入れ、素直に待っていたレトリバーに目をやる。首輪をしているだけで、紐はついていない。どうやって家に連れて帰るか、それともここに放置するべきかを考えた。  昨夜、橋の下で、少女は手招きして犬を呼んでいた。ためしに僕もそうしてみると、犬は従順に僕のそばへ近づいてきた。  その調子で家まで戻った。犬は僕の後ろにつき従って歩いた。途中でどこかへ行ってしまっても、それはそれで放っておくだけだったが、レトリバーは最後までついてきた。  家に両親はいなかったが、妹の桜がテレビの前で宿題をしていた。犬を家にあげると、その気配に気づいて彼女は振りかえり小さな悲鳴をあげた。犬を飼うことになったと僕は告げる。  桜は驚いたが、それでも柔軟に対応した。おそらく死体を発見するよりも衝撃は軽いのだろう。そして勝手に犬の名前を考え始める。僕はそれをやめさせた。名前なら前の飼い主が橋の下で呼んでいるのを聞いていたし、手紙にも書いてある。したがって、この犬にはすでにユカという名前があることを説明する。  今朝、少女の家の窓から、中を覗いたときのことを思い出す。ちょうど、あの少女が男の喉に噛みつく場面だった。何が起こっているのか最初はわからなかったが、手紙を読んで理解した。あの橋の下で、少女が犬と組み合った末に噛みついて殺していたのも、すべては義父を殺害するための練習だったという。  ユカを桜にまかせ、僕はソファーに座って手紙を読み返した。鉛筆の文字は強い筆圧で書かれ、子供っぽい形である。ひとつずつ文字を拾うように読んでいくと、ところどころに、飼い犬のユカを崇拝する文章があった。  僕は、昨夜の様子を思い出す。時折あの少女は、ゴールデンレトリバーの方を見ながら行動していた。汚れるのを嫌ったのか、服を脱いで動物に噛みついていた。  彼女はまるで、神の声を聞くように犬へかしずいていたらしい。手紙によると、自分はユカの言葉がわかるとはっきりある。 「この子、どうして飼うことになったの?」  桜がユカを指差しながらたずねた。  友人の飼っていたものだが、義父が犬嫌いでいじめられるので、預かることになったのだと説明する。事実とそれほど大きくは変わらない。少女の手紙は、ユカが義父にいじめられている恐怖と、切羽詰まって殺すまでに至った様子が、混沌とした文章で書かれている。 「こんな子をいじめるなんて!」  桜は憤慨したように言った。ユカは首を傾げて、深い点色の瞳を彼女に向けた。はたして少女が手紙に書いているほど、ユカが様々なことを考えているのかどうかはわからなかった。あの少女は、ユカの瞳に映った自分の顔と話をしていたのかもしれない。  そのとき、携帯電話が鳴った。森野からだった。僕は妹と犬を残して二階へ上がりながら電話をとった。彼女は、近所で起きた殺人事件について話をした。 「このまえ、一緒に道を歩いたでしょう。あの辺りで起きたの。玄関で男が倒れているところを、主婦が発見したそうよ」  ああ、そう。僕は返事をしながら、男の喉に噛みつかれた跡があることや、寝室から玄関まで血痕が続いていることを説明した。そして、被害者の命を奪った決定的な傷は胸に刺さったナイフによるもので、その刃物は何者かの手によって犯人に受け渡されたものだということを話した。 「なぜ、あなたがそんなことまで知っているの?」 「きみは、僕たちの横を通りすぎた少女が犯人だったことに気づいていないんだ」  それだけを言って電話を切った。  僕は犯罪者を見るのが好きだった。しかし、第三者的な立場にとどまって、決して関わらないようにしていることがルールだった。  今回、そのルールに違反した。少女と犬が玄関の方へ逃げ、それを義父が追いかけるのを僕は窓から見た。そこでつい、少女にナイフを渡してしまった。  悪いことではないと思う。なぜなら、僕の良心はまったく痛んでいないからだ。それにおそらく、あれは僕の意思ではなかった。ナイフが数日前から未来を見通して望んでいたことだったように、今では思う。  数時間後、行方不明だった少女が郊外でさまよっているところを保護された。口のまわりや服が血だらけだったそうだ。その状態で一人、だれもいない寂しい荒地を歩いていたという。  僕は薄暗い自室にいて、森野からのメールでその情報を得た。音楽もかけていない静寂だけの部屋だったから、桜と犬の明るいはしゃぎ声が階下からはっきりと聞こえてきた。  僕は目を閉じて、橋の下で遊ぶ少女と犬を想像した。それは暑い夏の日のことで、彼女たちを囲む草の茂みは緑色に輝いていた。 [#改ページ]  ㈿ 記憶 Twins [#改ページ]    † 1  森野という苗字のクラスメイトがいて、時々、話をする。彼女の名前は夜。苗字と名前を続けて読むと、森野夜となる。髪の毛や目の色は黒色である。うちの高校の制服も黒色で、彼女の履いている靴も黒だ。彼女の身につけているものの中で唯一色を持ったものといえば、制服のスカーフの赤色くらいである。  全身が黒色の彼女にとって、夜という名前は合っているという気がした。夜の暗闇が人の形をとったら彼女のようになるのではないだろうかというほど、彼女の黒色に対するこだわりは徹底している。  その一方で彼女の顔は、太陽を知らない月のように白い。およそ生気というものがなく、陶磁器でできているように思えることがある。左目の下に小さなほくろがあり、占い師のような、魔術的な雰囲気を彼女は纏っていた。  森野に似た雰囲気の少女を、映画の中で見たことがある。それは、冒頭で溺死した主人公夫婦が、慣れない死後の世界で戸惑う様を描いた映画である。幽霊となった主人公夫婦は、当然、普通の人には見えない。しかし、ふとしたきっかけから、自分たちを見ることのできる少女と知り合う。その少女が、リディアという名前のヒロインである。 「私は半分、死んでいるようなものだから……」  死者を見ることができるのはなぜか。主人公たちにそう質問されて、リディアはそう答える。 「私の心は暗黒なの」  そう口にする彼女は、黒っぽい服を身につけ、病的な青白い顔をしている。外で遊ぶよりも、家で本を読むことを好むような、不健康な気配を持っている。 一部ではそういった人々のことをGOTHと呼ぶ。GOTHというのは、つまり文化であり、ファッションであり、スタイルだ。ネットで「GOTH」や「ゴス」を検索すると、いくつものページがヒットする。GOTHは、GOTHICの略だが、ヨーロッパの建築様式とはあまり関係がない。この場合は、ヴィクトリア朝ロンドンで流行した『フランケンシュタイン』や『吸血鬼ドラキュラ』などの小説、つまりゴシック小説のGOTHICがもとになっている。  森野もおそらく、GOTHに分類されるだろう。彼女はしばしば、人間を処刑する道具や拷問方法などに興味を示す。GOTH特有の、人間の持つ暗黒面への興味である。  森野は、他人と言葉を交わすことが少なかった。エネルギーの溢れる健康的なクラスメイトたちとは、根本的に話がかみ合わない。  微笑みながらクラスメイトが話しかけたとしても、いつもの仏頂面を崩さずにじっと相手を見つめ返し、「あら、そう」しか言わない。話しかけた人間がさらに森野からの反応を待ってみても、彼女からは無反応という反応しか戻ってこない。したがって多くの場合、話しかけた方は、「無視された」と考えるらしい。以前、クラスの女子たちが、無視された、という意味のことをしゃべっていた。以来、彼女たちは森野に対して軽蔑の眼差しを向けるようになった。  そういった周囲の認識も手伝い、森野のまわりには、人を遠ざけるバリアが形成される。教室に笑い声が溢れて騒がしい中で、彼女の座っている周辺だけが異次元のように静かとなる。そこだけ、影が落ちているように薄暗い。  しかし当の森野にとっては、話しかけた相手を無視したわけではないらしい。僕は彼女と話をするようになり、そう思うようになった。彼女が相手に対してにこりとも返さないのは、悪気があるのではなく、ただ、そういった人間だからという気がする。相手が嫌いなのではない。なぜなら、だれに対しても平等に、彼女は素っ気無いからだ。  むしろ観察していて僕が彼女から感じるのは、「戸惑い」だった。話しかけられて、どう返事をしたらいいのかわからずに、「あら、そう」としか言えない……。自分と他人との間にある接点が見つからずに、それ以外の言葉が浮かばない……。しかしそれもやはり僕の勝手な想像で、彼女が実際のところどう思っているのかはわからない。彼女はほとんどの場合、表情が表に現れないため、感情を推し量ることが困難なのだ。  はじめて言葉を交わしてからしばらくの間、僕は彼女のことを、人形のようなやつだと思っていた。どこか置物のような存在感しかなかったからだ。  十月の水曜日。木々の葉から緑色が失せ、しだいに赤味を帯びはじめていた頃のことだった。  朝、森野がうつむいた格好で教室に入ってきたとき、一瞬、みんなが静まりかえった。黒く長い髪の毛が前に垂れ下がって表情を覆い隠し、ゆっくりと足を引きずるような不気味な歩き方で彼女は自分の席へ向かった。  幽霊のようだ、とおそらくそれを見たほとんどの生徒が思っただろう。しかし発散していた雰囲気は、手負いの獣のように危険だった。  いつもなら透明な球のような形をしている彼女のバリアが、表面に刺状のものを形成し、近づく人間がいれば攻撃しかねないといった雰囲気を帯びていたのだ。いつもの通り彼女自身は無音だったし、だれも彼女に話しかけたりはしなかった。しかし、そばにいて雰囲気の異常さがわかるのか、彼女と席の近いものたちはいずれも緊張した顔でその日の授業を受けていた。  僕はさほど、彼女の様子に関心がなかった。ただ機嫌が悪いだけなのだろうと思っていた。その日に僕と彼女が言葉を交わす機会はなく、理由を知ることもなかった。森野は、僕が他のクラスメイトと話をしているときは、近づいて会話に交じることなど決してしなかったからだ。  理由を僕が知ったのは、次の日の放課後だった。  夕方のホームルームが終わると、生徒たちはいっせいに立ちあがって教室から出て行く。やがて教室内は広々とした空間になり、みんながいたときの騒がしさが嘘のように、静かな場所となる。机と椅子が並んでいるだけの教室に、僕と森野は残っていた。  窓から、涼しくなった風が入りこんでいた。隣の教室ではまだ授業が行なわれているらしく、先生の声が廊下を伝わってかすかに聞こえてくる。  森野は自分の席に浅く腰掛けていた。両手を椅子の両側からだらりとぶら下げて、ひどく疲れている様子だった。 「最近、睡眠不足なの」  彼女はそう言うと、あくびをした。目の下の皮膚が、影を落としたように薄黒い。瞼を目の中ほどまで下ろし、半日の状態で遠くを見ていた。  僕は自分の席で帰り支度をしていた。彼女の席から遠くはなれて、ほとんど教室の反対側にあった。教室には他にだれもいないので、声はよく届いた。話をするのならそばに寄ればいい、という発想はなかった。 「だから昨日から様子がおかしかったのか」 「ときどき、こうなるの。眠ろうとしても、眠れない。不眠症というやつかも」  椅子に腰掛けていた彼女が、立ちあがった。見ていると、眠そうな顔をしたまま、危ない足取りで黒板の前まで歩いた。  教室の前の壁に、コンセントがあった。そこに延長コードが差しこまれて、黒板消しクリーナーへつながっていた。森野は、おもむろにコンセントから延長コードを抜き取った。五メートルほどの長いタイプのものだ。片方が黒板消しクリーナーへつながった状態のまま、彼女はそれを首に巻きつけた。少しの間、その状態で動きを止めていた。 「これもだめだわ、しっくりこない」  やがて首を横に振って、コードを捨てた。 「不眠症になると、私は首に紐を巻きつけて眠るの。絞殺されて死体になった自分を想像して目を閉じる。そうすると、深い水に沈んでいくような眠りにつくことができる」  彼女は寝ぼけていたわけではなかったらしい。僕はがっかりした。 「そういう方法があるなら、寝不足になる前に実行すればいいじゃないか」 「紐ならなんでもいいってわけじゃないの」  森野にはこだわりがあるようだ。さきほどの延長コードは、首との相性が悪かったらしい。絞殺されたい理想の紐があるのだろう。 「前回の不眠症で使った紐は、なくなってしまったの。それで、新しく首に合うやつを探しているんだけど……」  彼女はあくびをして、不健康な顔で周囲を見回した。 「でも、自分がいったいどんな紐を探しているのか、はっきりわからない。それさえわかれば不眠症も解決するのだと思う」 「以前に使っていた紐は、どんな紐だった?」 「わからないわ。拾ったものだったし、不眠症が治ったらすぐに捨ててしまってほとんど覚えてない」  彼女は両日を閉じて、首をごしごしと触った。 「感触は覚えているのだけど……」  それから目を開けて、何か思いついたという表情をする。 「そうだ、これから紐を買いに行きましょう。あなたもひとつ、紐や縄を買っておくと便利だと思う。だって、必要になるでしょう、自殺するとき」  隣の教室でも授業が終わったらしい。いっせいに椅子をひく騒々しい音が聞こえてきた。  学校を出て、僕たちは郊外にある大型雑貨店に向かった。距離はあったが、頻繁にバスの通る道沿いにあったから、到着するまでにさほど時間はかからなかった。バスの中は半分ほど座席が埋まっており、椅子に腰掛けている森野を、僕は吊り革につかまって立った状態で見ていた。彼女は常にうつむいており、眠ろうと努力しているようだった。しかし結局、バスの心地よい振動さえも彼女を睡眠に誘うことのできないまま、僕たちは目的地に到着した。  広い店内に、工作用の木材や金具、工作道具などが並んでいた。僕たちは棚の間を歩きながら、紐状のものを眺めた。テレビとビデオを繋ぐAVケーブルや、物干しロープから凧糸まで、さまざまなものがそろっている。  森野はそれらをひとつずつ手にとり、細い指先で触っていた。身につける服を選ぶような、大切なものをあつかう手つきだった。  彼女は、首吊り自殺をするときの紐について自分なりの考えを持っているらしく、やつれた頬で意見を述べた。 「まず、すぐに切れてしまいそうな細いのはいやだわ。電気コードなら丈夫でよさそうだけど、なんだか美しくない」 「ビニールの紐はどう」  棚の下の段に、白いビニール紐の巻かれた塊があった。たまたまそれが目に入ったので、聞いてみた。彼女は、無表情のまま首を横に振った。 「伸びてしまって、台無しという気がする。興ざめだわ」  工具売り場の棚に、何種類もの鎖が売られていた。幅が二センチほどある太いものから、数ミリしかない細いものまでそろっている。トイレットペーパーのように、巻かれた状態で棚に取りつけられている。そばにある切断用の工具で好きな長さに切り取って精算するらしい。 「これを見て、この細さで五十キロの重さまで耐えられるそうよ」  彼女は、銀色の細い鎖を、親指と人差し指でそっとつまんだ。そのまま引き出して、首筋に当てる。彼女の手からこぼれた鎖の端が、蛍光灯を反射して輝いた。 「色もいい。きっと首吊り死体も綺麗に見えるわ。……でも、首を吊った瞬間、鎖が皮膚をはさむかもしれないわね」  そう言いながら、鎖から手を離した。これも彼女の理想とは違っていたらしい。  どんな紐で死にたいかを、彼女はいつも考えている。僕は逆だった。もし自分が人を絞殺するならどのような紐を使うだろう。そう考えながら店内を歩いていた。 「首のまわりがちくちくするのはいやだわ」  僕が荒縄の束を指差すと、彼女は言った。 「そんなタイプの古い縄、昔、住んでいた田舎の家にたくさんあった。農作業によく使われてたみたい」  彼女は、小学四年生のころまで、別の場所に住んでいたそうだ。そこは、今の家から車で二時間ほど離れた山の方だったという。 「母の生まれ育った家なの。私の祖父や祖母が農作業をして、父はその家から、車で長い時間をかけて会社に通勤していたわ」  しかし、利便性を考えて、今の家に引っ越したのだという。それは、はじめて聞く話だった。 「ところで、きみは自殺をするとき、首を吊るのではなく手首を切るものだと思っていたけど」  僕がそう言うと、彼女は手首を差し出した。 「これのことを言っているの?」  手首には、ミミズのはりついたような白い線が見える。わずかに皮膚が盛り上がり、刃物で手首を切った傷跡だとわかる。これまで彼女に、傷のことをたずねたことはなかった。なぜ彼女が手首を切ったのか、僕は理由を知らなかった。 「自殺しようとして、こうなったわけじゃないわ。発作的に傷をつけただけよ」  彼女は、いつも無表情で毎日を過ごしている。しかし、発作的にそうきせるほどの感情が、彼女の中にはどうやらあるらしい。おそらく彼女の無表情さは、魔法瓶の外側が熱くないのと同じなのだ。内側に何かがあっても、それが表にまでは出てこない。  だが、人間は感情が溢れすぎたとき、どうにかしなければならない。遊ぶことや運動をすることで気持ちを解放させる人もいれば、何かを壊して感情を落ち着かせる人もいる。後者のような人で、感情の捌け口が外に向かう場合は、家具などを壊すだけで終わるだろう。しかし彼女の場合、その衝動は外へ向かわずに、おそらく自分へと向かったのだろう。 「兄さん?」  唐突に、知っている声が僕を呼んだ。後ろを振りかえると、少し離れた場所に妹の桜が立っていた。首を傾げて、棚の間にいる僕を見ている。両手で大きな袋を抱えていた。ドッグフードの袋だった。偶然、彼女も買い物に来ていたらしい。  隣で眠そうな顔をしていた森野が、ドッグフードの袋に印刷された犬の顔写真を見て、少しだけ頬を引きつらせた。  桜は、こんなところで会うのは珍しいという意味の話をして、それから森野に目を向けた。  森野は目を逸らしたが、それは桜と目を合わせないようにしたのではなく、桜の抱えていた袋の犬写真と目を合わせまいとしたのだろう。彼女は犬という文字のある棚には決して近づかなかった。 「こちらの綺麗な方は?」  桜は好奇心を含んだ顔でたずねた。おそらく想像しているような人間ではないのだということを、僕は丁寧に説明した。しかし彼女が納得した様子はなかった。 「まあいいわ。私はお母さんに言いつけられて買い物にきたの。ひとまずドッグフードを買って、あと、クリーニング屋で服を受けとって……」  桜は紙のメモを取り出して読み上げた。彼女は僕と違って性格がよい。受験生で忙しい時期なのに、人からさまざまな仕事を押しつけられると断れないらしい。 「……あと、隣の家のおばちゃんに豆腐とみかん。帰ったら犬の散歩をしなくちゃ」  そう言って、桜は去ろうとした。そのとき、森野に手を振ってにこやかに笑った。森野は妹の抱いているドッグフードの袋から目を逸らすので忙しいらしく、見てはいなかった。よろけるように棚へ片手をつき、全身で犬の写真を拒否している。  桜が去って見えなくなったのを確認し、僕は言った。 「もう顔を上げても大丈夫だと思う」  それを聞くと彼女は、体をまっすぐにのばした。まったくなにごともなかったとでもいうように棚と向かい合って、針金の束をチェックしはじめる。 「今のは妹さん?」  僕は頷いた。 「……私にも妹がいたのよ。双子の妹だったの。もう、ずっと以前に死んだけど」  初耳だった。 「名前は夕。夕よ……」  彼女は説明しながら、鈍く銀色に光る針金を指先で触っていた。青白い唇が動いて、白い歯が覗く。その奥から、彼女の静かな声が聞こえる。  夕は、首吊り自殺で死んだの……。  森野夜はそう言った。  雑貨店で様々な紐を首に巻いたが、不眠症を解決させるようなものはなかったらしい。僕たちは何も購入せずに店を出た。  大型雑貨店の広大な駐車場を横切り、通りのある方向へ歩いた。目の下にくまを作った森野は、強い風が吹けば倒れそうな力ない足取りだった。  大型雑貨店の巨大な建物以外、周囲にはほとんど何もなかった。畑や、枯れた草の生えている荒地があるだけだ。その中を、つい最近に舗装されたような黒いアスファルトの、広い幅を持つ道路が突っ切っていた。これから開発され、栄えていく地区なのだろう。  道路の脇にバス停があり、ベンチが設置されていた。そこに森野が腰掛ける。彼女は家の近くまでバスに乗って帰るらしい。  僕の家は反対方向で、歩いて帰ることのできる距離だった。バスに乗るつもりはなかったが、森野の隣に腰掛けた。  太陽が傾きかけていた。空の色はまだ青かったが、浮かんでいる雲の下の辺りがわずかに赤く染まっている。 「きみの妹の話を聞いてもいいかい」  彼女はちらりと僕を見た。口籠もったように、沈黙する。  目の前を横切っている道路は、通行量が多くない。たまにしか車が通らず、僕たちの目の前には、アスファルトの平らな面とガードレール、その向こう側に広がった枯れ草の荒地があるだけだった。広い視界の中で、はるか遠くに立っている鉄塔が、微小な粒のように見えた。 「……ええ、いいわ」  しばらくして彼女はそう言った。    † 2 「夕が死んだのは小学二年生のことだったから、私が覚えているのは、まだ八歳にもなっていない子供のころの彼女だけよ……。当時、私の家族が住んでいたところは、田んぼと畑しかない田舎だったわ……」  家は山裾にあったという。裏手に森があり、そこから鳥のはばたく音がよく聞こえたそうだ。 「私と夕は、同じ部屋に布団を並べて眠っていたの。暗くなって眠ろうとしていると、森から|梟《ふくろう》の声が闇を越えて部屋まで届いたわ」  古い木造の家は、黒光りのする板と柱でできていた。屋根の瓦には緑色の苔が生えており、家の周期の地面には、割れた瓦の破片がよく落ちていた。家の中は広く、後から増築した台所以外はすべて畳の部屋だった。そこに夜と夕の双子の姉妹と両親、祖父と祖母が住んでいた。  森野の父は、毎朝、二時間かけて町にある会社まで通っていた。祖父と祖母はよく、田んぼの水を確認するために外へ行ったり、納屋から道具を持ち出して畑で作業をしたりする。家から五分ほど歩いた場所に、畑や水田があった。家で食べる大根や白菜などは、いつもそこからとれていた。 「でも、うちでつくった大根は、店に売っているものと比べて、形もへなちょこだし、黄色味がかっていた」  庭に、木が何本も生えていた。地面は剥き出しの土で、雨が降るとぬかるみになり、泥水が水溜りをつくった。雨の後に庭を歩くと、足が地面にとられて歩き難かった。  家の左隣に納屋があった。母屋へ寄り添って立っているような、小さなものだった。中に、農作業の道具が置かれていた。台風で屋根が壊れていたが、青いビニールシートをかぶせたきり、修理をしていなかった。少し雨漏りしたが、農器具を置いているだけなので、さほど問題はなかった。 「妹とは、よくいっしょに遊んだわ」  小学生になると、麓の小学校まで手をつないで歩いた。道は細く曲がりくねっていた。片側は常に山の斜面で、様々な種類の木々が絡まりあっていた。反対側にも木は茂っていたが、たまに葉の間から、山の下に広がる景色が見えた。茶色の落ち葉が道の両端にたまり、雨で柔らかくなっていた。高い木の枝葉が太陽を遮るため、いつも道は薄暗く、湿った空気が立ち込めていた。 「登校するときは下り坂だったから得した気分だったわ。でも、家に帰るときはいつも上り坂だったから、損した気分にもなった」  夜と夕の姉妹は、顔、ほくろの位置、すべてが一致していたそうだ。その上、二人とも腰まで髪を伸ばし、服も似たようなものを選んで着ていたという。そのような姉妹が、両側に木の絡み合った山深い道を並んで駆け抜ける様を僕は想像した。 「……私たちはそっくりだった。母さえ、外見で私たちを見分けることなんてできなかった。お風呂に入る前、二人で裸になって、じっと押し黙っていたことがあるの」  母親はそのとき、どちらが姉で、どちらが妹なのか。判別できなかったそうだ。 「……もっとも、仕草や表情に違いがあったから、少し話をすれは、家族にも区別がついたのだけど」  見分けがつかずに困惑していた母親を見て、まだ幼い子供だった夕が、吹きだして笑ったそうだ。その瞬間に母親は、名前を呼びながら指差したという。 「こっちが夜、こっちが夕!」  妹の夕は、姉の夜に比べて、感情が現れやすい子供だったらしい。母親や父親が話しかければ、にこにこと笑みを返していたそうだ。 「そのころ気に入っていた遊びは、お絵かきと、死体の真似をすることだった」  夏休みになると、小学校のプールが開放されて、自由に泳ぐことができた。 「小さな小学校で、生徒全員の人数は百人くらいだったと思う。ひと学年のクラスに、二十人もいなかったわ。でも、夏休みには、ほとんど毎日、プールは大盛況だった」  白い輝きのような太陽の光と、子供たちのたてる水飛沫とが、夏休みにはあったという。プールに浮かんでいると、そこから見える近い山から、巨大な蝉の声がほとんど壁が倒れ掛かってくるように聞こえてきたそうだ。 「プールサイドにはね、子供たちが危ないことをしないよう監視するために、大人が一人か二人、いつもついていたわ。先生のときもあれば、生徒の親が持ちまわりでやっていたこともあった。ほとんどの場合、何も問題なんて起こらなかったから、日除けの下にあるベンチで近所話をしていただけみたいだったけど」  双子の姉妹はある日、監視をしている大人を驚かせようと水死体のふりをすることにした。  水にうつむいて浮かび、全身の力を抜く。二人でどちらが長く、そしてより水死体に近く振舞えるかを競争した。  エネルギーに満ち溢れている子供たちがブールではしゃいでいる中、水面に浮かんでいる姉妹の静けさは異様だっただろう。髪の毛を海藻のように漂わせながら、背中だけを水面に出して、息の続く限り身動きしない。息が続かなくなったら、そっと顔をあげて呼吸し、また死体となる。 「……予想外に大きな展開が私と夕を待ちうけていたわ」  そのときプールの監視をしていたのは、姉妹のクラスメイトの母親二人だった。いつまでも動かない双子の姿を見て、そのうちの片方がベンチから立ちあがって大きな悲鳴をあげた。その声でプールを泳いでいた子供たち全員がベンチを振りかえった。はしゃいでいた低学年の子供たちも、水泳の練習をしていた六年生も、みんな何が起こったのだろうと思ったらしい。悲鳴をあげなかったもう一人の母親は、立ちあがると、水面へ浮かんでいる姉妹を助けるために走った。しかし、プールサイドを走るのは危険な行為だった。 「その人は転んで気絶。悲鳴をあげた方の人は、それに気づかずにプールから離れて救急車を呼びに行っていたの。私と夕が、息を止めるのにくたびれて水面から立ちあがったとき、周囲は混乱していたわ。地獄絵図だった。低学年の子たちはわけもわからず泣き出していた。転んで気絶していた人のそばで、お母さん、って呼びかけながら肩を揺り動かしている男の子もいた。私と夕のクラスメイトだった」  彼女たちはお互いの顔を見ると、無言ですばやくプールからあがり、着替えもせずにその場から逃げたそうだ。 「こう、脇に着替えとバスタオルの入った袋を抱えてね、私たちは、靴を手にひっかけた状態で裏口から出ていったのよ。水着で田んぼのあぜ道を走っていたときにね、救急車が何台も何台も連なって遠くの道を通り過ぎていったわ。いったいあの母親は何人の水死体を見たのか、五台くらい走っていたと思うの」  小学校は麓に位置しており、山と反対の方向には、視界いっぱいに水田が広がっていた。緑色の稲の葉が地面を覆い、平たい絨毯が広がっているようだった。その中のあぜ道を、水着のまま彼女たちは歩く。 「草の先が、足をちくちくと刺したわ」  救急車が学校に到着した後のことはわからなかった。しかし彼女たちは、深く考えないことにして家に帰りつき、かき氷を食べて眠ったという。 「死体の真似といったら、ケチャップをお互いの顔に塗りつけて流血したように見せかけたこともあった」  冷蔵庫の前で向かい合い、指にケチャップをつけて、相手の顔に載せる。当時から白かった皮膚に、赤いものがつく。 「そうしていると、どんどんケチャップがたれてきてね、舌でなめて拭き取らなくちゃいけなかった。ずっとそうしているとケチャップの味に飽きてきて、最後にはソーセージにケチャップをつけて食べていたわ」  ある時、彼女たち姉妹は、ミートソースの缶詰を携えて外に出た。  家から少し離れた近所に、かつて交通事故のあった曲がり角があった。幼稚園に通っていた男の子が車に|轢《ひ》かれて命を落としていた。同じ場所で、夕が仰向けに横たわって目を閉じる。 「お姉ちゃん、いいよ。あの子がそう言ったのを合図に、私は夕の額にむけてミートソースの缶詰を逆さにしたの。あの子の顔にソースが落ちて、私たちの想像通り、まるで脳味噌がはみ出したように見えたわ。私は夕に、何があってもそこで身動きしないようにと命令したの。あの子は、ソースが入らないよう目を閉じたまま、頷いた」  夜はそばの茂みに隠れて、通りがかった近所の人が、わっと声をあげて驚くのを観察した。夕を見たのが幼い子供だった場合、大人の場合とは違って驚くことなく、何の遊びをしているのだろうという顔で夕に近づいていった。 「驚いた人も、すぐにそれがミートソースだと気づいて笑っていたわ。またか、という顔をするの。私たちは近所でいつも似たようなことをしていたから」 「車は通らなかったのかい?」  交通事故のあった場所なら、車がときどきは通ったにちがいない。そうなったとき、路上に寝ていた夕は危なかったのではないだろうか。  僕が質問すると、彼女は無表情のまま言った。 「車は、来たわ。夕は目を閉じていて気付かなかったけど。急ブレーキをかけて、あの子の直前で停止したの。夕はその昔でようやく上半身を起こした。顔のミートトソースを拭って、鼻先にある車のバンパーを見たの……。バンパーは銀色で、彼女の顔が映りこんでいたわ……」 「きみは妹に声をかけて、危険を知らせなかった?」 「……ええ、そうね。だまって見ていたわ。それもまた、おもしろいと思ったから」  罪悪感という言葉を彼女の声の中に探したが、見当たらなかった。おそらく、彼女の心から欠落しているのだろう。その辺りは僕と確かに同類だった。  彼女は説明を続ける。 「私たちは双子で、外見は同じだった。いつも、似たようなことを考えて過ごしていた。でも、少しだけ性格が違っていたの。妹は弱虫だった…‥」  僕と彼女の座っているベンチの前を、バスが通過する。さきほどバス停に止まって、僕たちが乗りこむのを待っていたのだが、森野が乗ろうとしないため、行ってしまった。後には、排気ガスの臭いだけが残った。  太陽がほとんど地平線に接している。東の空が暗かった。風が吹いて、ガードレールの下に生えた枯れ草を揺らしていた。  森野はベンチに深く座り、両手を握り締めて膝の上に置いていた。 「私たちは、死ぬことについてよく考えた。死んだらどこへ行くのか。どうなってしまうのか。そのことに、すごく惹かれたの。でも、夕よりも私のほうが、死の知識に豊富で、残酷な子供だったと思う……」  私はいろいろなことを夕に命令したわ、と、無表情に森野は言った。 「そのころ、納屋に動物を飼っていたの。四本足で、涎をたらす、臭い動物なんだけど……、つまりあれのこと」  おそらく犬のことだろう。彼女が昔、犬を飼っていたというのは意外だった。 「私の命令で、餌の中に漂白剤を混ぜさせたことがあった。別に、そいつを真っ白にしようと思って漂白剤を飲ませようとしたのではないのよ。あれが苦しむのを見たかっただけ……」  夕は彼女に、やめようと懇願したそうだ。 「でも、私は聞かないふりをして、夕の手で餌の中へ入れさせたの。嫌だと言ったけれど、許さなかった」  漂白剤を飲まされても、犬は死ななかった。しかし、二日間、もだえ苦しんでいた。両親や祖父、祖母たちは心配そうに犬を看病した。痙攣し、苦痛にあえぐ犬の声が、昼夜の関係なく納屋から聞こえていた。山の上へ広がる空に、高く、吠え声は響いていた。  夜はその様子を観察した。しかし夕は、恐ろしくて家の中でうずくまり、耳を押さえていた。 「夕は泣いていたわ」  夜は、その妹の姿もまた、犬を見るのと同じように観察したそうだ。自分の手で犬に漂白剤を飲ませることにより、夕が呵責で苦しむよう仕向けたのだろう。犬と妹の苦しみを両方同時に観察するという、夜の実験だったのだ。  夜と夕は、一度だけ、首を吊る遊びもしたそうだ。 「正確には、首を吊る一歩手前で踏みとどまるという遊びだった。雨の降る日だったわ。外へ行けないから、納屋の中でその遊びをしたの。……夕の死ぬ、数ヶ月前ではなかったかしら」  姉妹はそれぞれ、納屋の地面に木箱を置き、縦にふたつ積み上げた。箱の上に立って。|梁《はり》からぶら下げた紐の輪へ首を通す。後は、箱から飛び降りれば死ぬだけだった。 「いっせーのせ、で飛ぼう。私はそう言った。でも、それは嘘だった。自分だけ飛び降りないで、夕が首を吊って死ぬところを見るつもりだったの」  いっせーのせ。二人でそう合図しても、何も起こらなかった。二人とも飛び降りず、納屋の中には沈黙だけが残った。 「夕は、私の考えていたことに気づいていた。だから飛ばなかったのよ。私は彼女に、なぜ飛び降りないの、ってなじったわ。彼女は恐ろしそうに立ちすくんでいた」  夕は理不尽さを訴えることもできず、夜の罵りをだまって受けとめていたそうだ。 「夕は、きみにいじめられていたのか」 「そういうことになるのかも。でも、当時はあまり意識しなかったわ。それに、普段は仲良くしていたの。夕だっていろいろひどいことをしたのよ。死体のふりをして人を驚かせるのは、私よりもうまかったと思う」 「きみたちの力関係に、家族は気づいていた?」 「いいえ」  彼女は押し黙って、前方の道路を見つめていた。車が一台、通りすぎた。辺りは暗くなり始めていたので、ヘッドライトをつけていた。そのため、一瞬、彼女の横顔が光の輪の中にすいこまれた。風が彼女の髪の毛を散らして、頬に教本、引っ掛けた。 「夕が死んだのは、小学二年の夏休みのことだった。朝は晴れていたけど、だんだん雲が濃くなって、昼ごろから雨が降り始めた……」  昼の十二時を過ぎて、母親が買い物へ出かけた。父もおらず、祖父や祖母も出かけていた。家の中には双子の姉妹しかいなかった。  雨は最初のうち小降りで、窓に細かな水滴をつけていただけだった。しかしやがて、雨は強くなり、窓の水滴同士は重なって、重みで垂れて線になった。 「十二時半ごろ、夕が納屋に入っていくのを見ていた。私に声をかけなかったから、一人で何かやりたいのだと思って、私はついていかなかったの」  夜は、しばらく一人で本を読んでいたそうだ。  やがて一時間ほど経過すると、玄関の扉を開ける気配がした。玄関に行くと、袋に一杯の梨をぶら下げた祖母がいた。傘を畳みながら、「これ、近所の人からもらったんだよ、今、剥いてあげるからね」と祖母は言った。 「夕を呼んでくる。私はそう言うと、玄関先に祖母を残して納屋へ向かったの」  納屋の扉を、彼女は開ける。  そして夜は、それを目にした。すぐに叫び声をあげた。 「夕はぶら下がっていた。首に紐をかけて、天井から吊られていたの。私はすぐに玄関へ戻ったわ。祖母は梨の入った袋を抱えたまま、慌てている私を見て驚いていた」  夕が死んでる。彼女は祖母に教えた。  首吊り自殺だった。しかし、事故でもあった。  夕の体を吊り下げている紐のほかに、もう一本、縄があったのだ。胸のまわり、ちょうど脇の下に巻かれていた。農作業用の荒縄だつた。一方の端は夕の体に巻かれて、もう一方の端は尻尾のように下へ垂れていた。  天井の梁にも、同じ種類の縄がぶら下がっていた。もともとそれらの縄は、つながっていて一本だったらしい。それが途中で切れていたのだ。 「妹は、死ぬつもりなんてなかったの。胸に巻きつけた縄で、天井の梁からぶら下がるつもりだったのよ。首吊り死体のふりをして、みんなを脅かすつもりだった。でも、ぶら下がった瞬間、体を支えるはずの縄が切れてしまって……」  夕の葬儀は、静かに行なわれたという。  それで彼女の話は終わりだった。  疑問がひとつだけ残ったものの、僕はそれを聞かず、疲労して深く息を吐き出している森野の顔を見た。  太陽は地平線の彼方へ沈んでいた。道路脇の歩道を、街灯が連なっている。バス停は、時刻表の印刷されている部分が、内部のランプで光るようになっている。ベンチに座っている僕たちは、バス停の白くぼんやりした明かりに照らされていた。  道の遠くに、車のライトが見えた。大きな四角い正面で、バスだとわかった。エンジン音を響かせて、バス停の前に停車する。  森野は立ちあがり、開いた扉へ入っていく。僕もベンチを去る。お互いに別れの挨拶もないまま、振りかえりもしなかった。    † 3  森野夜から死んだ妹のことを聞いた二日後の土曜日、空は朝から曇っていた。学校は休日で、僕は朝早くに駅で電車に乗りこんだ。  電車は都会から離れ、次第に寂しい場所へ向かっていく。揺られながら、最初は車内にいっぱいだった乗客が一人ずつ消えていき、最後には僕だけとなる。窓の外を見ると、太陽のないくすんだ色の田園地帯が、横ヘスライドしていた。  民家のまばらな駅で降りた。駅前のバス停からバスに乗ってしばらく進むと、やがてゆるやかなのぼり坂となり、木々が増える。いつのまにか町を見下ろす高さになっていた。道路の幅は細く、ほとんどバスの幅しかなかった。道の両側の木々がガードレールを越えて伸びており、バスのガラス窓にあたって軽い音を出す。  森の中にあるようなバス停で下車した。バスが行ってしまうと、道には車がなくなった。時刻表を確認する。一時間に一本だけあった。夕方になると帰りのバスはなくなるらしく、それまでに戻ってこなければならない。バス停のまわりには木しかなかったが、少し歩くと視界が開け、点々と民家の屋根が見えた。  森野が生まれ、少女時代を過ごした町だった。一度、立ち止まって周囲を見渡した。晴れていれば、紅葉のために山は赤く見えていたかもしれない。しかし今は曇り空で精彩が失せている。  森野の住んでいた家へ向かって、僕は歩き始めた。足を交互に踏み出しながら、昨日、学校で交わした森野との会話を思い返す。  金曜日の昼休み、図書室に人はまばらだった。壁際に書架が並び、それ以外の空間には、閲覧のための机と椅子がある。森野は、人のあまりこない奥の席に座っていた。彼女を見つけた僕は、近づいて声をかけた。 「きみが住んでいた家を見てみたいのだけど」  彼女は読んでいた本から顔をあげて眉をひそめた。 「なぜ?」 「人の死んだ場所を眺めて歩くのが僕の趣味だってこと、忘れたのかい」  森野は僕から目をそらし、机に広げた本へ視線を落とした。立っている僕には、彼女の丸い後頭部しか見えなくなった。彼女は僕を無視して、本だけに集中しようとしていた。  彼女の読んでいる本に注意を向ける。ページの角に、『第3章・あなたは一人じゃない……前向きに生きる方法』という見出しが見えた。僕はわずかにショックを受けながらその見出しを読み上げた。彼女は顔をふせたまま、誤解しないで、という声色で返事をした。 「この本の内容なら、眠れるかと思ったのよ」  しばらく迷うように沈黙した後、彼女は再び顔をあげた。 「あなたに夕の話をしたこと、後悔しているわ。もし行くのなら、一人で行ってきて」  彼女の説明によると、家と納屋は取り壊されずに残っているらしい。祖父と祖母がそこで、農作業をしながら生活しているそうだ。なぜいっしょに行こうとしないのかとたずねると、寝不足で体調がすぐれないからよ、と彼女は言った。  次の日の土曜は学校が休みであるため、一人で彼女の田舎をたずねることに決める。住所と、そこまでの行き方を教えてもらった。なんとか日帰りで行ける場所だった。持っていた手帳を差し出して、地図を描いてもらう。 「突然に知らない男子高校生が訪ねたら、驚くだろうね」  僕がそう言うと、彼女は、わかった、と頷いた。電話をして、僕がたずねることを知らせておくそうだ。大自然をカメラで撮影するために田舎を訪れた、という名目で行くことにする。 「話はそれだけ?」  森野がいつもの無表情で聞いた。僕は手帳に描かれた地図を眺めていた。 「あいかわらず鳥肌の立つ地図を描くね」  そう言い残して、僕は彼女に背中を向けた。図書館を出るまで、ずっと、彼女の視線を感じていた。何かを言おうとして、言葉が喉で止まってしまったような、ためらいを含んだ視線だった。  低い灰色の雲を背景に、黒い鳥が飛んでいた。僕はそれから視線を外すと、手帳を取りだして、森野に描いてもらった地図を見る。地図上では、保育園の中を道路が突っ切っている。親はそのような保育園に子供を預けたがらないだろう。  解読しながら彼女の家を目指して歩き始めた。家の番地や目印になるものを聞いてメモにとっていたから、地図に頼らなくても辿り着けるはずだった。  歩きながら、一昨日、バス停のベンチで聞いた彼女の話を頭の中で反芻していた。残酷な心を持った少女と、その双子の妹についての物語だ。  夕は、首吊り死体で発見された。  しかし、森野の話でひとつ腑に落ちない部分があった。それは、彼女が妹の自殺死体を発見したときのことだ。  夜は納屋の戸口を開けて、すぐに悲鳴を上げた。そして玄関先の祖母へ、妹の死を教えに行ったという。  なぜ、夕がすぐに死んでいるとわかったのだろうか。彼女は妹と二人で、頻繁に死体の真似をして他人を驚かせていたのだ。それならば、また妹は死体の真似をしているのだと、少しでも考えなかったのだろうか。  見た瞬間、驚いて悲鳴をあげるのは自然な反応だろう。確かに本物の死体は、真似とは思えない迫力を持っていたかもしれない。  しかし、いたずらであるという可能性を考えず、死んでいると即座に断定して祖母へ知らせに行ったということが、僕には不自然に思える。  地図と道を幾度も見比べる。目の前に深い谷川があった。地図によると、そこはクリーニング屋のはずである。せっかく洗い終えた服が濡れる、と思った。  橋を渡りながら空を見上げた。山の頂上付近が、低く垂れこめた雲にかすんでいる。山の木々が、やけに黒々と見えた。  散々に歩かされた後、かつて彼女の住んでいた家を見つけた。山に抱きかかえられるように立っていた。古い家屋で、話の通り、屋根瓦に緑色の苔が生えていた。周囲には木と畑しかなく、夜になれば本当の暗闇へかわるだろう。門や塀はなく、道を歩いていると、いつのまにか家の敷地に入りこんでいた。  玄関に向かって歩くと、左隣に立っている小さな古ばけた納屋が視界に入った。夕が死体で発見されたという納屋に違いない。壁は白く乾燥した木の板である。屋根に青いビニールシートがかぶせてあり、ビニールの紐で固定されている。古いためか、全体的に傾いているような気がした。  僕はそれを横目で見ながら、玄関の前に立つ。戸は、格子状のサッシとすりガラスで構成され、横にスライドして開けるタイプのものだった。呼び鈴を鳴らそうとすると、後ろから名前を呼ばれた。 「**君?」  振りかえると、鍬を持って腰をまげた年老いた女性がいた。モンペ姿で、首の周りにタオルを巻いている。おそらく森野の祖母だろう。持っていた鍬には泥がついていた。離れた場所に立っていたが、見ただけで畑の土の匂いを感じさせる風貌だった。 「夜ちゃんから電話で聞いてたよ。待ってもこないから心配してたのよ」  にこやかに笑った皺だらけの顔は、森野の血縁者というイメージから遠かった。森野は、普段、まるですでに死んでいるような気配があり、彼女の祖母が感じさせるような、生活感や笑顔とは無縁だった。  僕は頭を下げて、様々な写真を撮ったらすぐに帰りますと説明した。しかし森野の祖母は話を聞かず、無理やり僕を家にあげた。  玄関に下駄箱があり、その上に、どこかの土産物らしい置物が数多くあった。正面に廊下が伸びており、芳香剤のような、他人の家の匂いがした。 「おなかがすいたでしょう」 「いえ、別に」  僕の言葉は無視された。台所のテーブルに座らされた僕の目の前に、料理の載った皿が並べられた。やがて森野の祖父らしい人物が現れた。背の高い白髪の老人だった。二人は、僕が森野の婚約者か何かだと思っているらしかった。 「そのうち、夜をもらってやってくれ」  彼女の祖父は、箸を持って食事させられている僕を見ると、いきなり頭を下げた。僕は窓の外を眺めながら、雨が降ってこないうちに納屋を見て、バス停まで戻り、最終のバスに乗りこむことができるだろうかと考えていた。  台所の食器棚に、写真が一枚、飾られていた。  人形のような少女が二人、写っていた。どちらも長くまっすぐな黒い髪の毛で、カメラを正面に立ったまま、にこりともしていない。服は黒色で、横に並んで手をつないでいる。家の前で写したらしく、背後にこの家の玄関がある。 「夜ちゃんと、夕ちゃんよ」  僕が写真を見ていることに気づくと、祖母がそう説明した。 「あの子が双子だったこと、もう聞いた?」  彼女の質問に僕は頷いた。 「六歳のころの写真だ」  森野の祖父が横から言った。それ以上、二人は写真について何も語らなかつた。  食事の後、仏壇に手を合わせることにした。礼儀を重んじているような態度を見せていれば、様々なことが円滑に進むだろうという配慮だった。  仏壇に飾られている夕の写真を見ながら、祖父母にとって彼女の死はまだ先日のことのように思えるのだろうと考えた。彼女の死は、今から九年前だ。僕や森野にとって九年前とは、これまでの人生の半分以上の長さになる。しかし彼女の祖父や祖母といった年齢の人にとっての九年前は、一年前や半年前という距離とさほどかわらないのではないだろうか。  仏壇で手を合わせた後、森野の祖母や祖父は、僕を居間に座らせて、高校で孫がどんな生活をしているのかと質問した。それに対して僕が答えるより先に、森野が昔どんなことをして遊んでいたかという昔話をはじめた。もしかすると僕の話には興味がないのではないかと思った。 「あ、そうそう、小学生のときに描いた絵がまだあるの」  楽しげにそう言いながら祖母が立ちあがり、奥へ消える。その背中を見送ってから、祖父はすまなそうに僕へ頭を下げた。 「家内があんなに浮かれて、きみに迷惑だったら申し訳ない」  僕は首を横に振り、いえ、と一応の一般的な反応を見せておくことにした。 「……夜がこれまでに一人も友達らしい人間を家につれてきたことがなかったものだから。きみがうちにくると聞いて、あいつは楽しみにしていたんだよ」  森野の祖母が、紙袋を抱えて戻ってきた。テーブル上に袋を置いて、中のものを取り出す。  古い画用紙が何枚も入っていた。森野が小学生のとき、絵の具やクレヨンで描いた絵だった。彼女に地図を描かせたときに薄々、気づいてはいたが、絵に関する才能は持っていないらしい。  画用紙の裏側に、名前と学年が記されている。  夕の描いた絵も交じっていた。二人の作品をいっしょに保管しているらしい。夜の名前の記された絵は一年から六年までそろっていたが、夕のものは、一年と二年のときに描いたものだけである。その事実が、確かに夕という少女はここにいて、そしていなくなったのだと主張している。  僕は、小学二年生のときに二人の描いたそれぞれの絵を見比べた。 「どっちの絵も、ほとんど何が描かれているのかわからないでしょう?」  祖母はそう言いながら微笑んでいた。姉妹の画力に差はない。しかし、姉妹はどちらも同じ題材を絵にしたらしく、似た絵を描いている。  どちらの絵にも、簡略化された家の断面図が描かれており、その中で、髪の長い女の子らしい人物が二人、並んで立っていた。それらの人物は、おそらく彼女たち自身の姿なのだろう。 「本当に、何をしているところなんだか」  祖母がそう言うと、祖父が答える。 「家の中に、二人で並んで立っている絵じゃないのかい」 「まあ、そのままじゃない」  そして笑う。  僕はだまっていたが、姉妹が何の絵を描いているのかがわかった。それぞれの絵に描かれている二人の人物の首から、赤い線が上に伸びて天井とつながっている。おそらく、納屋で首吊りの遊びをしたときの絵だろう。 「この絵はね、あの子たちが二年生の夏休みに描いた絵なの。宿題だったのよ。本当は夏休みが明けたとき、夕ちゃんはその絵を持って学校に行くはずだったのだけど……。それは、夕ちゃんが死ぬ数日前に描いた絵なの……」  なつかしそうに目を細めて、祖母はそう口にした。  どちらの絵も大差はないが、夕の方が若干、細かく描いている。天井の常に赤い紐がぐるぐると巻きつけてある様や、机み上げた木箱。家の上に浮かんでいる太陽。そして二人の少女の履いている靴。  夜の絵では、それらが細かく描かれておらず、シンプルに、あるいは大胆に塗りつぶされていた。足の先まで肌色一色で、靴を描こうともしていない。背景は暗い灰色である。  夕の絵に描かれている靴へ、僕は注意を向けた。片方の少女は黒い靴を履き、もう一方の少女は白い靴を履いている。意味があるのかどうかはわからないが、気にしておくことにした。  僕は、眺めていた絵をテーブルに置く。 「そろそろ森の風景を撮影したいので……」  そう言って話を打ち切り、持参したデジタルカメラを持って外に出た。  玄関を開けると、周囲が白くかすんでいた。最初は霧かと思ったが、小雨だった。細かい雨粒が、山一面を覆っていた。傘を差すほどのものではなく、デジタルカメラで周囲をてきとうに撮影しながら歩いた。  しばらくそうしていると、次第に雨粒が大きさをましていった。やがて、偶然に立ち寄った振りをして、家の隣に建っている納屋へ向かった。  納屋の扉は、木の板で作られた引き戸だった。閉ざされており、中は見えなかった。屋根のシートに落下する無数の雨滴の音が聞こえた。納屋の戸に指を引っ掛けて、横へ引く。多少、引っかかりながら開いた。  入り口から斜めに差し込む明かりで、中はぼんやり照らされた。枯れた植物の匂いが漂ってきた。  高さは二メートル、広さは三メートル四方。  地面は、粘土のような土である。  天井の近くに梁があり、壊れかけた屋根裏が見える。所々に空いた穴から、屋根にかけられたビニールシートの青が覗いていた。小さな電灯がひとつ、下がっている。  話によると納屋で犬を飼っていたらしいが、もういない。死んだのだろう。入り口がある正面の壁には、地面と接する位置に正方形の小さな出入り口がある。おそらくそれは犬専用の戸口で、犬はそのそばにつながれていたのではないかと推測する。  一歩、踏み出して中に入った。納屋の中にたまっていた空気が、ゆらりと揺れた気がした。わずかに湿って、冷えていた。  かつてここに、夕はいた。天井の梁から、彼女はぶら下がっていたのだ。そう考えると、ぶら下がって息絶えた小さな体の少女は、まだ納屋の中にいる気がしてくる。  入り口のそばにスイッチがあった。それをつけると、天井から下がっていた笠つきの電灯が光を点す。かろうじて中を照らし出すだけの、弱々しい明かりだった。  夜が僕に語った様々な話を思い出す。この地面に木箱を二つ重ねて、姉妹で首吊りをしようとしたこと。この納屋に飼われていたという犬の餌に、漂白剤を混ぜたこと。  夕の死について、僕は、夜を疑っていた。  夜は、納屋の扉を開けたとき、すでに妹が死んでいたことを知っていた。しかし家族の前で、たった今はじめて妹の死体を見たと演出したのだ。  なぜそうする必要があったのだろう。隠したくなるのは、どんな場合だったのだろう。その心理を考察すると、夜が妹の死に深く関係していたのではないかという推測に辿り着くのだ。 「ここで夕ちゃんは見つかったの……」  振りかえると、納屋の入り口に森野の祖母が立っていた。真面目な顔で、納屋の中の、少し見上げた位置に視線を向けていた。 「みんなを驚かせようとして死んでしまったと聞いています」  彼女の視線をたどり、僕も同じ場所を見つめた。おそらくそこに、夕はいたのだ。  土砂降りになってきたらしい。地面に雨の叩きつけられる音がする。しかし、納屋の中にいると、外にあるすべての音に膜がかかったようだった。雨滴が屋根のシートに当たって弾ける青も、風の音も、すべてくぐもって聞こえる。  台風で壊れて以来まともに修理されていないという天井から、水滴が落ちてきた。しかし、納屋にはほとんどなにも置かれていないため、被害はない。  片隅に農作業用の鋤や錐がある。壁に、鎌などがかけられている。|剪《せん》|定《てい》|鋏《ばさみ》や、巻かれて放置された荒縄もあった。  犬用の戸口のそばに、何種類かの紐がかけられている。犬をつないでおくための紐らしい。犬が死んでも、まだ残されているのだろう。様々な色があり、赤い紐が、特に目をひいた。 「あのときのことはよく覚えているの……」  森野の祖母が、静かな声で話した。 「私が近所から帰ってきて、傘を畳んでいると、夜ちゃんがちょうど玄関にいたわ……」  夜から聞いていた話と細部まで同じだった。彼女はぶら下げた袋の梨を見て、妹を呼びに行くと言い、納屋の戸を開ける。そして悲鳴。ひとつだけ、森野の祖母の話で腑に落ちない部分があった。それを聞こうとしたとき、靴の裏側におかしな感触がした。  いつのまにか、靴底が地面に張りついていた。地面は粘土のような土である。雨がふると、天井からもれる水滴で、わずかに柔らかくなるらしい。そのために粘度が高くなるのだろう。  足を上げると、靴底が地面から剥がれる感触。地面に薄く靴跡が残っていた。  夕が死んだ日も雨だった。地面はこうなっていたのだろうか。しかし、今、地面についた僕の靴跡は薄い。当時、まだ少女だった夜は、現在の僕よりも体重が軽かったはずだ。その重さで、靴跡は残るものだろうか。  僕は、開け放したままの入り口から、外を見た。雨は降り続いている。当時の納屋の地面が、今よりも雨が染みこんでもっと柔らかくなっていたとすれば、靴跡はついていたかもしれない。  夕が死んだ日、雨は昼ごろから降り始めた。それから夕が納屋に入り、夜はずっと家の中にいたという。死体を発見したときも、夜は入り口から中を見ただけだと聞いている。  もしも森野の祖母が、あの日、納屋の中で夜の靴跡を見ていたとしたら、バス停で聞いた彼女の話は嘘になる。夜の靴跡が残っていれば、死体を発見するよりも前に、納屋の中ですごしていた証拠となるからだ。 「夕さんが発見されたとき、地面に靴跡はありましたか?」  そのような|瑣《さ》|末《まつ》なことを覚えているかどうか怪しかった。しかし僕は、試しに質問した。 「夕ちゃんの靴跡ならあったよ」  森野の祖母は、そう返事をした。踏み台につかったらしい木箱が転がっており、それを片づけるとき、地面に子供の靴跡があったそうだ。  惜しい、と思った。夕の靴跡なら、納屋にあったとしてもおかしくはない。 「一目見てすぐに、夕さんの靴跡だとわかったのですか」 「あの子たちは外見が一緒だったから、靴で判断していたの。夜ちゃんは黒い靴、夕ちゃんは白い靴。靴跡も違っていて、そのとき納屋の地面にあったのは確かに夕ちゃんの靴跡だけだったの」  夕の描いた絵を思い出し、僕は納得した。どうやら、夕の靴跡に間違いはなかったようだ。その日、夕は白い靴を地面に並べ、裸足の状態で天井からぶら下がっていたという。律儀にも、多くの自殺者がそうするように、靴をそろえていたそうである。 「夜の靴跡はなかったのですね」  もう一度、僕は確認した。森野の祖母は、なぜそのようなことを聞くのかと、不思議そうな顔で頷く。夜は死体発見後、確かに納屋へは入らなかった。だから靴跡などなかった。納屋には子供の靴跡が一人分だったそうだ。  犬用の戸口を調べる。木の板が蝶番でぶら下がっているだけの、簡単なつくりだ。板を押せば、外からも中からも開く。そのあたりの地面は乾いていた。雨が降ったときかわいそうだという配慮からか、犬は、地面が濡れない場所につながれていたらしい。この戸口を使って外へ出れば、足跡はつかないだろう。 「夕さんが脇の下に巻いていたという縄は、まだ残っていますか」  森野の祖母は首を横に振った。どのようなものだったのかも忘れてしまったそうだ。 「それよりもあなた、今日はうちに泊まっていきなさい。外はすごい雨よ」  僕は考えて、頷いた。  二人で納屋を出て、家の中に戻る。森野の祖母は、写真に写すと良さそうな場所を説明しながら玄関を開けた。 「明日、天気が良くなるといいわね」  土間で靴を脱いでいるとき、下駄箱の上に並んでいる土産物の間に小さなプラスチック製のおもちゃがあるのを見つけた。指先でつまんで持ち上げると、お菓子のおまけについているような、花の形の小さなブローチだった。安っぽい色とデザインである。  このブローチは、主にどちらが所有していたものだろうか。それを見ていると、確かにここで、まだ幼い少女だった彼女たちが生活していたのだと改めて思う。  ブローチを手のひらに載せたまま、玄関から延びる廊下に目をやる。森野の祖母は先に部屋へ行ってしまい、視界からいなくなっていた。  僕は立ったまま想像した。  写真に写っていた人形のような双子の姉妹が、今、僕の目の前に延びている廊下を、並んで歩いている。今度はどういった死体の真似をして人を驚かせようかと、真剣な顔をして、ひそひそと秘密の会話をしている。想像の中の二人は、廊下を突きあたりまで歩いて角を曲がった。  僕はそれを追いかけるように靴を脱いで家に上がる。彼女たちの消えた先を見たが、当然、だれもそこにはおらず、黒光りする廊下の、静かで少し薄暗い空間があるだけだった。    † 4  月曜日の森野は、朝から僕の方を横目で見て気にしていた。田舎で僕が何をしてきたのか聞きたがっているのはあきらかだった。しかし僕は彼女の視線には徹底的に気づかないふりをして一日を過ごした。  彼女に声をかけたのは、夕方のホームルームで担任の先生が明日の連絡をし、椅子をひいて生徒たちが一斉に立ちあがって学校から解放された後だった。クラスメイトの数人が声をかけてきていっしょに帰らないかという意味の言葉を発したが僕は無視をした。といっても、何の反応も返さなかったわけではない。無意識のうちに頭のどこかで作り出した言い訳を適用して、ごく自然な様子で断ったのだ。自分がどのような言い訳を使ったのか、自分でもわからない。  僕は内心でクラスメイトなどにどのような関心も抱いてはいなかったが、自動的にそういった作業が行なわれるせいで、波風を立たせないで生活することができた。  やがてクラスメイトたちの足音が教室から消えて、廊下の遠くへ消え去ると、僕と森野だけが残った。彼女は自分の席に浅く腰掛けており、その姿勢はまるで沈んでいく船のようだった。やや睨むような格好で、じつと僕の方を見ていた。  僕は静かな教室をゆっくりと横切って彼女のいる席へ近づいた。森野の席は、教室の中で、窓際から三列目、後ろから三列目の位置にある。 「田舎の家に宿泊したらしいわね。祖母が電話で話していたわ」  森野はあいかわらず睡眠不足らしく、目の下のくまをさらに濃くしていた。 「ごはんがおいしかったよ」  彼女の前の席に腰掛け、横顔を向ける姿勢をとった。ちょうど正面に、視界の左隅から右隅まで、窓が並んでいた。外はまだ明るく、わずかに黄色味を帯びた空が見えていた。遠くから、どこかの部活のランニングをする掛け声が小さく聞こえてくる。教室の蛍光灯は消されており、窓から入るやわらかい光がすべてだった。 「きみの住んでいた家で、いろいろ聞いてきたよ」 「……たとえば?」 「子供のころに姉妹で行なったいたずらの数々とかさ。そして、怒られても夜は泣かなかったけど、夕はすぐに泣き出して姉の背中に隠れていたということも聞いた」 「あの子はいつも、私を頼ってばかりいたから」  お互いに黙りこみ、少しの時間、教室内には沈黙だけがあった。空気が、緊張を|孕《はら》んでいた。  僕は、彼女の方を見て、言った。 「森野夕の、いろいろなことについてわかったよ。細部は、聞達っているかもしれないけど」  彼女はそれまでの睨むような目つきをやめた。ゆっくりと僕から視線を外し、瞼を閉じる。淡いくまの上で、睫毛が震えているように見えた。 「……悪い予感はしていたの」  自嘲するような声でそう言うと、何がわかったのかを教えて、と話を促した。 「八歳で夕は死んだ。それから九年がたつわけだね」  僕は、目を閉じたままの彼女へ話をする。 「九年前のその日、きみは納屋で首吊り死体を発見して、祖母へそのことを知らせた。……しかし、きみは最初から、そこに死体があることを知っていた。本当は、玄関で家族のだれかが帰ってくるのを待っていた。そして家族の目の前で、妹の死をたった今、発見したというふりをした……」  彼女の反応を見ようと、話を区切る。森野は少し沈黙していたが、それで、とだけ言って続きを聞きたがった。 「きみは、妹の死をあらかじめ知っていた。でも、それを隠そうと演技をしていたんだ。……はたしてどのような場合にそのような心理となるのかを推測すると、ひとつの結論に落ち着く。その結論とはつまり、きみが妹の死に深く関係しているということだ」  森野は頷いた。僕はさらに続ける。 「夕は、天井の梁から、首を吊る紐と体を支えておく縄の二つを下げていた。ひとつは首に巻き、もうひとつは脇の下に巻いていた」  八歳の小さな少女が、木箱から飛び降りる。首が吊られたように一瞬は見える。しかし、胸に巻かれた縄で空中に支えられる。  そこへ、もう一人の、同じ顔の少女が現れる。壁にあった剪定鋏をそっとつかみ、天井からぶら下がっている少女へ近づく。その子の胸に巻かれて天井の梁とつながり、まっすぐ縦に張っている縄を鋏で切断する。  支えていた縄が切れると、吊られていた少女は今度こそ首でぶら下がる。 「きみは、殺したんだ」  森野は薄く目を開けた。僕を見てはおらず、視線も定まっていなかった。 「靴跡のこと、聞かなかった? 納屋に、私の靴跡はなかった……」  裸足でぶら下がっていたという少女の姿を思い浮かべる。当時、納屋の中の地面は、天井からの水滴で柔らかくなっていた。 「いいや、きみはあの納屋の中に、しっかりと靴跡を残していた。ただ、みんなは真実に気づいていなかっただけだ。きみは縄を切って一人の少女を殺害した後、地面にできた自分の靴跡に気づいた。そこで、ただその場を立ち去ったのでは疑われるかもしれないと思い、偽装をすることにした……」  自分の作り出した首吊り死体を見上げ、地面についてしまった自分の靴跡を見下ろし、幼い少女は窮地に立たされたことを知った。しかし、地面にそろえて置かれている靴が目に入ったとき、決心をしたのだろう。  それまで履いていた自分の靴を脱いで、転がっていた木箱に乗る。それ以上、自分の足跡を残さないように注意しながら、そろえて置かれていた靴を履く。かわりに、先ほど脱いだ自分の靴をその場に残していくことで、靴跡は自分のものではなくなった。 「後は、犬の戸口を通りぬけて外へ出た。その辺りの地面は乾いていて、足跡がつかないようになっていたからだ」  彼女はようやくはっきりと目を開けて、僕に視線を定めた。 「私が彼女を殺した動機は?」 「憎しみだよ」  僕が短く答えると、森野は悲しそうな顔をした。 「……あなたがさっき、『森野夕のいろいろなことについてわかった』って言ったとき、気づいた。もうばれてるって」  僕は頷く。  疑問に思ったのだ。彼女の祖母が玄関を開けて、そこにいたのがすぐに夜のほうだと気づいたのは不思議なことだ。双子で、同じ顔をしているのに、一目で判断できるわけがない。しかし、彼女が黒い靴をそのときに履いていたのであれは、すぐに区別はついたはずだ。 「九年間、みんなにだまっていたのは辛かったろう、森野夕」  それが彼女の本当の名前だ。  数人の女子生徒が楽しそうに笑いながら廊下を駆けていった。森野夕は少しの間、その声へ耳をかたむけるようにじっとしていた。笑い声はやがて、廊下に反響する小さな音となり聞こえなくなった。 「あなたの言う通り」  彼女は口を開く。 「私は妹のほう。いつも姉に命令されて、泣かされていたのが私よ……」  首を傾げて、問うような視線を向けた。 「なぜ、わかったの?」 「夕は首吊り自殺をするときに、靴を脱ぐ習慣があることを知らなかった。そのことに気づいたからだよ。かつて首吊りの遊びをするときに、夜から教えてもらっていたかもしれないが、おそらく忘れていたに違いない……」  彼女の家で見た絵のことを説明する。納屋で首吊りをして遊ぶ様を描いた絵である。 「あの絵はたしか、九年前の夏休みに描いたものだったね。夜の死ぬ直前だ。ということは、あの絵から窺い知ることのできる描き手の人格が、そのまま事件の起きた日の人格でもあったといえる」  夜も夕も、同じ場面を描いていた。しかし、違っている所がいくつかあった。  夕の絵では、二人の少女は靴を履いていた。しかし夜の絵の少女は、つま先まで肌色で塗りつぶされていた。最初、僕は、夕の方が丁寧に描いていたために、その違いがあるのだと思った。しかし後で考え方を変えた。  夜の方が、記憶へ忠実に、事実を正しく絵にしていたのではないかと思った。太陽を描いた夕と違い、夜の絵は背景が暗い灰色で塗りつぶされていたことから、その可能性は高かった。  バス停で森野は、雨の日に首吊りの遊びをしたと語っていた。夜は、靴を描こうとしなかったのではなく、裸足でいる場面を描いているのではないだろうか……。 「きみは.バス停で言ったね。夕よりも自分の方が死の知識に豊富で、残酷な少女だった、と。夜になりきったきみがそう言うのなら、夜という少女はおそらく、首吊り自殺をする者が靴を脱いでそろえてから死ぬのだというおかしな風習も知っていたに違いない」  双子の姉妹は、首吊りの遊びをするとき、靴を脱いで脇へそろえていただろう。夜はその知識を持っており、首吊り遊びのときにもそうすることにこだわっていたかもしれない。絵の中に知識を反映させることもできただろう。  しかし、夕はそうではなかった。遊びのときに靴を脱いでそろえたことも、おそらく忘れていたのだ。その知識もなく、絵の中で首吊りをしようとする自分たちに靴を履かせていた。  それなのに納屋で発見された首吊り死体は裸足だった。夕が一人で死体のふりをしようと思い立ち、純が切れて死んだのであれば、彼女の死体は靴を脱いではいなかったはずだ。  夕は沈黙して、まるで空気の音を聞くように耳をすませていた。それからゆっくりと唇を開けて、言葉を紡ぎ出す。 「黒い靴を履いていた姉が、死んだの。確かに、そうね、少し姉を憎んでいたかもしれない。でも、あなたの推測は少し違うわ……」  静かな声だった。 「胸に巻かれていた縄について情報がなかったのね。私は切っていない。自然に切れてしまったのよ……」  その日、十二時になると、姉の夜が、彼女に提案したそうだ。  首吊り死体の真似をして、みんなを驚かせよう。  夕はその提案に乗り、二人いっしょに納屋で作業をした。雨が降り始めたころだったという。そのころは犬も生きており、納屋の中で作業する二人を不思議そうに見ていた。 「姉が木箱を高く積み上げて、天井の梁に紐と縄を巻いた。私は足元で、木箱がぐらつかないように支えていた」  雨が納屋の地面を柔らかくする前から、夜は箱の上にいた。だから納屋に彼女の靴跡は残らなかったそうだ。  夜だけが死体のふりをして、夕は納屋までだれかをつれてくる役目だった。作業は進み、やがて夜は、梁から下がっている紐と縄を、それぞれ身につけた。 「そして、姉は飛び降りたの……」  夜が、乗っていた木箱を蹴って落下する。首が吊られたように見えた瞬間、脇の下に巻いた縄で、空中に吊り下げられる。  平気な顔で夕を見下ろし、笑ったそうだ。 「口の端を曲げて、人をだますときにいつもしていた微笑みを浮かべていた。姉は、家族と話をするときはいつも無表情だったけど、そういうときだけ、楽しそうにしたわ」  しかし次の瞬間、縄が自然に切れた。 「私は何もしていない。姉の重みに耐えきれず、勝手に切れたのよ。縄の切れた個所は、天井の梁の近くだった。もしもあなたが、その縄について詳しく知ることができていたなら、解答を修正していたと思う。私には手の届かない高い所で切れてしまっていたのだから」  夜は、一瞬、首で吊り下がった。 「でも、すぐに私が助けに入った。姉の体を両腕で抱きしめて、支えたの。それより下へ落ちないよう空中で抱きとめた……」  納屋の中、首で天井から吊り下がった少女を、同じ顔をしたもう一人の少女が必死に支える。吊り下がっている少女はもがき、空中を蹴るように足をがむしゃらに動かして暴れる。そばで紐につながれていた犬は、双子の騒ぎを聞いて、激しく吠えたてた。納屋には、鼓膜が破れそうになるほどの大きな犬の声と、暴れる少女の苦しげな声とが充満した。永遠にその状態が続くように、彼女は感じたそうだ。 「私は、姉を死なせまいと支えていた。力はなかったけれど、姉を後ろから抱きとめて……。でも姉はわめき声をあげてはかりで……、暴れる姉の踵が、何度も私のおなかを蹴り飛ばしたわ……」  森野はあいかわらず浅く椅子に腰掛けている。視線は遠く、教室の壁よりも向こう側を見ていた。おそらく、喧騒に充ちたあの日の納屋を見ているのだろう。彼女にとっての悪夢である少女の記憶の中にいるのだ。  夕が力を抜くと、姉の体が下がる。姉の首が絞まる。夜は必死に目をむいて妹へわめきちらしたそうだ。それは、夕を励ます種類の言葉ではなかった。 「姉は私に、しっかりしなさいこのぐずって……」  彼女は、耐えるように強く目を閉じて眉間にしわをよせた。 「その言葉を聞いた途端、姉を助けようとしていた私の腕から力が抜けていって……」  夜の体が、ずるずると下へおりていく。  地面から少し上の位置で落下をやめたつま先を、夕は見た。夜は靴を履いておらず、裸足だった。ひきつれるように、足の親指と人差し指との間が大きく開いていた。がくん、がくん、と、最初、動いていた。犬が激しくわめき、耳を|劈《つんざ》いていた。痙攣とその声とが頭の中に染みついた。 「やがて力が抜けきったように、ゆっくりと姉のつま先は空中で動きを止めたのよ……」  夕は一歩、後ろへ下がった。粘土のような地面に張りついていた靴底が、剥がれる感触……。地面に靴跡が残っていた。 「きっと、私ひとりの体重だったら、あの地面に靴跡なんてつかなかったと思う」  かたわらに、そろえて置いた姉の靴があった。 「それを見て、みんなに嘘をつく決心をしたときのことは、よく覚えているわ。あの小さな納屋の中で、まだ姉の体は少しだけゆれていて、時計の振り子のようだった……」  幼い少女は小さな頭で懸命に考え、一本の道を見出す。そろえて置かれていた黒い靴に履き替えて、それまで履いていた自分の白い靴をかわりに残していくことにしたのだ。  乾いた地面を選んで移動し、犬用の戸口から出た。新たに履いた靴は黒色で、その色は、夜であることを示すものだった。自分は夜だと言って振舞うしかなくなった。 「家族の前で、それまでのように笑うのをやめて、姉のように無表情でいつづけていれは良かった。いつもいっしょだったから、姉の癖を知っていて、真似ができた。私が夕だということに、九年間、だれも気づかなかったの……」  彼女はそこまで言うと、疲れたように深く息を吐き出した。  八歳の彼女は、自分の葬式を見たのだ。自分の本名を言わず、一人でこれまで生きてきた。彼女の内側でだれにも知られずたまっていった手首を切らせるほどの激しい感情、その根源は、姉や、埋葬された自分の名前のことだったに違いない。幼い少女が歩むことを決意した道は、少女の全存在をかけて歩かねはならないような、孤独と悲壮とに満ちていたのだろう。  窓から入る光はしだいにやわらかく、金色を増していく。半端に閉められた薄い黄色のカーテンが、傾いた太陽を透かしていた。野球部の金属バットがボールを打つときの甲高い音、それが空に響き渡り、消える。他にだれもいない教室内は、静かな時間が流れている。  やがて、言うか言うまいかを|躊躇《ためら》うように彼女は口を開いた。 「……はじめてあなたと会ったのが、いつ、どこでだったか覚えている?」  高校二年の、この教室だと思っていた。そう答えると、彼女はわずかに残念そうな顔をした。 「中学のとき、人間の輪切りが展示してある博物館であなたを見かけたの。その次は、高校に入学した春。図書館で、死体解剖の医学書をあなたは読んでいた。あのときの人だと、私はすぐに気づいたのよ」  だから、教室で僕が演技しているとすぐにわかったのだ。僕は腑に落ちた。お互いに、周囲へ隠していた自分の正体を見つけあったことになる。 「きみが昔、夕だったころ、ときどきはおかしそうに笑っていたというのが信じられないな」 「確かに、そうね。昔はそうだった。でも、あの納屋を出て以来ずっと、笑ったら、私が夕だってことがばれると思っていた。だから九年間、いつも無表情にしていたの。長いこと姉の真似をしていたから、私はもう、素直に笑うことなんてできないわ」  彼女は、ほとんど他人からはわからない程度の寂しさを含んでそう言った。僕から視線を外して言葉を続ける。 「最初に私の名前を呼ぶのは、あなたなんじゃないかと思っていたの……」  僕は立ちあがった。 「きみに贈りたいものがある。きみの田舎から、勝手に持ち出してきたものだ」  自分の机に置いた鞄から、それを取り出す。 「何?」  彼女は浅く椅子に腰掛けたままたずねた。 「きみがずっと探し求めていた紐だよ。たぶん、首に合うはずだ。僕が巻くから目を閉じて」  森野は椅子の上で目を閉じた。僕が背後に立つと、小さな肩が固くなり、やや緊張する様子を見せた。  彼女の首に、そっと、赤い紐を巻きつける。ところどころほつれた古い紐で、それはあの納屋の壁にかかっていた犬用のものだった。 「きみが犬を嫌う理由もわかった」  僕は、彼女の白く細い首と、長い髪の毛とを、いっしょに紐の中へとじこめて軽く絞めた。その圧迫を受けて、少し彼女の肩が上がった。その状態で一度、僕は動きを止めた。  それから紐を結び、余った部分を後ろに垂らす。 「そう、この感じ……」  彼女はため息をつくように言った。緊張が解け、彼女の内側にあるものが、やわらかく、静かに解き放たれていくのがわかった。  夜は、犬用の紐で首を吊って死んだ……。彼女は記憶の奥底で、このことを封印していたのだろうか。自分の求めていたものが、かつて姉との首吊り遊びで使っていた紐だったということに気づいていない。 「ねえ、私は姉さんを憎んでなんかいなかった……。ときどきひどいことをされたけど、それでも姉さんは、かけがえのない存在だったのよ……」  僕は鞄を片手に持って、帰ることにする。  教室を出る前、彼女の席のそばを通りすぎるとき、僕は夕を一度、振りかえった。椅子に浅く腰掛けた彼女は、両足を伸ばして前の席まで突き出している。両手を胸の上で組んでおり、首に巻きつけた赤い紐は、両端を教室の床に垂らしている。  やわらかく瞼をおろし、睫毛の陰が薄く目の下に落ちている。頬には産毛があり、兎の背中のようだった。傾いた太陽に照らされて産毛が輝き、光を纏ったように見える。涙が頬の上を伝って、顎先から制服に落ちた。  僕は彼女を一人で残し、教室の扉を静かに閉めた。 [#改ページ]  ㈸ 土 Grave [#改ページ]    † 1 「お兄ちゃん、お兄ちゃん……」  コウスケが佐伯を呼んだ。いつもは無邪気で楽しげな声を出す子だったが、今日は元気がなかった。コウスケは近所に住む幼稚園に入ったばかりの小さな男の子である。 「……どうしました?」  佐伯は庭で、朝顔の花を愛でながら返事をする。夏の、朝早い時刻だった。花弁に細かな露がついて光っている。ラジオ体操へ向かう小学生たちが、庭を囲む塀の向こう側を通りすぎた。塀は佐伯の胸の高さまであり子供たちの姿は見えないが、複数の小さな足音と声が聞こえた。 「お兄ちゃん、お父さんはまだ怒ってるかな」  彼は昨日の夕方頃、泣き顔で佐伯の家にきた。それからずっと、家には戻っていない。理由をたずねると、彼は涙声で、父親の大切にしていた骨董品の置物を落として壊してしまったことを説明した。日ごろから触ってはいけないと厳しく言われていたにもかかわらず、彼は好奇心に負けて、触れてしまったらしい。 「きっと、もう怒っていないと思いますよ」  昨日の夜、彼の両親が佐伯のうちへ来たときのことを話して聞かせる。玄関で応対した彼の親は、『うちのコウスケを見ませんでしたか』と、心配そうな表情で佐伯に尋ねた。佐伯はそのとき、首を横に振って知らないふりをした。さらに、彼らと一緒に近所を歩いてコウスケを探す手伝いもした。 「本当に怒ってないと思う……?」 「ええ……」  目の前に咲いている朝顔の草は、地面に突き立った竹に巻きついている。乾燥して薄い茶色になった竹である。  佐伯の住む家は古い一軒家で、周囲に並んでいる家と比べて広い庭を持っている。ほぼ正方形の敷地の、東側の辺に接して家と車庫が並んでいる。それ以外の空いた空間は、様々な木々で占められていた。ちょうど夏の今の時期、それらが高く葉を茂らせている。  佐伯は子供のころから、植物を育てるのが好きだった。朝顔は、そのような庭の、塀に沿った場所に咲かせていた。  今日も空が晴れていた。次第に高くなっていく太陽を遮る雲はない。朝顔の巻きついた数本の竹の影が、塀と庭木の間から差しこむ朝日のため、まっすぐな黒い線として伸びていた。  コウスケの泣き出す声が聞こえた。  昨日の夕方、コウスケがうちに来て、隠れさせてほしいと言ったとき、佐伯はすぐに彼を家の中に通した。道に顔を突き出し、だれにもその様子を見られていなかったか確認して玄関を閉めた。 「コウくんは、お兄ちゃんのうちにくることを、本当にだれにも教えていないのですね?」  念を押してたずねると、彼は涙を拭いながら小さな頭を縦に振った。子供の言うことを、どれだけ信じられるだろう。しかし、そのときの佐伯は、この機会を逃してはいけないと思った。  以前からコウスケといっしょに蝉取りをしたり、空き箱で工作するのを眺めたりするときに、頭の片隅をよぎるものがあったのだ。それは、決して近づいてはいけない自分の妄想だった。恐ろしい計画で、そのようなことをときどき考えてしまう自分に嫌悪した。しかし昨日の自分は、まるで頭に霞がかかったようになっていた……。 「お兄ちゃん、ぼく、お父さんにあやまったほうがいいのかな……」  佐伯は胸がつぶれそうになる。コウスケは今の自分の状況がわかっていないのだ。自分は彼に、かわいそうなことをしてしまった。  彼が憎かったわけではない。家族をなくして家に一人きりで住んでいる自分は、コウスケを本当の弟のように思って接してきた。彼の両親が出かけるときも子守りをひきうけ、一緒に散歩をした。彼の両親と同じくらいに愛情を抱いていたはずである。それなのに、なぜこのようなことをしてしまったのだろう。しかし、もう時間は戻らないのだ。 「……コウくんは、もう家に帰ることはできません」  佐伯の声は思いのほか震えた。  庭に咲いているいくつかの朝顔は、それぞれ一本ずつ親木として添えた竹に巻きついている。それらの竹のうちの二本だけが、他のものよりもわずかに径が大きい。  コウスケは、震える声を聞いて、佐伯の様子がおかしいと気づいたのだろう。 「お兄ちゃん、どうしたの……?」  彼の問いかける声が、地面に突き立った太い竹の先端から聞こえてくる。中は|刳《く》りぬいており、地面に埋めた棺桶の中の物音を、上に立っている佐伯のもとまで届けるようになっている。コウスケは今、自分が地中に埋められていることを知らないでいる。それが憐れでならない。  昨日、コウスケを家にあげた後、佐伯は決心して奥の部屋へ通した。 「この箱に隠れるといいですよ」  そう言いながら、部屋に置いていた箱を指差した。縦長の直方体で、コウスケが中でちょうど寝転がることのできる大きさである。  コウスケは佐伯の言うことを普段からよく聞いた。そのときも、怒った父親の影に怯えるはかりで、佐伯に対しては何の疑いも抱かず自ら箱の中へ隠れた。  コウスケは気づいていなかったが、その箱は以前から自作していた棺桶だった。佐伯はそれに蓋をすると、釘付けをした。棺桶の蓋には、あらかじめ二つの空気穴を開けていた。それぞれの位置は、中で寝転がっているコウスケの、頭の上あたりと、足元のあたりである。中に閉じ込められても呼吸だけはできた。  コウスケの入った棺桶を部屋に残して、庭へ行く。縁側のちょうど正面、塀の手前に、昨夜、掘ったばかりの穴があった。それをスコップで少し大きくするだけで、コウスケの入った箱を埋められる程度の穴ができた。  その作業が終わると、再度、部屋に戻り、棺桶を穴のある場所まで選んだ。その最中、箱の中のコウスケには、父親に決して見つからない場所へ運んでいるのだと説明した。棺桶を縁側から苦労して庭に下ろし、穴まで運んで、その中に横たえる。  中を刳りぬいて筒状にした竹を、蓋の空気穴へ通した。後はスコップで上に土をかぶせると、コウスケは完全に地中へ埋まった。  二本の竹筒が何もない地面に立っている様は不自然な気がした。そこで、別の場所に育てていた朝顔を数株、親木として差していた竹の棒といっしょに、塀のそばへ移動させた。そのうちの二株を、それまで巻きついていた竹の棒から丁寧に蔓を解いて、コウスケの呼吸を約束している竹筒へ巻きなおした。これで竹筒は、何も知らない人間にとって、朝顔を支える親木としか思えないだろう。 「お兄ちゃん、どうしたの? ねえ、ぼくうちに帰りたいよ……」  竹筒が、喋った。  生き埋めにされたコウスケがかわいそうだった。それでいて自分の手は冷静に竹をつかみ、間違って倒れないようぐっと地面に突き刺してまっすぐにしている。  自分はどうしてしまったのだろう。確かに自分は、この子へ愛情を抱いていたはずである。以前、コウスケが佐伯の見ている前で車に|轢《ひ》かれそうになったことがある。ボールを追いかけるのに夢中で、走ってきた車に気づかなかったのだ。コウスケにぶつかる直前で車が急停止したとき、佐伯は安堵のため、その場に座りこんだ。しかし今、自分が少年に対して行なっていることは、いったい何なのだろう。  子供のころから佐伯は、今の家に住んでいた。当時は両親と祖母が一緒に暮らしており、共働きの両親よりも祖母になついていた。まわりの子供が野球やプラモデルで遊んでいるとき、自分だけは祖母といっしょに花を育てていたのを覚えている。植木鉢にスコップで黒い土を入れ、花の種を埋める。そのような佐伯を、よくクラスメイトたちは、女みたいだと馬鹿にした。線の細い佐伯は、確かに女の子と聞達われることが多かった。そのことでよく、傷ついた。  しかし祖母は、並んでいる鉢植えに如《じょ》雨《う》露《ろ》を使って丁寧に水をかける佐伯へ、やさしい子だねと言ってくれた。佐伯は落ちこむたびに、その言葉を思い出した。そして、決して祖母の気持ちを裏切らないよう正しく生きようとした。  しかし、いつごろから、生き物を埋める、という妄想に取りつかれたのだろう。気づくと頭の中に、自分がそうしている映像はかりが浮かんでいた。  庭に水を撒くのが好きで、晴れた日には、よくそうした。ゴムホースを伸ばして、口の部分を指で平たく押しつける。すると水圧で水が遠くまで飛んだ。扇形に水が広がり、庭の木々に当たって弾け、光を反射した。それを見た瞬間、あるいは祖母が微笑んでいるのを見る瞬間、世界が明るく照らされているような、晴れ晴れとした気分になった。  同時に、心の深い、光も差さないほどの暗い部分で、例えば祖母を箱に閉じ込めて地面に埋めることを考えた。そのようなことを考えている自分が、一瞬の後に許せなくなる。なぜそういった悪魔のような想像をしたのかと動揺した。まともに祖母の顔を見ることのできないときもあった。自分が想像したことを|覚《さと》られるようで、恐ろしかったのだ。  何か、自分がこうなる原因となった心の傷でもあるのだろうか。思い当たる節はないが、忘れているだけかもしれない。それともあるいは、もっともこれは恐ろしいことだが、自分は最初からそういった人間として生まれついているのだろうか……。  佐伯が成人して数年が経過したころ、両親と祖母は交通事故で死んだ。就職先で、佐伯はそのことを知らされた。  それまでは家族の姿が家の中にあり、彼らと触れ合うことによって、自分の社会的立場を振り返らされていた。しかし家で一人になると、想像を想像のままとどめさせておくものが、なくなったように思えた。佐伯は毎日、職場を出て家に戻ると、話し相手のいないまま同じことを考え続けた。子供のころから度々、頭に浮上してくる妄想だった。考えるだけでもいけないことだ、と頭を振って自らを戒めようとした。その反動のためか、造園の趣味に熱がこもった。  家族のいたときは、せいぜい鉢で植物を栽培したり、庭木の手入れをしたりするだけだった。そこに手間をかけはじめ、よそから植木用の土を運んで庭の土質の改造を行ない、塀の内側に庭木を少しずつ増やしていった。  佐伯は一年中、木を植えるための穴をスコップで掘り続けた。職場にいないとき、佐伯の唯一の生活がそれだった。同い年の人間が興味を持つどんなことにも関心を示さず、ただ一人きりで庭に穴を掘り、それがすむと木を植えた。  やがて、家の周囲と塀の内側までの余分にあった敷地を木が覆った。塀の外から頭を突き出して中を覗いても、林立する木のためにほとんど家は見えなかった。ただ一ケ所、縁側から見える景色だけにはこだわったため、その辺りだけ木が植えられず、塀から家までの間に障害物はなかった。その空間には花壇が作られ、季節ごとに鮮やかな花が咲いた。  佐伯は当初、木を増やすために自分は穴を掘り続けていると思っていた。しかし途中から、掘った穴に対して何か存在の理由をつけるために木を植えていたという方が正しかった。最終的に、穴だけ掘って、また埋めなおすという作業を行なった。庭の大部分に木が植えられ、もはや枝を伸ばす場所などなかったから、木を増やすことが困難になっていたのだ。それでも穴を掘り続けていたのは、そうすることによって地中に人間を埋めるという妄想の霞が晴れそうだったからである。事実、穴を掘るという作業は、佐伯の頭から何もかもを忘れさせた。しかしそれも、スコップの先端が土に刺さり感触が手にくる、その一瞬のみだった。  掘り終えた後、何も埋めないまま土を戻すという作業には、いつも空虚なものを感じた。妄想から目を背けて無意味な穴を掘るほど、その後に残る頭の霞は濃くなっていくようだった。しかしそれでも穴を掘って忘れないわけにはいかず、コウスケを埋めるとき、前夜に掘った穴がまだ残っていたのはそのためだった。  近所の住人は、夜毎に聞こえるスコップの音を聞いても、奇妙なことだと思ってはいないようだった。佐伯の顔を見ると、みんな会釈をして、たまに植物の栽培方法を尋ねるものもいた。みんなは佐伯の造園の趣味を知っており、不審に思うよりもむしろ、家族を亡くして趣味だけが残された人として同情しているようだった。  コウスケと親しくなったのは、家族を失った二年後のことで、今から一年前だった。彼が庭へ迷いこんできたのがきっかけだった。お互いすぐに仲良くなり、その家族ともいっしょに出かけるほどの仲になった。  コウスケと知り合って十ヶ月ほど経過したとき、佐伯はふと車庫の中に、コウスケの背丈と同じ程度の大きさをした木の板があるのを見つけた。棺桶を作るのにちょうど良さそうだ、と一瞬、考えた。  そのときは頭を振り、そう考えた自分に怒りさえ感じたが、次の日から棺桶作りをはじめた。自分はなぜこのように馬鹿なことをしているのだろうかと苦笑した。実際に使うことなど永久にないのだ。そのくせ、手は佐伯の頭を群れて半ば自動的に木の板へ釘を打ち、箱の形へと仕上げていった。 「お兄ちゃん、ぼく、うちへ帰るよ、ここから出して……」  竹筒の先端から、コウスケの泣き声が聞こえる。まっすぐ立っている筒の中は、暗く、陰になっている。その中を通りぬける幼い声は、反響し、くぐもって地上に届く。  佐伯は、もはやコウスケに対してどう声をかければいいのかわからなかった。かわいそうに……、かわいそうに……。憐れで、そう繰り返すしかできなかった。手が、いつのまにかゴムホースを握っていた。家のそばにある蛇口へと、それはつながっている。  夏の暑さが強くなっていく。蝉の声が、頭上から降ってくる。熱気が首の辺りから次第に体を包んでいった。地面は日差しに焼かれて乾燥し、白くなっている。  そこに一筋、水の線が伸びてきて、佐伯の履いているサンダルのつま先をかすめて過ぎた。水の線は、コウスケの埋まっている辺りから伸びていた。竹筒のうち一本の先端から水が溢れ、巻きついている朝顔を濡らしながら地面に水溜りを作っている。空気穴に通した竹筒だった。  もう一本の筒の先端には、ゴムホースがはまっている。佐伯はそれを見て、ようやく自分のしていることをはっきりと覚った。といっても、それまで無意識ずくで行動していたわけではなかった。  自分が竹筒にホースをつけて蛇口をひねり、地中にある箱の中を水で満たそうとしていることは把握していた。ただ、ぼんやりと自分が夢の中にいるような気持ちで、普通の人間にはあるはずの良心は機能していなかった。  水は棺桶の中に充満し、行き場を失った未に、水圧で押し上げられてもうひとつの簡から溢れ出てくる。夏の太陽が、筒先から噴水のように溢れる水へ反射して輝く。佐伯は不意に、綺麗だと思った。蝉の声に混じり、ラジオ体操から戻ってくる子供たちの声が、塀の向こう側から聞こえてくる。さきほど開いたときとは反対から近づいて、通りすぎる。コウスケの声はもはや聞こえなくなった。朝顔の花弁に皺がより、枯れはじめていた。  気づくと、三年が経過していた。  その間、警察につかまるようなことはなかった。コウスケの両親は悲しそうな顔で引っ越しをし、佐伯は去っていく二人を見送った唯一の人間となった。だれも、佐伯がコケスケを殺したなどとは思っておらず、むしろ少年の失踪でもっとも悲しんだ人間のうちの一人として近所では思われていた。  特別に演技をしていたわけではなく、悲しみは本心だった。しかし、良心の咎めから、子供を失った親が泣いているのをまともに見てはいられなかった。清らかな涙を前に、自分の行なったことの恐ろしさだけ際立つ気がした。  三年間、いつか自分の行なったことがだれかに見つかるのだと不安に怯えながら過ごしていた。その間、コウスケの埋まっている辺りの地面に、決して佐伯は近寄らなかった。結果としてそこには雑草が茂ることとなった。朝顔は、枯れた後、散らばった種から芽が出て、雑草に混じって再び育っている。コウスケの住んでいた家へは、新たに家族が引っ越していた。  今年の初夏のことだ。ある家の主婦が回覧板を持って佐伯のうちへ来た。玄関先で彼女と、そのころワイドショーで騒がれていた連続少女惨殺事件について話をした。しばらくすると、話題は行方不明となったコウスケのことに転じた。 「コウスケくんがいなくなってもう三年ですね。佐伯さん、仲良くしていらっしゃったから、寂しいでしょう」  佐伯は緊張したが、コウスケの幼い笑った顔を思い出し、悲しくなった。自分の手で地中で溺死させたくせに、寂しくて会いたくなるという屈折した精神を、ときどきおぞましく思った。  厳粛な気持ちで佐伯は頷いた。しかし、ふと顔を上げて主婦の顔を見たとき、不思議な気持ちになった。彼女は、特に悲しんでいる様子を見せておらず、いつのまにか話題は、暑くなって鳴き始めた蝉のことへと変わっていた。もうコウスケのことは、世間では過去のことなのだと思った。  数日後、気づくとまた新たに木の板と釘を購入して人間を入れるための箱を作っていた。道を歩いている人間から、塀越しに作業を見られてはいけないため、箱の製作は家の中で行なった。のこぎりで板を切断し、散らばる細かい木屑が、作業場のかわりとしている和室の畳を覆った。  自分はまた、新たに罪を重ねようとしているのだ。人間を地中へ埋めるという恐ろしい考えは、コウスケを埋めてから後も、たびたび頭をよぎっていた。それでいて三年間、実行を踏みとどまらせていたのは、良心の呵責と、それを上回る恐怖だった。コウスケのことがだれかに気づかれることが恐かった。  しかし、回覧板を持ってきた主婦の表情を見て、胸の奥深いところに住む、黒い凶暴な動物が、もぞりと身動きした。その動物はしばらく隠れるように身を潜ませていたが、もはや眠りから覚めたように瞼を大きく広げて、佐伯の体を恐ろしい計画のために再び操っていた。佐伯は板に釘を打ち付けて棺桶を作製しながら、その黒く醜い自分の内に住む化け物が口を開けているのを感じた。  窓を閉めきっていたため、熱気が部屋に充満し、うつむいて作業する佐伯の鼻先から、汗が落下した。体中が熱かった。  やがて完成した棺桶は、コウスケを入れたものよりも大きなものだった。そのとき中は空だったが、佐伯は人間が入って横たわっている様を容易に頭へ思い描くことができた。  庭へ穴を掘った。場所は縁側の正面、塀のそばの地面で、コクスケの埋まっている場所から一メートル離れた隣である。その日以降、朝に縁側へ立ってその方向を眺めると、人間の棺桶が入る程度の大きな窪みが、暗い穴となって影を湛えているのが見えた。  地中へ埋める二人目の人物は、だれがいいだろう。佐伯は慎重に選び、そうしているうちに数ヶ月が過ぎた。棺桶を作製したときは初夏で、日ごとに暑くなっていく気温のことを、いつも職場の同僚と話していた。それが今では、夜が冷えこむという話題に変わっている。普段着の袖も長くなっていた。  いつのまに夏が過ぎ去ったのかわからない。佐伯はその間、なんとか自分の新たな凶行を思いとどまらせようとする良心と、新たな獲物を探して舌なめずりしている狂った暗黒の部分とが胸の内で戦っているのを感じていた。しかしそのような内面は表に決して現れず、まわりから見た自分はどうやらいつも通りの自分らしい。まるで自動的に動く機械にでもなったように、それまでと同じ日常生活を問題なく処理していた。  十月末の、金曜夜のことだった。佐伯は職場を出て駐車場に止めていた車へ乗りこむと、家に向けてアクセルを踏んだ。辺りはすでに暗かった。ヘッドライトをつけた車の列に入って進みながら、自然と目が歩道を歩いている人間に向いた。一瞬の後、自分がまるで品定めをするように人を見ていたことに気づいて動揺する。そのようなとき、ルームミラーに写っている自分の表情には、どんな感情も見えない。目の黒い部分が、まるで小さな穴になっているように思える。  いつも職場では、物静かで分別のある人間としての扱いを受けていた。家から持ってきた花を飾り、上司からまかされた仕事に対して不満をもらすことなく処理していた。そのうちに人望もできて、周囲から信頼の目で見られるようになった。しかし彼らは、佐伯が一人の子供を殺した人間であることを知らない。  家に近い場所までくると、車を左折させて人通りの少ない道に入る。  そこで佐伯は、その少女を見た。  彼女は道の端を歩いていた。ヘッドライトに照らされて、後姿が浮かんだ。黒い制服を身にまとい、長い髪の毛が背中に垂れていた。  少女の脇を通りすぎ、佐伯は無意識にスピードを落とした。少女の髪が、目に焼き付いていた。体ごと吸い込まれてしまいそうな、黒色の髪の毛だった。  フロントガラスの隅を見上げると、満月が夜空に浮かんでいた。雲はかかっておらず、周囲は静かに降ってくる白い月光で薄く照らされていた。住宅地の中にある、公園のそばだった。並んでいる並木は半分以上、葉を落としている。  十字路を右へ曲がってすぐのところに車を止めた。ヘッドライトを消してミラーを確認し、少女が来るのを待った。  少女が十字路をまっすぐ進むか、左手に曲がるかしたら、車を発進させて帰宅しよう。明日は休暇である。ゆっくりと眠り、体を休めることにしよう。  しかし、もしも少女が自分のいる方へ曲がってきたら……。  枯れ葉が一枚、落ちてきた。運転席のガラスに当たって路上に着地する。先日、家にまわってきた回覧板のことを思い出す。今いるこの道の落ち葉掃除について記述があった。日時は、たしか今日の夕方だったはずだ。それにしては、道の上にところどころ枯れ葉が散らかっている。しかし、朝にこの道を通ったときは一面に枯れ葉が積もっていたのだから、綺麗になったほうだろう。そう考えているうちに、また一枚、枯れ葉が静かに落ちて、今度はフロントガラスのワイパーの上に載った。  何も物音はなく、車の中で佐伯はハンドルを強く握り締めたまま待った。ミラーの中に、さきほど曲がってきた十字路が写っている。月に薄く照らされたそこに、やがて少女が現れた。    † 2  自宅の車庫に車を入れると、佐伯はシャッターを下ろした。静かな夜の住宅地に、金属製のシャッターのやかましい音が響く。車庫の正面に立って、厚く降り積もっている枯れ葉を見下ろした。植え続けた木は車庫のすぐそばまで密集しており、覆い包むように枝を伸ばしている。そのため葉が落ちると、車庫は落ち葉の中へ埋もれるような姿となる。そのうちに箒で掃かなければいけない。  両親と祖母が死に、家で一人になってからは、掃除や洗濯をすべて佐伯がしなければならなくなった。生活を送る上での、そういった様々な作業をするときに、自分は一人なのだと思い出す。  先日、結婚した同僚は、のりのついたシャツを着て職場に現れた。上司は自分の机で、時折、子供と写った写真を眺めている。 「佐伯さんはご結婚されないのですか?」  同じ課にいる後輩の女性にそう聞かれたことがある。  自分には無理だと思っていた。恋人、親友、家族、それらはすべて遠い場所にあり、手は届かない。職場で人と差し障りのない会話をすることはできる。しかし、深いつながりを持てるという自信はない。  自分の抱えている悩みを秘密にしていると、無意識に人との接触の中で、他人を近づけさせない壁を作ってしまう。この恐ろしい悩みを打ち明けられる存在などこの世にいるわけがないのだ。  冷たい風が首筋をなでた。昨日よりも一段と冷えている。佐伯は体を忍ばせながら、風に吹かれて地面を流れていく枯れ葉に目を落とす。しかし、寒さは冬が近づいているという理由のみではなかった。佐伯は、自分が背広の上着を脱いだままで立っていることに気づく。自分のワイシャツが皺だらけなのを見て、新婚の同僚の幸福そうな顔を思い出す。彼のシャツはいつもアイロンがけされている。  他人のことは考えまいと頭を振り、佐伯は車庫の中へ入った。車庫の側面の壁に扉があり、そこを通る。車に近づき、後部座席のドアを開け、そこに置いていた背広の上着を手に取った。裏生地についている汚れに気づく。おそらく血が染みこんでしまったのだろう。佐伯は、鼻や唇から血を流して後部座席に横たわっている少女を見下ろし、そう思った。家の近所でだれかとすれ違った場合、後部座席に寝かせている少女の姿を見られてはいけなかった。だから念のために上着をかぶせて隠していたのだ。  少女はまだ気絶しているらしく、動かない。体を丸めた格好で、長い髪の毛がベールのように顔を隠して車内の床に下がっている。少女が抵抗しなければ、傷つけることもなかった。佐伯は、手の甲をさすりながらそう思った。手に、少女の爪あとが赤い線となって残っている。  組みついた瞬間、彼女は大きな叫び声をあげた。声は静かな夜空を震わせて、その周辺にいたすべての人間に聞こえたことだろう。  それからどうなったのか容易には思い出せない。気づくと少女の顔を幾度もぶっていた。ぐったりとして、すでに少女は動いていないというのに、手を振り下ろして頬を張り飛ばしていたのだ。少女を後部座席に押し込んで上着をかけると、エンジンをかけてアクセルを踏んだ。  佐伯は子供のころから、ほとんどだれにも暴力を振るうことなどなかった。テレビで児童虐待のニュースが流れると、胸に嫌悪感が広がった。しかし今、そのような自分が少女の顔をぶって怪我をさせている。そのときの感触は、まだ手に残っている。まるで、細かい虫が隙間なく手を覆い、ざわざわと這いまわっているようだった。恐ろしくて振り払おうとしても、それはなかなか消えてくれなかった。  佐伯は少女を抱き上げて車内から運び出した。家の奥の部屋に向かって歩く。少女を抱えている姿が影絵となって窓や障子に映らないよう、家の電気は消したままだった。月明かりの中で、抱えている少女の腕と髪の毛が垂れ下がって揺れていた。木屑の散らかっている部屋に到着すると、作製したままの状態で放っていた棺桶に少女を寝かせた。  頭の先から足の先まで、長方形の枠にぴたりと収まった。まるで少女はあらかじめその箱へ入っていたように感じられた。しかし、鼻や唇から血を流し、ところどころ皮膚が変色しはじめている少女の顔を、佐伯はまともに見ることができなかった。自分の心の暗闇が少女の顔にしっかりと刻印されており、それと向き合うことができなかったのだ。急いで棺桶に蓋をして、釘を打った。蓋にはあらかじめ二つの小さな穴を開けていた。後に呼吸のための筒を通す穴である。  コウスケを埋めた地面の隣で、少女のための穴は口を開けて待っていた。今日という日が訪れることを予感し、月明かりの中で黒い窪みは待ち焦がれていたのである。掘り出した土が、穴の横で小高い山となっていた。  棺桶を引っ張って家の中からそこまで移動させた。庭へは、縁側から直接、下りられるようになっていた。人間が一人、入っている棺桶は、重かった。  穴に棺桶を入れると、呼吸のための竹筒を二本、蓋の穴に通した。それからスコップでひとすくいずつ、土をかぶせていく。最初は棺桶の蓋へ土が落下するたびにばらばらと音をたてていたが、やがて完全に土が覆ってしまうと、音はしなくなった。穴を埋める作業は、意外と時間がかかった。全身に汗が浮き、帰ってきたきり着替えもしていなかったために、職場へ着ていく背広のズボンは泥で汚れてしまった。やがて穴を埋め終えると、スコップで叩いて平らにした。  コウスケを埋めたときは夏で、朝顔の蔓を筒に巻きつけた。しかし今の季節にそれは無理だろう。朝顔はもともと熱帯性の植物で、寒さには強くない。塀のそばに、雑草へまじって何本か用途不明の茶色の竹が立っていることになるが、それを見ても不審に思う人はいないだろう。夏には朝顔をここで育てており、これらはそれの親木だと説明すれば、だれも疑うまい。  新しく掘り返した跡が目立たないよう、花壇にかぶせていた藁を持ってきて、筒の周辺に敷き詰める。その作業が終わると、一見して掘り返したように見えなくなった。  スコップを置いて、佐伯は縁側に座った。しばらくの間、じつと塀のそばにある竹筒を眺める。少女は今、完全に地中へと埋まった。  縁側と塀を結ぶ庭にだけ木を構えておらず、いくつかの花壇と、洗濯物を干すための物干し台、そして竹筒しか見当たらない。しかし縁側から離れた両端は、木々が立ち並んで、夜になるとほとんど黒い壁のように見える。風が吹いて、その黒い影が身じろぎした。少女を車へ押しこむとき、爪あとのついた手の甲をさする。顔をぶったときの感触はもうほとんど消えていた。その手で顔を触ると、いつのまにか自分が、口元を笑みの形にほころばせているのを知る。  縁側から家に上がり、少女の持っていた鞄を探った。防犯のための催涙スプレーが中から見つかった。生徒手帳も、鞄に入っていた。表紙をめくったところに顔写真が貼ってある。美しい顔立ちの少女である。  写真の下に、学年とクラス、出席番号に並んで、『森野夜』という名前が記されていた。佐伯は縁側に立ち、塀のそばに立っている竹筒を見ながら、その名前を心の中でつぶやいた。  たった今、自分の埋めた人間にも名前というものがあるのだ。そのような当たり前のことに、ようやく気づく。地中に埋めた少女にも親というものがあり、名前を授け、愛情をこめて娘を育てていたのにちがいない。その愛の塊を、自分はついさきほど生き埋めにしてしまったのである。  頭の中へ、甘い陶酔が広がった。それはまるで、綿へ砂糖水が染みこんでいくようなものだった。殴って怪我をさせた少女が地上にいる間は恐ろしいだけだったが、地中へ埋めて姿が見えなくなった途端、不思議なことに恐怖は甘美な気持ちへと変化する。  そのとき、かすかな声が、佐伯の耳にまで届いてきた。風にかき消えてしまいそうなほど、小さな声だった。  佐伯は、塀のそばに立っている教本の竹筒を見た。白い月光が、並んでいる竹筒を闇の中で浮かび上がらせている。地面に黒い影ができており、それは佐伯の座っているほうへ向かってまっすぐ線となって伸びている。数本の竹筒のうち、四本だけが、太い。  聞こえた小さな声は、そのうち二本の先端からだった。佐伯は立ちあがり、縁側から直接、靴を履いて庭へ降りた。歩いて庭の端に向かう。自分が体を動かしているという気がしなかった。非現実の世界を歩いている夢遊病者になった気がする。月明かりのほかに何もない夜、庭に植えた木々が静かな黒い影となって両側から佐伯を見下ろしている。  竹筒へ近づき、敷き詰めた藁を踏みしめ、自分の胸辺りまで高さのあるその筒を、上から覗いた。中は暗闇だった。心が空虚になるような闇が、親指ほどの直径の中に見えた。そこから途切れ途切れに、少女の声が筒の内側を震わせて、地上にまで届く。筒から出てきた声は弱々しく、竹筒の先端で風に飛ばされて煙のように消えていく気がした。  声の出てくる二本の筒には、声の大きさに差があった。棺桶に突き立てた竹筒は二本だが、一本は足元の位置にくるよう通していた。もう一本は顔に近い場所で蓋を貫いている。そのため棺桶の中で声をあげると、顔に近い方に通した竹筒から、多く声が聞こえてくるらしい。 「……だれか……」  少女の声はかすれ気味だった。切った唇が痛むのか、大きな声を出せないようだ。 「……ここから出して……」  佐伯は膝を折り曲げて、筒の刺さっている地面に両手のひらをついた。さきほど埋めたばかりで、藁の覆う地面は柔らかい。この下から、確かに声が発生している。気のせいにちがいないが、手のひらが、地中に埋まっている少女の体温を感じてぱっと温かくなったように感じた。  かわいそうに、なんてこの少女は無力なのだろう。自分の履いているサンダルの裏側よりも、さらに下の方に閉じ込められて呼吸している少女のことを思うと、憐れだった。地中で何もできずに埋まったままの少女を確認し、佐伯は自分の優位を感じた。子犬や子猫を目にしたときのような、胸にこみあげてくるものを覚えた。 「私の声は聞こえますか……」  佐伯は立ちあがってそう言った。その声は竹筒の中の暗闇に満ちた空気を震わせて少女のもとへ届いたらしい。 「だれ……。そこにだれかいるのね……」  少女の返事が聞こえる。佐伯がだまっていると、さらに筒の先端から声が地上に出てくる。 「あなたが私をここへ閉じこめたのね……。そして地面に埋めた……」 「……今、いる場所が、地中だとわかっているのですか」  佐伯は不思議に思って質問した。たった今、棺桶の中で目覚めたのであれば、突然の狭い暗闇に閉じ込められているとしか状況を把握できないはずである。少女は少し沈黙した。 「……土をかぶせる音が聞こえたわ」 「気絶していたのは演技だったのですか」  路上で気を失わせて以来、ずっと少女は目覚めていないものだと思っていた。いつから起きていたのだろう。佐伯は少女を縛っていなかった。箱へ閉じこめる以前から目覚めていたのであれば、走って逃げようと考えなかったのだろうか。 「……足を怪我しているのですか。だから、逃げようとしなかった」  佐伯が質問すると、少女は押し黙った。推測が当たったのかもしれない。 「……ここから出しなさい」  少女は声に怒りを含ませて言った。佐伯は、少女のその態度に驚き、胸を打たれた。泣いて懇願するのではなく、命令するような口調である。地中に埋まって姿は見えないが、この少女の心が持つ貴さを声に感じた。しかしそれでも少女は無力なのだ。 「……ああ、すみません。本当に、ごめんなさい」  地中にいる少女には見えないだろうが、首を横に振る。 「あなたを外に出しては、私の行なったことが世間に知れ渡るではありませんか。だから無理です」 「あなたは一体、何者なの……? なぜこのようなことをするの……?」  少女の質問を心の中で反芻する。  なぜ自分は、彼女を埋めたのか。その疑問の出口が見出せず、一瞬、袋小路に迷いこんだような気がした。しかし、律儀に少女の質問に答えなくていいのだと思いなおし、考えるのをやめた。 「そのようなことは、どうでもいいことですよ」 「ここはどこ……? 山奥……?」 「いいえ、私の家の庭です。あなたはそこへ、埋葬されたのです」  少女は押し黙った。暗闇しかない小さな空間で、彼女がどのような表情をしているのか想像する。 「埋葬……? 冗談は言わないで。私はまだ生きているわ……」 「死人を埋めてもおもしろくないです」  非常に当然のことだと思いながら佐伯は口にしたのだが、少女は一瞬、口をつぐんだように黙りこんだ。そして低い声を出す。 「出さなければ、ひどいことになるわよ……」 「だれかがきみを助けにくるとでも、思っているのでしょうか?」 「知り合いがきっと、私を見つけ出してくれるわ……!」  それまで低い声音で話していた少女は、一転して熱心な声でそう言うと、どこかが痛むのかうめき声をもらして沈黙する。筒の奥から、荒く呼吸をする音だけが聞こえてきた。もしかすると少女は肋骨を痛めており、小さな声を出すのにも背痛を感じるのではないだろうか。佐伯は今の少女の言葉に、奇妙な熱っぽさを感じてそう直感した。 「あなたが信じているというそのお知り合いの方は、男の子ですか?」  ええ、そうよ。少女はそれだけしか言わなかったが、その男の子とは少女の恋人にちがいないと確信させる響きがあった。 「彼の名前を聞いてもいいですか」 「なぜそんなことを知りたいの?」 「興味があります」  しばらく沈黙したあと、少女は名前を言った。佐伯は頭にその名を刻みこみながら、少女は嘘の名前を言ったかもしれないとも考えていた。そのような人物など存在しないという可能性もある。しかし、真実を確認する方法はない。 「そのうちに私は、双眼鏡を買おうと思っているのです……」  夜空にいつのまにか雲が出ていた。風に流されて、月の上に覆い被さる。明日は曇るのかもしれない。 「なぜだかわかりますか……?」  佐伯は聞いたが、少女は沈黙したままである。 「あなたを失って悲しんでいる彼を、遠くから眺めるためですよ……」  少女のもとへ、確かにその声は届いたはずだった。しかし彼女は何も返事をせず、黙りこんだままである。幾度か返事をさせようと声をかけてみたが、佐伯の言葉にはもう何も反応せず、ただ筒の奥に、暗く、静かな暗闇があるだけだった。  怒らせてしまったようだと思い、佐伯は筒のそばから離れた。朝になれば、機嫌も直っているにちがいない。  車庫へ向かい、車の後部座席を掃除する。少女を乗せた跡があってはいけなかった。車内にはいつも小型の座布団を置いており、少女を寝かせるとき、顔の下にそれをしいていた。おかげで彼女の血は座布団に付着し、シートには染みついていなかった。佐伯は赤黒いものが点々とついた座布団を回収し、床に落ちていた長い髪の毛を集めた。  掃除を終えて家に上がり、壁の掛け時計を確認するとすでに深夜の二時を過ぎていた。二階の自室へ向かい、布団に包まって眠りにつこうとする。瞼を閉じて夢の入り口を見つけるまでの間、庭の地中で一人、孤独に小さな暗闇へ閉じ込められている少女のことを思った。  次の日、目覚めるとすでに正午近い時刻になっていた。土曜日だったが、佐伯の働く職場は曜日などほとんど関係がない。土曜も日曜も、同じように勤務しなければいけない。しかし幸い、今日は職場に出なくても良い日だった。  自室の窓を明けて外を見渡す。子供のころ、その窓からは広々とした町並みを眺めることができた。しかし今は、立ち並ぶ木々の枝葉が邪魔をしている。木の天辺を越えて窺える空の色は灰色だった。冷たい風が目の前にあった木の細枝を揺らし、佐伯の頬に触れて通りすぎる。  少女のことは昨夜の夢だったのではないだろうかと思い、階段を下りて、縁側に向かった。そこから視線を塀の方に向けると、夢ではなく、確かに現実にあったことだとわかった。  太い竹筒が四本、細い棒に混じってまっすぐ地面に立っている。四本ということは、二人分だ。自分は確かに昨日、コウスケのいる隣に新しく少女を埋めたのだ。そう確認すると、安堵した。  少女を車に押しこんだ公園のそばの通りはどうなっているだろう。悲鳴が辺りに響いた。そのことで、近所の住人は通報したのだろうか。また、地中に埋めた少女の親は、帰らない娘のことを心配して、警察に電話をしただろうか。警察はその二つの情報から、まさにあの公園脇の並木道で少女が拉致されたと判断を下したかもしれない。  佐伯はサンダルを履いて庭に下りた。空腹感があり、少女と少し会話を楽しんだ後で食事に行こうと思っていた。不思議なことだと思う。普通はこのような異常な状況にいるとき、何も喉を通らなくなるのではないだろうか。しかしなぜか、空腹という生きている証を強く感じる。  竹筒の正面に佐伯は立った。  いきなり声をかけるのではなく、まずはじっと耳をすませた。筒の奥から何か聞こえないだろうかと思った。物音などはなかったため、佐伯は声をかけてみる。 「……朝です、起きていますか」  昨晩、別れ際に彼女は、佐伯の声へ反応しなくなった。今朝もそれが続くようであればどうしようかと心配だったが、一瞬の間があって、少女の声が聞こえてきた。 「朝だってことはわかっているわ。この箱の中は暗闇だけど……」  声が筒の内側を通り抜けて聞こえた後、地面にまっすぐ立っていた筒が何もしないのにぐらついた。竹筒は棺桶の蓋を通して、その内側にもわずかに出ている。それを少女が内側から触っているのだろう。 「顔のそばに、上の方から簡みたいなものが突き出しているわね。手探りでそれがわかったもの。これは私の呼吸のため? 中を覗いたら、筒の向こう側に白い明かりが見えるわ。夜が明けたということね?」  竹筒は固定しておらず、ただ蓋に開けた穴へ通しただけである。抜こうと思えば簡単に抜ける。内側に突き出している部分を握ってゆらすと、地上に出ている先端は、逆になった振り子のように前後左右へ揺れ動く。 「じっとしていてもらえませんか。筒を動かされては、いけないのです。だれかが見ては、不審に思うでしょう。もしそれ以上、じっとしていないのなら、取り払います。するとあなたは、呼吸できなくなりますよ」  佐伯がそう言うと、動いていた竹の筒は静止した。 「……あなたの名前は?」  少女が不意に質問する。 「佐伯、と言います。あなたは、森野さんでしょう……?」  熟考するような沈黙の後、忌々しそうな声音で少女はつぶやいた。 「佐伯さん、なぜあなたが、私をこんな場所に閉じ込めているのかはわからない……。でも、これは悪いことよ。今すぐ出した方がいいわ……。でなければ、あなたの肩に不幸な黒い鳥が舞い降りてくるでしょう……」  どこまでも少女は佐伯に屈せず、逆に呪術師が呪いをかけるよう宣言した。彼女は、立場をわかっているのだろうか。わずかに怒りが胸の内に生まれた。 「そんなところにいて、あなたに何ができると言うのですか。あなたは、今日にでも私に溺死させられるのですよ」 「溺死……?」  ゴムホースで水を流しこんで殺すという計画を少女に説明する。できるだけ意思を挫《くじ》くよう、助かる望みなど一切ないのだということが理解できるよう、丁寧に教えた。  少女はさすがに絶望という暗い穴の縁から目をそらすことができなくなったのだろう。あるいは、気丈な態度を保つ気力が薄まったのか、声を震わせながら、それでも言いきった。 「あなたに殺されるよりも前に、私は自ら命を断つ……。あなたは私の制服のポケットを調べなかったわね……。それは致命的なミスよ……。この重大さを、後々、あなたは思い知るでしょう……。ポケットにシャープペンシルが入っていて、私はそれで頸動脈を突き破るつもりよ……」 「あなたは、私に殺される前に自殺をすることで、プライドを守ったように感じるのかもしれません。でも、それは違います。同じことですよ。自殺したあなたの死体はそこで腐っていくわけです。だれにも発見されない。地中で永久に一人きりの孤独を突きつけられるわけです」 「いいえ、ちがう。永久に私が発見されないなんてことにはきっとならない。警察も馬鹿ではないでしょうから、そのうちあなたのやったことは明るみにでるわ。数日後のことか、数年後のことかはわからないけれど。それに、私には予感がするの。決して一人では死なないという予感よ」 「一人では死なない?」 「そう、孤独な死は訪れない」 「……それは、だれかと一緒に死ぬということですか? 昨日、あなたが話していた男の子のことを言っているのですか?」 「彼はおそらく、私を一人のままでは死なせないわ」  箱の中で、泣いているのだろうか。彼女の声は水分を含んでいるように思えたが、どこか確信めいた揺らぎのない意思を奥に秘めていた。  少女の恋人のことを、最初は鼻で笑うようなつもりで聞いていた。高校生の幼い恋だと思っていた。しかしなぜか今になって、わずかに不安がこみあげてくる。それは水に落とした墨汁の雫のように、黒い雲となって胸に広がっていった。 「私には理解できません……。あなたは、そんな状況にありながらなぜそんなことを言えるのか……。森野さん、あなたはそこで……、地面の中で一人きりで寂しく腐って土になるのですよ……。それ以外にありえない……」  佐伯はそう言うと少女から離れた。  少女の言葉を聞いたとき、職場で後輩の女性からされた質問を思い出した。結婚はしないのですか、という質問である。  自分は、親しい人間や家族といった様々な深い関係性の網の目から孤立している。そうしなければ生きられなかった。表面的に世間話で他人と笑顔をかわしても、決して魂の交歓はないのだ。少女の言葉はそのことを思い出させ、心の中をかき乱した。  食事をとって落ち着こうと思った。食欲はすっかり消えうせていたが、何かを口にすれば、気分もよくなるだろう。  外食にしようと思い、スーツのポケットに入れていた財布をつかむ。上着を羽織り、玄関先で靴を履きながら、ふと、妙な違和感を抱いた。  佐伯にはいつも、肌身はなさず持っている手帳があった。茶色の革表紙をしたものである。それはいつも財布と一緒に携帯しており、どこへ行くときも自分のそばから離さなかった。それを昨夜から見ていない。  靴の片方を履きかけていた佐伯は、それを脱いで立ちあがり、家の中に戻った。ハンガーで壁にかけているスーツの正面へ立ち、財布を入れていた上着のポケットに手を入れる。何も入っていないことを確認すると、他のポケットを探す。どこにも手帳はなかった。周囲を見渡して、茶色の表紙が見当たらないか確かめる。テーブルに載っている雑誌を持ち上げ、|炬《こ》|燵《たつ》の掛け布団をめくり、手帳を探した。しかし、無駄だった。  最後に手にしたのはどこだっただろうかと考える。職場にいたときは、確かに持っていたことを記憶している。どこかで落としてしまったのだろうか。  そう考えて、佐伯はある結論に辿り着いた。そのおかげでほとんど立ちくらみにも似た感覚を味わう。それを否定しようとすればするほど、間違っていないという気がしてくる。  もしも手帳を落としたのだとすれば、少女に組みついて激しくもみあったときではないだろうか。昨夜、あの公園脇の通りで、少女の悲鳴が周囲へ響き渡った瞬間、暴れる彼女の肘が佐伯のわき腹を打ち、スーツのポケットから手帳が飛び出したに違いない。  庭の方で鳥のはばたく音を聞いた。家の周囲を覆う木々に、よく鳥が集まってくる。朝になると鳴き声が聞こえ、佐伯が庭を歩くとあわてて翼をはためかせて逃げ出す。しかし今、佐伯の耳に届く鳥のはばたく音は、不気味な破滅の前兆のように聞こえた。  昨日の夕方、あの道で落ち葉の掃除が行なわれたと聞く。そのときになかった手帳が、今日、発見されたとする。それはつまり、手帳の持ち主が昨夕から今朝にかけた時間帯のどこかで、その場所にいたということだ。  手帳の持ち主を割り出すことは簡単である。手帳の中に佐伯のことが記されていたからだ。自分がその場所にいたという事実と、昨夜に起きた少女の悲鳴、失踪とを結びつける人間がどれほどいるのかはわからない。しかし、念のためすぐに手帳を回収しに向かったほうがいいように思えた。  焦りながら靴を履き、外へ出た。公園脇の通りまでは、車を出すほどの距離ではないため、走って行くことにする。  門を出る前に、少女へ一言だけ声をかけて行こうと思った。玄関先から、常緑樹の立ち並ぶ一帯を抜けて、縁側のある庭へまわった。塀のそばに立つ竹筒へ近づきかけ、ふと足を止める。  筒の先端から、まるでたがの外れたように笑う少女の声が聞こえてきた。  昨夜から話をしていて、少女の感情が解放される瞬間はなかったように思う。悲鳴ひとつあげずに、まるで心を押し殺しているような口調で佐伯と話をしていた。  それが一転して笑っている。痛みのためか、ときどきうめき声を交える。それでも笑わずにはいられないらしい。  地中の箱の中で、少女は恐怖に負けて狂ってしまったのだろうか。それまでが静かだったために、より薄気味が悪くなった。結局、佐伯は、彼女に声をかけないまま昨夜の通りへと向かった。    † 3  公園のそばの通りに到着したとき、時刻はちょうど十二時だった。晴れていれば太陽は空の高い位置に見えただろう。しかし今、厚い雲に遮られて辺りは薄暗く、冷たい風が吹いている。  公園は住宅地の中にあるこぢんまりとしたものだった。子供が通りへ飛び出さないよう周囲に金網がはってある。佐伯は歩道を歩きながら金網越しに公園の中を見た。広場を中心に、いくつかの遊具がある。  ブランコに腰掛けた人影がひとつあった。敷地の反対側で佐伯の方に背中を向けていたため、黒い服を着ているらしいとしかわからない。  他にはだれもいないと知り、安堵した。もしかしたらすでに警察が通報を受けてこの近辺を調査しているかもしれないと考えていたが、どうやらまだらしい。自分がくるよりも先に、手帳を他人に拾われることこそもっとも危惧していたことだった。  通りは歩道と車道とにわかれており、一定の間隔で木が植えられている。現在、車の姿はほとんどなく、静かで閑散とした道がまっすぐのびているだけである。  風が吹いて、枯れ葉が落ちてきた。風に舞うように、という感じではない。雨が降るように、乾燥しきった葉がいくつもばらばらと落下してきた。昨日の夕方に掃除が行なわれたはずだ。  しかしすでに歩道は枯れ葉に覆われかけている。車道はさすがに車が少しは通るためか落ちている枯れ葉の量も少ないが、端の方はそのぶん厚く積もっている。  昨夜、車を止めていた辺りの地面を見まわす。少女ともみ合ったのもその辺りだった。しかし、一見した限り手帳は見当たらない。あるのは一面を覆う枯れ草だけである。落下した手帳の上に枯れ葉がかぶさって、通りを歩く人の目から隠しているのかもしれない。  佐伯は膝を曲げて、アスファルトに散らばっている枯れ葉を両手で掻き分けた。歩道のすべてをそうやって探す必要はない。手帳が落ちているとすれば、少女ともみ合ったこのあたりだろうという目処はついている。そのため、すぐに見つかるだろうと思っていた。  乾燥した枯れ葉は軽く、降り積もっている部分を|雑《ま》ぜ返すと、もろく崩れ、風に吹かれて飛んでいく。その様を見ながら、少女のことを考える。  彼女のいる箱の中は暗闇である。蓋から突き出した筒から外界を覗けば、外の明るさが小さな点となって見えるかもしれない。しかし光はそれだけだ。少女は狭い闇の中で、自分の死と無理やり向き合わされ、取り残されている。それでも彼女は、恋人が自分を一人きりで死なせないだろうという……。  さきほどそれを知ったとき、佐伯は動揺した。理解できない、という不安が胸に生まれた。地中で一人きりにされ、永遠の孤独が約束されてもなお、他人を信じるということがありえるのだろうか。  昨夜から今朝にかけて、佐伯の頭には心地よい霞がかかっていた。地中に埋められた相手の無力な状況を思うと、いたたまれなさがこみあげてきて、それが蜜のような甘い味となって舌に広がった。しかし、少女の言葉を聞いて以来、まるで頬を叩かれて眠りから覚めるように、それらが急激に薄まりつつあった。  今になって少女に対して行なったことをはっきりと自覚する。自分が彼女に言ったいくつもの恐ろしい言葉を思い返す。  |眩《め》|暈《まい》がして、佐伯は枯れ葉の上に膝をついた。視界が歪み、枯れ葉の幾重にも重なった層が、まるで海面のように波打っている。息苦しく、酸素を求めて喘ぐように呼吸を速めた。  自分はいつから、残虐な行為を、まるで砂糖菓子を味わうような気持ちで楽しむようになったのだろう。以前の自分は、善良な市民でいようと心がけていたはずだ。職場では真面目に振るまい、心から人にやさしく接してきた。道を歩けば知っている顔と挨拶をして、立ち止まって世間話をした。  人を生き埋めにするという妄想が頭に思い浮かぶたび、それを振り払おうと努力した。そのようなことをしてはいけないと自分に言い聞かせながら、せめて庭に穴を掘るだけにとどめようとした。自分は人間である。人を地中に埋めて楽しむような悪魔では、決してない……。  しかし、コウスケを地中に埋めて殺したあの日から、自分の中にあるどこか重要な歯車がおかしくなってしまったように思う。地中で身動きできない少女に対して優越を感じ、そうすることでようやく生きているのだと実感する恐ろしい自分を、はたして人間と言えるのだろうか。  眩暈のする中、それでも佐伯は膝をついたまま枯れ草を掻き分けて手帳を探す。鼻の頭に生まれた汗が、乾燥した葉の上に落ちる。  手帳はいくら探しても見つからなかった。念のためにと思い、少女ともみ合った場所から離れた位置の枯れ葉も雑ぜ返した。しかし見当たらない。焦りが、少しずつ膨らんでくる。  風に飛ばされてきた新聞紙が足に引っかった。立ち上がってそれを引き剥がしたとき、公園の金網越しに自分を見ている人物がいることに気づいた。手帳を探すことに夢中で、人影の近づいていたことがわからなかった。  ブランコが遠くで、人を乗せないまま揺れていた。さきほどそこにあった人影がいつのまにか移動していたらしい。  金網を一枚隔てたすぐ向こう側に立っていたのは、高校生くらいの少年だった。黒い学生服を着ており、両手をポケットに入れて佐伯の方を見ている。学校が半日で終わり、そのまま公園に来たのだろうと思った。彼の顔を見ると、目があって、気まずい沈黙が生まれた。ばつの悪さを感じたらしく、少年が金網の向こう側で頭を下げた。 「……すみません。何をしているのだろう、と思ったものですから」  よほど自分の姿は目立っていたらしい。 「何か落とし物でも……?」  少年の質問に、佐伯は口籠もった。 「ええ、ちょっと…‥」  どう答えたらいいのだろう。どこかへ立ち去ってほしいが、そう頼むのも不自然である気がした。一度、自分がどこかへ消え去り、少年がいなくなって改めて手帳を探したほうがいいのだろうか。 「この辺りに住んでいらっしゃる方ですか?」  口籠もっていると、少年が再び口を開いた。 「ええ、そうです」 「名前を伺ってもよろしいでしょうか?」  特に深い考えもなく、正直に答える。 「佐伯さんですか……。佐伯さん、実は少しお聞きしたいことがあるのです。おかしな質問なのですが、よろしいでしょうか?」 「おかしな質問……?」 「はい、お手間は取らせません。昨夜の悲鳴についてのことです。何かご存知でしょうか?J  心臓に氷をそっと当てられた気がした。 「悲鳴……? 何の悲鳴ですか……?」 「夜の九時ごろ、この周辺で人の悲鳴があがったそうです。この辺りに住んでいる知人から、その情報を得ました。でも、どうやら佐伯さんの家までは聞こえなかったようですね……」  佐伯の反応をうかがい、彼はそう結論付けたようだ。それならば、そうしておこう。佐伯は頷いて同意する。 「そうですか……。実は、僕のクラスメイトが一人、昨夜から家に帰っていません。今日、学校が半日あったのですが、登校していませんでした」  少年から目を逸らさずにはいられなかった。おそらく自分よりも十歳近く年下だろうその少年の目が恐ろしい。服の下に、汗が滲むのを感じた。少年が言っているのは、あの少女のことだろうか……。 「その子は毎日、この道を通って学校に通っていたそうですし、もしかすると昨日の悲鳴というのは、そのクラスメイトのものだったのではないかと……」  やはり、自分が土の中に埋めた少女のことだ。 「きみは、彼女と仲が良かったのですか」 「ええ、まあ」  少年の返事は、あまり気のないものだった。少女の言っていた仲の良い友人とは、彼のことだろうか。しかし、彼の返事のしかたから、それは違うという気がした。少年はひどく冷静で、少女のことを他人事のように話す。深いつながりを二人の間には見出せない。 「それできみは、そのいなくなったクラスメイトが心配で公園にいるというわけですね」 「いえ、違います。ここにきたのは、観光のようなものです」 「観光……?」 「警察署に、所々赤いマークのついた市内地図のポスターが貼ってありますよね」 「死亡事故が起きた個所を表しているものですか……?」 「その通りです、よくご存知ですね。僕以外にそのことを知っている人がいるとは思いませんでした。僕は、赤いマークのついている場所を歩いて、人の死んだ場所に立つことが趣味なのです。命の失われた場所に左右の足をそろえて立ち、靴底でアスファルトの表面を確かめる……。今回ここにきたのも、その延長です。事件のあった場所を眺めるのが好きで、もしかすると、例えば、何かの理由で現場に戻ってきた犯人に会えるかもしれないでしょう」  少年はポケットから両手を出して金網をつかんだ。金網が揺れて、ぎしぎしと昔を出す。彼の視線はまっすぐに佐伯へと注がれていた。  彼の言った言葉に、心臓が止まりそうになる。もしかすると、自分の話の相手をしている男が少女を捕らえた人間だと知った上で言っているのではないか。佐伯はそう考えて、否定する。そのような馬鹿なこと、あるわけがない。  しかし胸の内側は晴れず、嫌な予感が渦を巻く。  鳥のはばたく音がして、見上げると、寒々しい空を背景に、電線の上へ|鴉《からす》がとまっていた。黒い|嘴《くちばし》を、佐伯のほうに向けている。  ……もしかしたら。  佐伯は、ある可能性を考えた。  ……この少年はここで、手帳を拾ったのかもしれない。その手帳と少女の悲鳴とを関連付け、そして近いうちに犯人が拾いに戻ってくるということも想像したかもしれない……。  少年は手帳を隠し持って自分をためしているのだろうか。しかし、まさかそのようなことがありえるだろうか……? 「ところで、行方不明のクラスメイトのことなのですが、今、どこにいるのでしょうね」  少年が首を傾げてこちらを見ていた。まるで佐伯のことを観察するような目で、どこか冷たいものを感じた。  逃げたい。佐伯はそう思った。今なら、少年は金網の向こう側にいる。追いかけてくるには、金網のない公園の出入り口をまわってこなければいけないだろう。しかし、万が一にでも彼が手帳を拾っており、佐伯の不審な行動を警察へ報告したとしたら、どうなるだろう……。 「何か、ご存知ありませんか」 「……いえ、知りません」 「そうですか。なんとなく、あなたならご存知ではないかと思ったので……」 「なぜです……?」 「いえ、考えすぎだったのだと思います。だって、さきほどあなたは、自分は悲鳴を聞いていないとおっしゃったから」 「それが、何か……?」 「だから、おかしいと感じたわけです。そのとき僕は『人の悲鳴』としか説明していなかった。それなのにあなたは、行方不明になったクラスメイトの話題を出したとき、『きみは、彼女と仲が良かったのですか』とおっしゃったのです。『彼女』という言葉を使いましたよね。会話の中で性別に関することなどそれまで一度も出てきていないのに……。佐伯さん、なぜあなたは、いなくなった生徒が女子であることを知っていたのですか……?」 「ああ、それには理由があるのです。毎朝いつもこの道ですれ違う女子生徒と、なぜか今朝は会わなかった。ただそれだけです。だから、あなたの言う行方不明のクラスメイトというのはその子のことではないかと思ったのです……」  少年は頷いた。 「髪の長い、細身の女子生徒ですよね」 「はい、左目の下にほくろのある色白の子です」  生徒手帳にあった写真を思い出しながら佐伯は答えた。しかし、このような会話をはたしていつまで続ければいいのだろうか。少年はやはり自分を疑っているのだ。まるでゆっくりと首をしめられていくような居心地の寒さを感じる。 「大丈夫ですか、お顔の色がすぐれないようですね」 「……少し、気分が悪いみたいで」 「少し待っていてください、今、そちらへ行きますから」  少年は金網越しに言うと、公園の出入り口へと向かった。ブランコのそばに放置していた鞄を、途中で拾い上げる。通りに出て、佐伯のもとへ近づいてくる。大丈夫ですか、と少年が佐伯に声をかける。  さきほどから緊張で額に浮かんでいた汗を、服の袖を使って拭う。 「実は……、昨日から風邪をひいていまして……」 「そんな状態で長々と話につきあわせてしまい申し訳ありません。お手間を取らせないとあらかじめ言っていたにもかかわらず……。どこかで休まれたほうがいいのではないですか」 「そうですね……」  少し考えるふりをしたが、続ける言葉はすでに決めていた。 「……家に、帰ろうかと思います」  この後、数歩だけ進んでから立ちくらみで倒れるふりをするつもりだった。そして少年が駆け寄ってきたら、親切心につけこんで、家まで送ってもらう。そこですきをついて殺害し、ポケットを改めれば問題はない。しかし、そういった面倒な演技をする必要はなかった。 「心配です、家に向かうのでしたら送っていきましょう」  少年は眉間にしわをよせて、佐伯に無理をさせまいという顔をしていた。都合が良い。 「……では、お願いします。家はあちらです」  二人で並んで歩きはじめる。佐伯は肩をすぼめて、いかにも悪寒のするといった姿勢をする。気分が悪いのは事実だったため、風邪のふりをするのは難しくなかった。  道すがら、この少年はいったいどのような人物なのだろうかと考えた。唐突に自分の前へ現れて、なぜか今、いっしょに歩いている。家についたらどうすればいいのだろう。どうやって彼を殺せばいいのだろう。  そこまで考えて、また眩暈がひどくなる。いつのまにか、まるで仕事の予定を考えるように少年の殺害を計画している……。  もうこれ以上、恐ろしいことをしてはいけないと訴える清い心の声もあるにはあった。しかし、もしも彼が手帳を拾ったのであれば、そして少女と自分との関連に気づいたというのであれば、殺害する以外にないのだ。  でなければ、自分の行なった恐ろしい行為は世間の知るところとなるだろう。本当の佐伯が身の毛のよだつ異常者だと知ったとき、これまで自分に接してくれた職場の人間たちは、どのような顔をするのだろう。家から持ってきた花を花瓶に差して窓辺に置いていた男が、実は殺人をためらわない、唾を吐きかけるべき存在だったと知ったら、悲しむのだろうか、憤るのだろうか。一斉にあがるどよめきと失望の中心で、自分は、自分のしたことが恥ずかしくて頭をうなだれたまま何も見られないだろう。羞恥の炎は、胸を焼くに違いない。  決してそうなってはいけない。少年を殺すのは、しかたがないことなのだ。目を必死に閉じて、泣きそうな気持ちでそう自分に言い聞かせた。  家には、すぐに到着した。道すがらどのような会話をしたのか覚えていないが、あたりさわりのない話を、お互いに選んでいた気がする。 「立派なおうちですね」  少年は塀の前で屋根を見上げて口にした。 「そのかわり、古いですよ。どうぞ、上がってください」  二人で門を抜けた。車が出入りできるよう、いつも開けている。少年は途中で立ち止まり、家に並んで建っている車庫へ視線を向けた。黒い乗用車の正面が見えていた。少女を後部座席に乗せていたという痕跡は、昨夜のうちにすべて掃除していた。血の跡も、髪の毛も、何も残っていない。掃除をしたときにシャッターを開け放していたままだった。 「車はあの一台きりですか。そういえば佐伯さんは、お一人でこの家に住んでいらっしゃるのですね」 「はい」  次に少年は、庭に目を向けた。 「木が多いですね」 「趣味なのです。まるで森のようでしょう」  少し見てもいいですかと確認し、少年は庭へ足を進めた。佐伯も後ろをついていく。  曇った空の下で、佐伯の育てた植物は濃い緑色をしていた。少年は立ち並んでいる常緑樹の間を歩き、感嘆するような声を出した。 「広い庭ですね」  やがて少年の背中は、常緑樹の並んでいる区域を抜けて、広い場所に出た。そこは家の南側で、縁側と塀とにはさまれた場所である。石を並べて作った花壇がある。植物は生えておらず、乾燥した灰色の土が見えるだけだ。  そして塀のそばに、竹の筒が数本、並んでいる。かつて朝顔のあった地面は藁に覆われており、その下には……。 「このあたりだけ、木がありませんね」 「縁側の見晴らしが悪くなりますから」  ……下には、少女と、もはや原形をとどめていないであろうコウスケが埋まっている。  竹筒はまっすぐ塀のそばに立っており、揺れ動いてはいない。少年はまだ竹筒に注目してはおらず、背景の一部としてしか認識していない。しかし、もしも地中で、今、少女が蓋の裏側に突き出ている部分を握ってゆらしたとする。すると少年は、不自然に動いている筒に気づき、不思議に思って近寄ることだろう。  そうなる前に、物事を終わらせなければいけない。佐伯は少年を縁側に座らせた。 「お茶を持ってきます」  そう言い残し、縁側から直接家に上がって奥へ向かおうとする。 「それにしても森野さんはどこへ消えてしまったのでしょうか……」  少年のつぶやきが聞こえた。佐伯は一瞬、立ち止まって、縁側に座っている少年の背中を見つめた。 「彼女は、うまく言えないのですが、変質者を誘うフェロモンを分泌しているらしいのです」  いつのまにか少年が振り返って佐伯の顔を見ていた。さきほどのつぶやきは、わざと聞こえるように言ったものだったに違いない。 「そんなフェロモンを振り撒きながら歩くものだから、よくおかしな人に狙われるのです」 「……待っていてください、お茶を、持ってきますから」  佐伯はそれだけ言うと少年から離れた。少年がわざとそのような話を聞かせて佐伯の気をひこうとしているのかどうかはわからない。しかし、彼の口ぶりに、どこか気味の寒さを感じていた。  台所で一人分のお茶の湯を沸かしながら、包丁を取り出す。人を殺す凶器として、それしか思い浮かばなかった。  ガスコンロの青い炎がヤカンの水を熱している。盆の上に、湯のみと急須、そして包丁を並べた。その銀色の刃を眺めながら、これから縁側に腰掛けている彼に向かって背後からそれを振り下ろさなければならないのだと考える。コンロの炎がちらつき、刃に反射した。一人分のお茶の湯だから量は少なく、さっそくヤカンの水が沸騰しはじめてコトコトという音を出す。  佐伯は流しに手をついて体を支えた。そうしていなければ立っていられなかった。少女を地中に埋めたときの甘美な気持ちはかけらもなくなっていた。そのかわり悪夢へ放り出されたような、ひどい気分である。目に映るもの、触れられるもの、何もかもがすべて腐敗臭を放つような気がしてくる。そこでもっとも醜い生物は自分自身である。コウスケを殺し、少女を埋めて、今度は少年を刺そうとしている。恋人を信じる少女の精神に比べ、自分の心はどんなにおぞましいのだろう。コウスケを殺したときから、悪夢はすでにはじまっていた。  いや、あるいは、生まれたときからこの悪い夢は運命付けられていたのかもしれない。この世に生を受けたときからすでに、自分はこのような人殺しとしての避けられない衝動を魂の奥に持っていたのかもしれない。  水が沸騰し、ヤカンの口から勢い長く湯気が吐き出される。火を止めようとして、佐伯は、あることに気づいた。  コウスケ……。  湯気が立ち上り、沸騰した水でぐらぐらとヤカンの中は煮えたぎっている。  コウスケはどんな顔をした子供だっただろう……。  佐伯は、自分の殺した幼い子供の顔をまったく思い出せなかった。何度も一緒に公園へ出かけては親しく遊ぶような長い関係だったはずだ。それなのにまるで、消耗品のように、もはや記憶から消している。  自分は、いったいどうしてしまったのだろう。もはや何もわからなかった。心の一方は、人にやさしく接するような、正しい市民であろうとする。しかしもう一方は、人を地中に埋めて喜ぶような恐ろしい怪物の心である。それは二重人格のように相反していながら、別のものではなく、なだらかに地続きでつながった連続したものなのだ。決して別人ではない。  しかしそうすると、これまで生きてきて、自分が、自分だと思っていた人間は、いったいだれだったのだろう。自分を信じられない自分は、いったいなにを信じて生きればいいというのだろう。  盆に置いていた包丁を持ち上げる。持つ手が、震えた……。  コンロの火を止めて湯を急須に注ぐ。盆を持って、縁側の少年のもとに向かう。  佐伯は静かに歩いた。廊下を抜けて縁側の見える位置にくると、少年の背中が見えた。庭の方を向いて、縁側に腰掛けている。  片手に携帯電話を握り締めて耳に当てていた。警察に電話しているのだろうかと、一瞬、動揺する。  静かな足取りで、背後に近づく。  電話に向かって話をする少年の声が、佐伯にも聞こえてくる。その口調から推し量ると、どうやら警察への通報ではなく、友人に対する電話のようだった。  少年の背後に立ったとき、床板が、|軋《きし》んだ。  不意に少年が振りかえる。そして電話を切った。 「佐伯さん、遅かったですね……」  少年は言った。 「それに、お顔の色がさきほどよりも悪いようです……」  佐伯は、少年のそばに盆を置く。 「ええ、ちょっと……、眩暈がひどくなって……」  急須から湯呑みへ茶を注ぐ。  自分は、心の内側に潜んでいる恐ろしい獣と戦わなければならない……。  湯呑みを少年に差し出しながら、佐伯は無言で決心する。  包丁は、台所に残してきた。コウスケの顔を思い出せないと気づいたとき、そうしなければならないと感じた。そうすることが、悪夢から抜け出すための唯一の方法であるように思えたのだ。  佐伯の差し出す湯呑みを、少年は受け取った。薄い緑色の液体から白い湯気がのぼり、空中に消える。それを少しの間、眺めていたが、口をつけることなく湯呑みを下に置く。 「佐伯さん、ひとつ、いいお知らせがあります」  少年は目を細めて安堵するような表情を浮かべると、ため息を吐くように言った。 「昨夜からいなくなっていた森野さんが、ついさきほど、家に戻ってきたそうです」    † 4  壁の掛け時計の針が深夜の十二時を差したとき、佐伯は電気を消した自室の片隅で体を丸めていた。膝を抱え、ただ暗闇の中で息を潜めさせていた。体の震えは容易に止まなかった。日の落ちはじめるころからずっとその状態で、もはや寒いのか暑いのか、自分が生きているのか死んでいるのかもわからなかった。  掛け時計の長針がひと目盛り動いた。すると、ちょうど窓の外から差し込む月光を反射する角度になったらしい。針が白く輝いた。それを視界の中にとらえて、ようやく佐伯は決心して立ちあがる。階段を下りて、まずは車庫へ行った。中に置いていたスコップと、箱の蓋を開けるためのバールを携えて、庭へと向かう。  世界が暗闇へ沈むのを待っていた。日のある明るいうちには、だれかが間違って塀から覗きこみ、佐伯のしていることを見てしまうかもしれないと考えたからだ。しかし待っている間、あらゆる想像が頭の中を駆け巡り、もはや平常心ではいられなかった。暗闇の中で恐怖ばかり膨れ上がり、何度も気絶しそうになりながら、気づくと六時間も体を丸めていたことになる。  常緑樹の並んだ場所を抜けて、縁側と塀にはさまれた庭へ出る。塀のそばに立っている竹筒を見据えながら、一歩ずつ近づく。手の甲が、やけにずきずきと痛んだ。前夜、少女に爪痕を残された場所である。  佐伯は、胸の辺りまで高さのある乾いた竹筒の前に立った。少女の棺桶とつながっているはずの竹筒である。手の痛みは、まるで血の流れそうなほどだった。  まずはじめに少女へ呼びかける。しかし返事はなかった。佐伯は震える手で筒を土から引き抜き、そばに置いた。地面を覆っていた藁を掻き分けると、まるで蝉の|蛹《さなぎ》が掘り起こした跡のような筒の立っていた穴が現れた。  スコップの先端を、地面に突き刺す。佐伯は穴を掘り始めた。  目立たないよう照明を一切つけずに作業した。昼間に空を覆っていた雲は、風に流されて消えていた。昨晩と同じように、辺りは白く月光に照らされている。塀の向こう側にある通りを人の通る気配はなく、ほとんど無音の中、スコップの先が地面に食い込む音だけが存在した。眩暈はあいかわらずひどく、熱でもあるように体がふらつく。その状態で穴を掘り続けながら、昼間、縁側で少年の言ったことが頭に|蘇《よみがえ》る。 「彼女、ひどいめにあったらしいですが、命に別状はないそうです。さきほど電話で話をしました。もう帰ります。いろいろな話を聞かせてくださって、ありがとうございました」  湯呑みの中の茶が冷めてもいないうちに少年はそう言うと、頭を下げて縁側から立ちあがったのだ。彼は何を言っているのだろうかと、佐伯には、少年の話す言葉の意味がわからなかった。少女が土の中から出られるはずがない。  しかし少年は、戸惑っている佐伯を振りかえりもせず、足元に置いていた鞄を拾い上げて門の方向へと歩き出す。面食らいながらも、佐伯は縁側から下りて靴を履き後を追った。林立する木の幹の間で、少年の背中に追いついた。 「家に……、家に戻ったというのは……?」  そんなことは嘘にちがいない。内心では思いながら、佐伯は聞かずにいられなかった。 「そのままの意味ですよ。電話の彼女は、なにか精神的にひどくショックをうけているみたいでした。今後が心配です。立ち直れるでしょうか」  門を抜け、鞄を下げた学生服の少年は、公園の方角へ歩き出した。佐伯は門のところで足を止めた。片方の門柱に片手をついて体を支え、離れていく少年の背中をただ見ていた。  不意に、門からさほど遠くないところにあるT字路で、少年が立ち止まった。角の向こう側、佐伯には見えない位置からだれかが近づいてくるらしく、彼は片手をあげていた。やがて角から現れて少年のそばに立ったのは、見覚えのある、髪の長い少女だった。  目を疑った。少女の顔は、よく見えた。整った美しい顔で、白い肌である。地中に埋まっているはずの少女だった。彼女は少年と何か話をしている。  自分は夢の中にいるのだろうか。眩暈のために家や電柱のあらゆる直線がやわらかく歪んだ。道路や壁は粘性の沼のように波をうつ……。  少女を埋めていた竹筒のある方を見る。佐伯は走り出した。T字路にいた二人から目を離す瞬間、少年が自分の方を振りかえった。しかし問題は竹筒の下である。佐伯は、少女を埋めた場所に立った。棺桶へ通した筒に呼びかける。しかし返事はなかった。地面の下にどんな人間の気配もなく、筒の中を覗いても暗闇が濁った黒い水のようにたまっているだけである。  少女はやはり、土の中から脱出していたのだ。  いや、ちがう。佐伯は否定した。土に掘り返した跡はない。  それならば……。  自分はいったい、何を地面に埋めてしまったのだろう……。  少年が帰って以降、暗くなるまでの間、幾度も竹筒に呼びかけた。しかし声の返ってくることは一度もなかった。いくら考えても答えは出ず、結局、夜がふけるのを待って箱を掘り返すという以外にできることはなかった。  月光の下に、土を掘り返す音だけがある。佐伯は一心に作業を行なつた。庭木が黒い壁のように両側から見下ろしていた。夜の露を受けて常緑樹の葉は濃密な匂いを出している。  淡く白い霧のようなものが、立ち並ぶ幹の間から漂い、庭中を覆っていた。木々も呼吸をする。それら白い霧は、自分の植えた植物たちの吐息なのだと、佐伯は感じていた。  スコップの先端が土へ刺さる感触を手に感じながら、そして土を持ち上げてそばに捨てるという作業を繰り返しながら、まるで自分が悪夢の中に閉じ込められているような気がした。土を掘り返す作業が単調だからだろうか。自分がこの世で生きて暮らしているという人間ではなく、はるか昔から今まで、そしてこれからさきもずっと、ただ夜の闇の中で永遠に土を掘り返し続けるただの人形である気がしてくる。  手が痛む。手の甲に幾本も引かれた赤い爪痕の線が、それぞれ少女の怨念を宿しているように思える。  はたして土の下に何が埋まっているのだろう。穴が深くなっていくにつれ、わけもわからず佐伯の目から涙が出てきた。スコップで一山の土を捨てるたびに、服の肩の部分で目元を拭わなければ何も見えなくなった。地中に埋めたものが恐ろしい。自分のおかした罪の塊が、そこにあるはずなのだ。それはきっと鏡のように、人間とは思えない自分の本性を映し出して佐伯に突きつけるだろう。  永遠に続くと思われた作業が、やがて終わった。庭の隅へ掘った穴の中に、自分で作り出した木の箱が静かに現れた。土の匂いの中、白い霧に包まれて、月光に浮かび上がっている。蓋は釘付けされたまま開いた様子がなく、親指ほどの二つの空気穴は暗い。肌の粟立つような気配が、箱から漂ってくる。それは妖気とも言えるほどの、冷たい空気だった。佐伯は嗚咽をもらしながら、バールで蓋をこじ開けた。  最初にむせ返るほどの血の臭いが鼻をつき、次に箱の中へ収まっている制服姿の少女が現れた。彼女は胸の上に手を組んだ状態で仰向けに寝ていた。彼女の顔や箱の壁、蓋の表側が、赤く汚れていた。箱の底から数センチほどの高さまで黒々とした液体がたまっている。  少女の首から流れ出た血だった。組んだ手の中に、シャープペンシルが振られている。彼女は佐伯に宣言した通り、それで首を切ったのだろう。  勢い良く吹き出したであろう血で、箱の中はひどい有様だった。佐伯は口に手を当てて穴から出た。とにかく少女から遠ざかりたかった。塀に沿って歩き、一本の常緑樹のそばまでくると、膝をついて吐いた。一日、何も食べていなかったため、胃液しか出てこなかった。  お気づきの通り、彼女は森野夜さんではありませんよ……。  恐ろしさに肩を震わせていると、そのような声が聞こえた。最初は自分の頭の中に聞こえるだけの声かと思ったが、もう一度、今度ははっきりと昼間の少年の声で聞こえた。 「佐伯さん、あなたは彼女を森野さんだと思いこんでいただけなのです」  すぐそばで、地面を踏む靴の音が聞こえた。佐伯が顔を上げると、人影が白い霧の中から現れた。木のそばに立ち、月光を背中で受けるような格好で佐伯を見下ろす。影になって顔はよく見えなかったが、おそらくあの少年だった。  もうひとつ、今度は少し離れた場所で靴音がした。常緑樹の間、霧の向こうにだれかがもう一人いた。その人物も歩み出てきて、佐伯の掘り起こした棺桶にまっすぐ向かう。佐伯や少年よりも背が高い、大きな体の男の子だった。おそらく少年と同年代だろう。月明かりの下で見えた顔には見覚えがない。  自分の埋めた見知らぬ少女に、見知らぬ男が近づく。いったい今、何が起こっているというのだろう。理解ができなかった。はたして現実なのか、それとも自分は眠っているのか、わからない。少年を見上げて、佐伯は首を横に振った。何もわからないという意思表示だった。涙を流しながら首を振る佐伯に、少年は説明した。 「彼もクラスメイトです。あなたが埋めていたあの子の、恋人です。彼の名前は……」  少年は名前を言った。聞き覚えのある名だった。 「ああ……、それでは彼が……」  少女の話していた人物だった。  その人物は穴の中に下りて、身をかがめた。佐伯のいる位置からは、彼の背中だけが見えた。悲痛な声で話しかけて、そのたびに彼の背中は揺れた。おそらく少女の肩を揺さぶっているのだろう。  彼は少女に語りかけている。最初のうち静かな、冗談を確認するような声だったものが、何度も呼びかけて少女の返事がないたびに、大きな声となっていく。 「さきほどあなたが見た彼女の顔に、ほくろはありましたか」  少年が問いかけた。佐伯は無言で、首を横に振る。  血で汚れた少女の顔は、昨晩、殴ったせいでひどく腫れていた。しかし、さきほど見た限りでは、ほくろはなかった。 「いつもすれ違っていたのに、今朝だけは見かけなかった女子生徒……、今日の昼にあなたは、その行方不明になった少女の左目の下に、ほくろがあったと説明した。それが、あなたを疑った原因です。森野さんとあの子を取り違えているのだと、そのときに知ったのです」 「でも、あの子の鞄の中に生徒手帳が……」 「森野さんの落とし物を、家の近いあの子が届けようと持っていたものなのです。そのことは、今日の午前中、学校で森野さんから聞いて知っていました。だからあなたがほくろのことを言ったとき、生徒手帳の写真を見たのではないかと思ったわけです。最初は佐伯さんが、あの子を車で轢いてしまったのかと考えました。顔がつぶれてしまってわからなくなったため、やむなく生徒手帳の写真で確認したのかと……」  佐伯は自分の両手を見つめた。車に押しこむとき、彼女の顔をひどく殴ってしまった。その腫れあがった顔を正視できず、すぐに棺桶の蓋をかぶせてしまい、まともに顔を見なかったのだ。だから、生徒手帳の写真を彼女だと思いこんでしまった……。  ゆっくりと、自分のおかした間違いを理解していく。今日の昼、少女は土の中で笑っていた。あれは狂っていたのではなかったのに違いない。佐伯が彼女のことを、違う名前で呼んでいたからだ。そのときすでに、少女は佐伯のおかした間違いに気づいており、それがおかしかったための笑い声だったのだ。  佐伯はあらためて穴を見た。自分の埋めた少女のそばに、その恋人という人物がいる。はたしてどれほど深く二人が愛し合っていたのか、佐伯には具体的なことは何もわからない。ただ、地中にいる少女と交わした短い会話の中で、彼女が彼の名を口にしたことが、二人の関係の重みを表している気がした。四方を塞がれた小さな暗闇の中で、彼女は決して佐伯に屈するような態度を取らなかった。しかし恐怖は想像以上だっただろう。そのような中で唯一、自分を助けに来るかもしれない存在として、彼のことを思い出して名を挙げたのだから。  彼は少女のわきに腰を下ろし、静かになっていた。語りかけるのをやめ、沈黙したまま棺桶の中を見ている。 「佐伯さん、あなたがあの子を家のどこかに隠していると気づいたのは、今日の昼、別れ際のことでした。あなたは、門のところに立っていましたね。実を言うとあのとき、彼女の居場所について、僕は何もわからなかった。でもあなたは、生きて動いている森野さんを目にした瞬間、顔を青ざめさせて庭に目を向けたのです。そして走った。だから、庭のどこかに埋めたのではないかと推測できました」  少年が森野夜という少女を電話で呼び出したのは、自分に見せて動揺させるためだったのだと気づいた。その結果、少年は庭に目星をつけて、自分を監視しておくことができたのだ。 「あなたは……」  佐伯は少年を見上げて口籠もる。目の前にいるこの少年は、いったい何者なのだろう。クラスメイトの仇をとるため自分の前に現れたとしか思えなかった。しかし、それでいて自分に向ける彼の口調には、犯罪者に対するような蔑みや憤りを感じなかった。静かで、穏やかな声である。  もしもこの少年に会わなければ、自分の罪は暴かれなかったかもしれない。なぜ自分は彼と関わってしまったのだろう。  そう考えたとき、ようやく手帳のことを思い出した。それを拾うために出かけて、少年に会ったのだ。 「私の手帳は、どうしましたか……」  少年にそう尋ねたが、彼は首を傾げた。 「あなたが公園のそばで、私の手帳を拾ったのではないのですか……」  佐伯は、手帳のことを説明する。少年は納得したように頷いた。 「それで地面を探していたのですか」  しかし彼は、手帳など見ていないという。 「あなたが持っていないとすると、私の手帳はいったいどこに……」 「最後に見たのはどこでしたか」 「職場でした。いつもは上着のポケットに……」  もしかすると……。  佐伯の頭の中に、ある考えが浮かんだ。 「……あの子の体を調べてみてください。私のかわりに、お願いします」  佐伯は少女のいる方を指差して、少年に頼んだ。恐ろしくて、少女とその恋人のいる穴には近づけなかった。 「あの子が、持っているかもしれない」  車の中で上着を少女にかぶせた。そして少女は、埋められるよりも前に目覚めていた……。  少年は佐伯のそばを離れて穴に近づき、静かになっている少女の恋人のわきを抜けて穴におりた。身を屈めて、少女の服を調べる。 「ありました。これですね」  やがて少年は、手に小さな手帳を持って立ちあがった。 「そしてついでにこれ。彼女の生徒手帳です。スカートのポケットに入っていましたよ」  少年は二つの手帳を持って、再び佐伯のそばに近づいてくる。  佐伯の手帳を持っていたのは、やはり少女だったのだ。おそらく、逃げ出す機会があったときのために、犯人の手がかりをつかんでおきたかったのだろう。箱に閉じ込められた後は、自分が死んでも、いっしょに中に入っている手帳が犯人を告発してくれると願っていたかもしれない。そして少女のその行動は、不幸を運ぶ鳥となって佐伯を破滅に導いた。  自分は、地中にいる少女に負けた。彼女を埋めたとき、すでに自分は罠へかかっていたのだ。 「佐伯さん、あなたは……」  少年は手帳を眺めながら何かを言いかけた。彼が何を言おうとしたのかはわかった。地面に手をついたまま、佐伯は首をうなだれた。 「ええ……、その通りです……」  それだけは、見られたくなかった。  佐伯は少年に顔を向けられなかった。彼の視線が痛く、ただ顔を伏せていることしかできない。身を焼くほどの恥ずかしさで、痙攣するように体が震える。  少年が探し出して月光の下に持ち出したものは、茶色の革表紙をした警察手帳だった。表紙には県の警察名が金色で縦書きされており、それをめくった一枚目には佐伯の顔写真が、その下には階級と名前がはっきりと記されているはずだった。  あってはならないことである。佐伯は真面目に勤務し、思いやりのある人間として人望もあった。商店街を巡回中、仲良くなった店のおばさんに、笑顔であいさつをしたこともあった。コウスケの両親が、幼い息子を佐伯に預けたのも、信頼してくれていたからだ。自分自身、昔は、この仕事に従事する清い人間として自分が生きていくことを疑わなかった。それなのに、法律も、人権も、自分をやさしい子だと言ってくれた祖母も、この世にあるすべてのものを裏切ってしまった……。 「お願いです……。わかっていますから……。どうか、何も言わないでください……」  懇願するように少年へ言った。地面に膝をつけ、顔を伏せている佐伯のもとに、彼の足音が近づいてくる。 「顔を上げてください」  少年の言葉に、おそるおそる従った。目の前に、少年の差し出した警察手帳があった。受け取れ、という意味なのだろう。地面に膝をついたままそう解釈し、佐伯は手帳をもらいうけた。立ちあがることができず、今では正座をするような格好となっていた。 「佐伯さん、まだ聞きたいことがあります。あなたがあの子と森野さんを取り違えていたと知ったとき、交通事故のあった可能性を考えました。あの子の顔がわからなくなる理由として、もっともありえそうだと思ったのです……」  警察手帳を両手で強く握り締めながら、少年の言葉を聞いた。 「でも、地面には血の跡もなく、あなたの車には事故の跡もなかった。さきほどあの子を調べたとき、殴られた跡や骨折した個所はありましたが、どうやら自殺したような首の怪我以外に致命傷はない。あなたは、彼女を事故で死なせてしまって、それを隠すためにあそこへ埋めたのではありませんね」  佐伯は頷いた。すると少年は両手を膝にあてて前かがみになり、顔を近づけてきた。 「それでは、あなたはなぜ、あの子を埋めていたのですか……?」  一人の少女を死に至らしめた佐伯を非難するわけでもなく、まるで少年は、それを知ることがもっとも重要なことであるかのように問いかけた。佐伯は質問に対する明確な回答が思いつかず、困り果てた後に、無言で少年を見て首を横に振った。 「……まるで、わからないのです。埋めたくて、埋めてしまいました」  それが正直な気持ちだった。  自分はなぜコウスケを殺してしまったのだろう。なぜ人を生き埋めにするという恐ろしい妄想に取りつかれたのだろう……。  どこにも理由はない。まるでそういう生き物として生まれてきたように、佐伯は、二人の人間を埋めたのだ。 「埋めてみたくて、埋めてみました……」  もう一度、泣き笑いのようにつぶやいてみると、胸が|抉《えぐ》られるようだった。やはり自分は人間でありえないという答えに、ついに行きついてしまった。手が震えだし、持っていた警察手帳を取り落とす。 「私は……」  これからどうやって生きていけはいいのだろう。見つけてしまった自分の本当の姿が恐ろしい。そのような自分と、これからどのように生きればいいというのだろう。  なぜ自分は、このような|穢《けが》れた魂を持って生まれついてしまったのだろう。なぜ、他の人と同じではないのだろう。心の中に、そのことへの疑問と悲しみが溢れ出す。  人を殺して喜びを得るようなことをせず、自分も普通の人のように生きたかった。人間を生き埋めにするという妄想に取りつかれず、夜に一人で穴を掘って心を落ち着けることもせず、ただそっとだれにも迷惑をかけないよう生きたかった。  決して多くを望まない。どんなにささやかでもいい。ただ自分は、上司が子供の写真を眺めるように、同僚が真新しいシャツで職場へ現れるように、普通の人が送るような、当たり前の人生をいつも夢見ていた。自分にそれが与えられていたなら、どんなによかっただろう。  両目から静かに涙がこぼれてきた。地面に膝をついたまま、その涙が落下して土に染みこんで消えるのを見つめた。どうすれはいいのか、何もわからなかった。世界は闇へと沈み、息苦しさと圧迫感の支配する見えない棺桶の中へと、佐伯は閉じ込められた。  …………。  どれほどの時間が過ぎたのか、一瞬、わからなかった。佐伯はいつのまにか縁側に座っていた。まだ夜は明けておらず外は暗かったが、じきに朝の訪れることを予感させる鳥の声が遠くから聞こえていた。  家の中に明かりが点っており、だれかの歩く気配がする。立ちあがって確認するような体力はなく、足に力が入らない。手は、指の先まで小刻みに震えていた。  縁側に腰掛けたまま振りかえって見ていると、やがて少年が明かりの中を横切った。目が合うと、大丈夫ですか、と声をかけてきた。どうやら、彼が縁側に座らせてくれたらしい。 「……少し、記憶がありません」 「あなたはずっと泣いていました」  顔を触ると、まだ乾ききっていないものが残っていた。 「勝手に家へ上がらせてもらっています」  少年の言葉を開きながら、庭をあらためて見た。  掘り返したはずの穴が見当たらず、筒が四本立っている。一瞬、何もかもなかったことなのではないかという錯覚を覚えた。 「あの竹筒は蓋の穴に通して、呼吸ができるようにという工夫だったのですね」  少年が佐伯のそばに立って言った。その言葉から、彼が穴を再び埋めたのだと理解した。しかしなぜ少年はすぐにでも警察に電話をしないのだろう。なぜまた穴を埋めたのだろう。  少女の恋人という男の子の姿も見当たらない。おそらく自分と同じようにどんな反応も見せない状態になって、別の部屋で寝かされているのだろう。  地中で少女は、彼が自分を見つけて一人きりにはさせないだろうと信じていた。狂おしい二人の恋を引き裂いた罪ははかりしれない。  縁側のある畳の間を佐伯は振りかえる。そこで少年は携帯電話を取り出し、だれかにかけていた。片手に生徒手帳を持っている。  きみの生徒手帳をさっき道で拾ったのだけど……。  少年が電話に向かって言うのを聞き、その生徒手帳が森野夜という少女のもので、電話の相手も彼女にちがいないと推測した。  電話をはじめた直後に通話が切られたらしく、少年は携帯電話をまじまじと見て、そういえばまだ朝だったな、とつぶやいた。結局、森野という少女は、自分の落とした手帳が佐伯の人生に大きく影響を与えたことなど、何も気づいていないのだろう。  空が明るくなり始めた。縁側から東を見ると、立ち並ぶ常緑樹がある。黒く影になった木々の向こう側が、朝焼けで赤くなっていた。いつのまにか白い霧も消えている。  少年が近づいてきて、佐伯の左隣に腰掛けた。  地面に突き立っている数本の竹を眺める。埋めなおしたときに使ったらしいスコップが、そのそばに放置されている。  木々の間から朝日がもれて、佐伯の隣に座る少年の白い頬を照らし出した。逆光だったため、まぶしくて佐伯は少し目を細めた。少年の横顔の輪郭だけ輝き、後は影で黒く染まった。そのような中、竹筒を見つめている彼の瞳が印象に残った。  少年の目にはどんな感情も宿っておらず、無表情だった。それは、地中に埋める標的を探して車を運転しているとき、不意にルームミラーに写った自分の顔にあった、底無しの暗闇を秘めた瞳に似ていた。  佐伯は朝日の中で、静かな気持ちになった。涙に溶けて消えたのか、眩暈もいつのまにかなくなっていた。 「私は……」  佐伯が口を開いてそう言うと、少年が振り向いた。逆光の作る暗い影の中で、佐伯の紡ぎ出そうとする言葉に耳をすませている。 「……私は、私の行なったことをすべて、警察でお話ししようかと思います」  その決心は、唇の間から零れ落ちるように出てきた。その途端、全身の力が抜けていきそうになる。せっかく止まっていた涙が、また出てきた。しかし今度は、絶望からくる涙ではない。朝の光と同様、清く透明なものだった。  おそらく自分の人生はそれでおしまいになるだろう。大勢の人間が佐伯をなじり、その視線は体を貫くだろう。しかし構わない。自ら罪を告白し、裁かれることを望むことこそ、人間としての最後の決断だった。 「よかった……。自分でそう決心できてよかった……」  これまで、自分のことをはたしてどれだけの回数、人間ではないと悲しんだことだろう。恐ろしいことを想像し、実行し、そのたびに胸の奥の暗闇こそが自分の本性だと嘆いていた。しかし今、自分に残っている人間の部分が静かに勝ったのだ。 「自分の罪がそれで消えるとは思えません。ですが、私は自分でそう決心できたことを誇りに思います……」  少年が、口を開いた。 「佐伯さんが自首したいのなら止めません。でも、あと半年、待ってもらえませんか」  理由をたずねると、少年は立ちあがった。 「もう家に帰ります。佐伯さん、いいですか、半年ですよ。でなければひと月でもいい。感謝しているのならお願いします。そして警察には、佐伯さんが自分一人で何もかもやって、自首を決断したと説明してください」  森野夜という少女のことや少年のことをだれにも言わない。佐伯はそう誓わされた。 「いいですか、彼は、自ら望んだのです。それについてあなたは気に病む必要はない。助け出そうとしても彼は拒否するでしょう。しかし世間には、あなたがやったと説明してください。ここには何も証拠を残していきませんから、たとえ佐伯さんがどのようなことを証言しても、あなたの他に僕がいたなどとだれも信じませんよ」  縁側の下に置いていた靴を履きながら、少年は佐伯に言い聞かせるような口調で話した。  彼が何を言っているのか、理解できなかった。聞き返そうとするうちに少年は縁側のそばを離れ、門の方へ向かいはじめる。別れの挨拶もせずに無言だった。振り返ることもなく、立ち並ぶ常緑樹の幹の間へ少年の背中は消えた。あとはただ、朝のおとずれた庭と、佐伯だけが残された。  ふと、気づいた。彼が一人で帰ったのだとすれば、どこかの部屋で寝かされていると考えた少女の恋人は、どこへ消えたのだろう。  縁側から立ちあがる。  予感はあった。  半ばよろけそうになりながら、裸足で庭を横切る。朝の冷たい空気が、吐き出す息を白色に変えた。  庭の端に突き立っている竹筒は少しも傾いたところがなく、明るくなりかけた空をまっすぐ差している。少年の埋めなおした棺桶が、その筒の下にあるはずだった。  佐伯は筒の先端に耳を近づけた。  筒の内側の壁に反響し、少しくぐもっていたが、地中から声が聞こえた。棺桶の中で恋人と寄り添い名前を呼び続ける男の子の声だった。それはすすり泣くような静かな声で、ただ少女の名前だけ繰り返し呼んでいた。 [#改ページ]  � 声 Voice [#改ページ]    † プロローグ  最近の妹は起きて顔を洗うと、まず犬の散歩に出かける。十一月も終わりになると朝が冷えこむため、いつも寒そうにしながら外へ行く。  その日の朝も、彼女は震えながら玄関に向かっていた。僕は食卓で朝食を食べながら、いつも通り新聞の死亡欄に目を通していた。  部屋の隅に石油ストーブがあった。母がつけたばかりで、灯油の臭いが部屋に充満していた。脳細胞が消滅していくような臭いだった。ストーブの一酸化炭素中毒で子供が死んだという記事を、読んでいた新聞の中でちょうど発見した。  換気のために窓を開けると、冷たい朝の空気がなだれこんできて、部屋に充満する臭いを吹き飛ばした。空に雲が薄くかかっており、庭には霜がおりていた。  セーターとマフラーで身を包んだ妹が、窓の外に立っていた。窓を開けた僕と目があうと、やあ、と言って手袋の緑まった手を振った。足元に犬がいて、首輪につなげた紐を彼女は片手に持っていた。 「さっきからこの子、庭の隅を妙に気にして動かないの」  妹は犬を指差して言った。犬は、隣の家との境にある塀のそばで、地面に鼻先を近づけ臭いを嗅いでいる。前足で、穴を掘ろうとする仕草も見せた。 「ほら、もう行こう。散歩の時間がなくなるよ」  妹は犬の紐を引っ張りながら話しかけた。彼女は散歩の後、身支度を整えて学校へ行かなければならない。犬は彼女の言葉を理解したのか、庭の片隅から離れる。そうして妹と犬は、白い息を吐きながら視界から消えていった。  窓を閉めてよ、と背後から母に言われた。僕は言われた通りに窓を閉めてから外へ出た。  庭の片隅に、一抱えもある大きな石が転がっていた。僕はそれを、犬の掘ろうとしていた場所に移動させた。それで、犬は地面が掘れなくなった。その場所を掘り返されてはまずかった。もう少しで妹は、僕が半年前に埋めた何人分もの人間の手を発見してしまうところだった。学校から帰ったら、見つかる前に別の場所へ埋めなおそうと考えた。そして、おかしなものをなぜか見つけてしまうという妹の特殊な運命を垣間見た気がしていた。  家の中に戻り、僕は新聞を再び読んだ。何かおもしろい記事でもあるの、と母が聞いた。別に、と返事をしながら、その日の新聞にも、北沢博子に関する新たな情報が掲載されていないことを確認した。  北沢博子の死体は、七週間前に廃墟で見つかった。うちからそう遠くない、同じ市内のことである。その廃墟は、以前、病院だった。市の中心から山の方へ向かった寂しい場所にあり、道路からそれて砂利道を進んだ先にあった。錆びた金網を越えたところに、取り壊されず残っている。周囲は一年中、枯れた草が広がっているだけで、他にどんな建物もなかった。  三人の小学生が、その廃墟を探険している最中に、北沢博子の死体を発見した。その三人は現在、カウンセリングを受けているという。  死体の発見された当時、新聞やテレビはこのニュースを大きく取り上げた。しかし今ではほとんどだれも彼女のことを語らない。捜査の状況が現在どうなっているのかわからなかった。  僕の集めた彼女に関する記事は、死体発見の経緯を印字した文章と、彼女の顔写真だけである。どちらも新聞の切り抜きだった。  写真は、生前の笑った顔だった。白い八重歯を覗かせて彼女は笑みを浮かべ、直毛の黒い髪の毛を肩でそろえていた。彼女の写真はそれ以外に公開されていない。  警察はどこまで犯人に近づいているのだろう。  その日の夕方。  授業の終わるころ外はすでに薄暗くなっていた。教室は蛍光灯をつけており、窓ガラスは鏡のように教室内を反射して映し出している。帰りのホームルームが終わると、クラスメイトたちはまるで波がひくように教室を去っていく。ざわめきとともに教室の出入り口から出ていく彼らの中で、ひとつだけ動かない人影が、僕の見ていた窓ガラスに映っていた。まっすぐの長く黒い髪の毛に、雪で作られているのではないかと思うような、白い顔をした女子生徒である。森野夜だった。  教室に二人だけが残った。 「見せたいもの、というのは?」  僕は彼女に聞いた。その日、昼休みの終わるころ、廊下を歩いている僕にそっと彼女が耳うちしたのだ。見せたいものがあるから残ってなさい、と。 「死体の写真よ。手に入れたの」  人にはそれぞれ、生きかたというのがある。百人いれば、百通りの生きかたがあり、おそらく人は、自分以外の人間の生きかたをうまく理解できないだろう。  彼女と僕はお互いに、一般的な|範《はん》|疇《ちゅう》からはみだしている特殊な生きかたをしていた。つまり、入手した死体の写真を見せ合うような、生きかただ。  彼女は鞄からA4サイズの紙を一枚、取り出した。光沢のある滑らかな表面をしている。プリンタで美しく印刷するための、専用の紙だった。  コンクリートの殺風景な部屋を撮影した画像が印刷されている。それを一目、見たときに感じたことは、赤い、だった。  写真の中心に横長の台が配置されており、その上や周辺、壁や天井がその色に染まっている。鮮やかな赤ではない。照明が届かずに部屋の片隅へ残っている暗闇から、徐々に浮かび上がってくるような、黒味を帯びた赤色だった。  中心に写っている横長の台に、彼女が載っていた。 「……これは北沢博子さんの」  僕がそう言うと、森野はわずかに眉をあげた。見落としそうなほどきさやかな、彼女の驚いた表情である。 「よくわかったわね」 「ネットで入手したのかい」 「人にもらったのよ。市の図書館で、北沢さんに関する新開記事を切り抜いて集めていたら、通りがかった人がくれたの。北沢さんの写真だそうだけど、私にはよくわからなかったわ」  森野夜は美しい顔をしていたため、他校の男子生徒に町中で声をかけられるということがときどきあった。しかし、学校内ではほとんどだれも近寄らない。彼女がまったくそういうことに興味を示さないことを周囲の人間は|覚《さと》りはじめていた。  しかし市の図書館という特殊な場所で、彼女が変わった新聞記事を切り抜きするのを見て、新たな声のかけかたを思いついた者がいたらしい。  写真の印刷された紙を、彼女は僕の手から取り上げて眺めた。目を細めて、顔を近づける。 「よくこの写真を一目、見ただけで、北沢博子さんだってわかったわね……」  だってこの写真の彼女……。  ほとんど人間らしいところが……。  彼女はそうつぶやいた。僕は、ほとんどあてずっぽうで言ったのだと説明する。写真の台に、北沢博子の頭部が置かれていた。その横顔と髪型から推測したのだと告げる。 「ああ、そうなの」  彼女は納得したらしく、頷いた。  僕はその写真をくれた人物についてたずねたが、彼女は教えてくれなかった。帰ったら自分でネットを探してみようと思った。  森野から目を離して、僕は窓を見た。ガラスの向こう側には暗闇しかなくなっていた。深く底無しの闇である。白い明かりに照らされた教室内の、並んでいる無数の机が、反射して浮かび上がっている。 「人間には、殺す人間と、殺される人間がいるね」 「突然、何を言い出すの」  人を殺す人間が、確かに存在している。どんな理由もなく、殺したくなるのだ。成長する過程でそうなるのか、生まれつきそうなるのかはわからない。問題は、その性質を隠して、それらの人々は、普通の人間として生活しているということだ。この世界にまぎれこんで、見た目には普通の人と何ら変わらない。  しかしあるときふと、殺さずにはいられなくなる。社会的な生活から離れて、狩りへ赴く。  僕も、そのうちの一人だ。  これまでに僕は、幾人かの殺人者と目を合わせた。それらの多くの目は、ある瞬間、人間でない目をする。ほとんど気づくか気づかないかという程度のちがいだが、瞳の奥に、通常とは異質のものを見た。  たとえば、普通の人と正面に向き合って接していれば、その人は僕を人間として認識し、それ相応の配慮を持って応対するだろう。  しかしこれまでに僕の見た殺人者は少し違っていた。彼らの瞳をよく見ていると、「今この人は目の前にいる僕のことを生きた人間ではなくただの物体としてとらえた」と感じられる瞬間があった。 「ねえ……」  窓ガラスに浮かび上がっている森野と目が合った。  あなたが彼女を殺したわけじゃないでしょうね……?  だってこの写真の彼女、髪の毛はパーマがかかっているし、色も……。新聞で公開されていた写真とは違っているのに、なぜあなたはこれが彼女だとわかったの……?  森野の声を聞きながら、今日は冴えているな、と思った。  彼女の瞳には、これまでに会った殺人者と同じような特殊な気配はない。人間を人間として映し出す瞳をしている。おそらく彼女がこの先、人を殺すことはないだろう。彼女は普通の人に比べて特殊な趣味を持っているが、正常な人間の範疇にいる。  僕と森野はところどころ似通ってはいるが、そこが違うのだ。その違いは決定的で、人間なのか、そうでないかをわけるようなものだと思う。  彼女は人間。いつも殺される役だ。  だが僕は違う。 「パーマをあてた後の顔写真も公開されているんだ。親族に無断で使用された写真だから、あまり出まわってないみたいだけど。そっちに見覚えがあっただけだよ」 「そういうわけか」  彼女は再び納得した。  家に帰り、僕は二階の自室でパソコンを起動させた。北沢博子の死体の写真を求めてネットを探しまわる。部屋の空気が淀み始め、濁ってくる。しかし見つからなかった。  あきらめて僕は、本棚の奥に際していたナイフを取り出した。刃に映りこんだ自分の顔を見つめる。外から聞こえる風の音が、かつてそのナイフによって殺害された人の悲鳴に似てくる。  ナイフがまるで意思を持ったように僕へ呼びかけることがあった。あるいはもしかすると、僕の心の奥底にいるものが、ナイフという鏡に映して自分の声を聞かせているだけなのかもしれない。僕は窓の外を見た。遠くにある街の光が、夜空に薄く明かりを滲ませていた。  手に持ったナイフから、あるはずのない音が聞こえてくる。刃の乾燥する音だと、なぜか僕はそう感じる。  僕は森野に嘘をついた。パーマをあてた北沢博子の顔写真は、一切、出まわっていない。    † 1  これまで、家族のうちのだれかが一人、一時的に家の中から消えるということはあった。たとえば父が出張でいなくなったときや、母が友達との旅行で出かけているとき、四人で暮らしていた家の中が、妙に風通し良くなったように感じた。私が修学旅行に参加しているときも、家にいる両親や姉は、いつも私のいるはずの空間に空気しかないのを見て、似たような虚しさを感じていたのだろうか。しかしそういった家族のひと欠けも、たいていはほんの数日のことだった。欠けていた家族が旅行先から帰ってくれば、また元通り、家の中には四人の顔が見られるようになる。家の中はちょうどよく慣れた広さになって、テレビの前を横切るときに姉の伸ばした足につい|躓《つまづ》いてしまうような、心地よい窮屈さに復帰する。  私の家は少し前まで、四人家族だった。しかし今、姉が永遠にいなくなって、テーブルに家族がついても、ひとつだけ椅子が余るようになった。  姉がなぜ殺されなければいけなかったのか、だれにもわからない。しかし、七週間前に姉の北沢博子は死んだ。最後に目撃されてから十二時間後、彼女はだれかに殺された状態で、郊外にある病院の廃墟で発見されたのだ。  私は実際にその廃墟の中へ入ったことがない。しかし、姉が発見された後、外から一度だけ眺めたことならある。枯れた草の他になにもない、寒々しい場所だった。地面は砂利道で、細かい砂埃が風に吹かれて靴の表面を白くした。病院の廃墟は、四角いコンクリートで、巨大な何かの抜け殻のように見えた。窓ガラスがすべて割れていて、奥は暗かった。姉がその中で発見されてさほど時間がたっていなかったので、入り口にテープがはられ、警察がそれをくぐって出入りしていた。  廃墟の奥まったところにある部屋で、姉は小学生に発見されたという。警察は情報を公開していないが、その部屋は以前、患者の手術を行なっていた部屋だった。  遺体の損傷は激しく、身元を判別することは困難だったそうだが、近くにあったバッグから姉の持ち物が出てきて、警察はうちに連絡をすることができた。電話を受けたのは母だった。最後に姉を見てから一日も経過していない昼間のことで、電話はだれかのいたずらとしか思えなかったそうだ。  しかし遺体はたしかに姉のものだった。それは、実際に姉を知っている両親や私、恋人の赤木さんが姉の|亡《なき》|骸《がら》を確認してわかったというわけではない。生前に姉のかかっていた外科医のカルテや、いくつかの精密な医学的な検査が判定したことだった。  ……警察は、姉がどのような状態で発見されたのか、どのような方法で殺されたのかを、あまり公にはしなかった。世間には、絞殺され、刃物で切断されていたとだけ広めた。それだけでも、相当に残酷な事件で、ニュースは騒ぎ立てた。しかし実際は、その程度のことではなかったらしい。  姉の受けた仕打ちを何もかも公開すると、あまりにも社会に対する影響が大きいと判断したらしく、だれもが口を閉ざしたのだ。発見した小学生にまで、その箝口令はしかれたらしい。  両親は、姉の死体を見せてくれるように警察や医者へ頼みこんだ。しかし彼らはしぶった。姉はもう、もとの姿にまで復元することは不可能な状態で、家族には見せないほうがいいと判断されたのだ。  父母は生前の姉を、特別に溺愛していたというわけではなかったと思う。どこにでもあるような親子で、テレビコマーシャルの話題で盛りあがったり、新聞をどこに置き忘れたかで険悪になったりするような家族だった。人前で姉を誉めるということもなく、どれだけの愛情を注いで育てていたのかなど、姉の死を知らされた両親が顔を擦って泣き出すまで私は知らなかった。 「博子に会わせてください!」  病院で、父は必死に医者と警察へ頼みこんだ。顔を赤くして、ほとんど怒っているように見えた。少しも引く様子がないのを見て、医者と警察は困惑しながら、父母を遺体の安置されている部屋に通した。  四角い両開きの扉を抜けて両親の背中が消えるのを、私は廊下から見送った。恐ろしくて、私は姉を見るためにその部屋へ入る勇気がわかなかった。  刑事と医者が話しているのを、ちらりと耳にした。彼らは、私が階段の陰にいることに気づいていなかったらしい。  散らばった体を集めるのが大変で……。  刑事は、そう口にした。私の靴が、病院の床で擦れて高い音を出した。刑事が振り向いて、私の存在に気づく。しまった、という表情をして口をつぐんだ。  姉の体を、集める。私は立ちすくんで、その言葉の意味を考えた。  しばらくして両親が連体の安置された部屋から出てきたとき、姉はどのような状態だったのかと私は尋ねた。しかし、言葉は二人の上を素通りした。それまで涙を流し続けていた二人は、その部屋に入った後、もう泣かなくなっていた。そのかわり、だれとも目をあわせないまま下を向いて押し黙っていた。表情を部屋の中に忘れてきたようだった。二人の顔の皮膚はひどく黄色くて、まるで動かないマスクのようになっていた。  姉の遺体について、警察は固く口を閉ざし、世間に対しては、黒い箱の中へ入れたままにした。そのおかげなのか、遺体が発見された当時は賑やかだった報道も、長くは続かなかった。姉が殺されて七週間が経過した今、もう警察や報道関係者がうちにくることはなくなっていた。  姉は私より二歳年上で、死んだとき二十歳だった。二人きりの姉妹だったから、いつも姉を見て私は生きてきたようなものだった。  私が小学五年生になったとき、姉は中学校の見なれない制服を着た。私が中学二年生になったとき、姉は高校というやはり私の知らない世界のことを家で話し始めた。二年後の私に訪れるはずの生活を、私は姉の中に見ていた。そう考えてみると、姉は私にとって、暗い海を先導して進む船のような存在だったのではないかと思う。  二歳のちがいはあったが、背丈はほとんど変わらなかった。そのせいか、私たちはよく人から、似ていると言われた。小学生だったころ、正月に親戚の家へ行くと、会う人ごとにそう話しかけられて困った。 「べつに、そんなことないよねー?」  姉は親戚たちの反応をおかしそうに見ながら私にそう言った。私たちにとって、毎日、目にするお互いの顔は、自分とは全然ちがった別の顔にしか見えなかった。どこが似ているというのだろう。いつもそう思っていたが、姉と別の部屋で親戚の子供といっしょにゲームなどをやっていると、部屋の前を通りかかった親戚のおばさんは、「あら、あなたさっき、向こうの部屋にいなかった?」と首をかしげていた。  子供のころ、私と姉は仲が良くて、いつもいっしょに遊んだ。姉に手を引かれて、二歳年上の、姉のクラスメイトの家に行ったこともあった。  ……それが、いつごろから変わってしまったのだろう。最後に笑って姉と会話したのが、いつだったのかを思い出せない。  数年前から私たちの間に、わずかな溝ができていた。それは、まわりの人にもわかるような、はっきりとしたものではなかった。あるいは、溝というほどの大げさなものではなかったのかもしれない。私と話をしていると、姉が、わずかに不機嫌そうな顔をするときがあったのだ。  あるとき私が居間のソファーで、読んでいた雑誌を指差し、こんなおもしろい記事があるよと姉に声をかけた。ただそれだけなのに、彼女はちらりと雑誌を目にすると眉間に皺をよせ、ああそう、とそっけなく居間を出ていった。そのときの姉の仕草や表情に、気のせいか、いらつきの断片が見え隠れしたように思えた。  虫の居所が悪かっただけにちがいない。あるいは、忙しいときに私は声をかけてしまったのかもしれない。私はそのように考え、姉の見せた表情が、たいした理由によるものではないと信じようとした。  しかし姉のいらつきは気のせいでも、そのときだけの特別なことでもなかった。  たとえばある日、私が高校から帰ってくると、姉が居間で友達と電話をしていた。コードレスの受話器に向かって話す彼女の声には、笑い声が交じっていた。私は電話の邪魔をしないよう、ソファーに腰掛け小さな音声でテレビを眺めた。  やがて姉が電話を終えると、部屋は急に静かな空間へと変わった。私たちは向かい合わせのソファーにそれぞれ座り、無言でテレビ画面を見つめていた。私は何か姉に話しかけたかったのだが、それをためらわせる気配が姉から発散されていた。ついさきほどまで電話に向かって機嫌良く話をしていたはずなのに、私とふたりきりという状況になると、急に姉は黙りこむ。毛布のような暖かい雰囲気を消して、見えない壁を作り、私から距離をとる。  そこへ近づいて話しかけようとすると、姉は不機嫌な表情で拒否するのだ。私と話をするときの、姉の受け答えは短かった。母と話をするときに比べ、短時間で会話を終わらせようという意思を感じた。  理由がわからず、恐かった。言葉よりも前に姉の不機嫌さだけを肌で感じ、そばにいることすらできなくなる。やがて姉の前を横切ったり、いっしょの部屋にいたりするだけで緊張するようになり、そのようなとき私は、体を硬くした。 「夏海、その服はやめたほうがいいんじゃない」  半年ほど前、参考書を買いに本屋へ向かおうとしていると、姉がそう声をかけてきた。彼女が指差していたのは、私がよく外出するときに羽織っていた白い毛糸の上着だった。昔から愛用していたものだから、近くで見ると、たしかに毛玉がついていたり、ほつれたところがあったりした。 「でも、これ好きだから」  そう返事をすると、姉は不満そうな顔をした。 「あ、そう」  私になどもう興味ないと言いたげに、そっぽを向いた。私は立ちすくみ、世界にあった光が急激にしぼんでいくような気持ちに耐えた。  私たち姉妹は人の言うように外見が似ていたかもしれない。しかし趣味や性格は正反対だった。  姉は明るく、恋人もいて、いつも笑顔を絶やさない人だった。まわりにはいつも姉を慕う友人がついており、毎日だれかから電話がかかってきていた。活動的で多趣味だったから、落ち着いて家の中にいるということが少なかったように思う。妹の私から見ても、姉は輝いていた。  一方で私といえば受験生である。いつも机に向かって、ペンシルの芯が折れる音しか最近は聞いていない。暇な時間は、歴史小説を読むだけだ。姉が中学に入り、私の知らない町のことや、知らない人々との交流を持って家を空けるようになったころから、姉に引っ張られて外遊びをしていただけの私は、だんだんうちにこもって本を読むばかりになったのだ。しかしその変化は自分にとってごく自然なことだったし、華やかで明るい姉のことは好きだった。  外を軽やかに飛びまわるような姉と、家の中で石のようにじっとしている自分の姿とを、私はよく見比べた。劣等感を抱いたことは、あまりなかった。ただ、自分はすごい姉を持ったものだという誇らしさを感じることならあった。  しかし姉にとって私は、野暮ったいだけの人間だったのかもしれない。以前は気づかなかったが、私の生活のしかたなどが、彼女の気にさわっていたのではないだろうか。  姉はやさしい人だった。私に対する不満をはっきり口にしなかったのは、その表れだったように思う。彼女が私のことを嫌いだなどと言ったことは一度もなく、自分の不機嫌さを私に|覚《さと》られまいとしている印象もどこかあった。だから、長い間、妹としてそばにいながら彼女の気持ちに気づかなかったのだ。  姉は私のことを、私が思っていたようには好きではないのかもしれないなあ……。  その結論が真実かどうかはわからない。しかしその悲しい解の他にどのような答えも思い浮かばなかった。  なぜなの? ただ一言、そう聞けばよかったのに、もう遅い。どうして私は、姉が生きているうちに勇気を出して問いたださなかったのだろう。後悔するような返事をもらうことになっても、そのほうが良かったに違いない。  しかし、姉が言葉を発する機会は永遠にこなくなった。もはや私は、疑問を抱いたまま姉のことを思い返すことしかできないのだ。  姉がいなくなった家の中は、朝のこなくなった夜のように静かだった。二ヶ月前と比べて同じ家庭とは思えないほど変わってしまった。  両親は姉の遺体を見て以来、口数が少なくなっていた。感情の抜け落ちた顔で、世間話をすることなくテレビを見ていることが多くなった。バラエティ番組にチャンネルを合わせていても、笑い声をあげることもなく、楽しそうな笑みを浮かべることなく、静かに見ているだけなのだ。両親は、一生この先、このままなのかもしれない。二人を見ていると、そう思うことがあった。  もはやこの先、どんな幸せなことが起こっても心から楽しめないものを背負ってしまったような、そんな顔を二人はしていた。  かろうじて母は食事を作ってくれる。これまでの生活で体に染みついた習慣どおりに食事を用意する母は、まるで機械のようだった。  部屋の隅に落ちていた埃の塊を見たとき、私は泣きそうになった。父母が憐れだった。母は姉のいなくなる前、こまめに掃除をしていたはずだった。しかし今の家の中は、どこも薄く埃に覆われている。それにも気づかずに二人は、きっとどんな瞬間にも、幼いころの笑った姉の顔を思い出しているのだろう。はじめて抱き上げたとき、腕に感じた重みは、まだ二人の腕にきっと残っているのだ。  二人はやはり、遺体の安置された部屋に入るべきではなかったのだ。そこで見てしまったものと、記憶の中にある幼い姉の笑顔とのギャップに、二人は首を永遠に傾げ続けることになってしまったのだ。  沈黙しかない家庭の中で、私の存在は希薄だった。父に話しかけても、「うん……」という意味のない頷きしか返ってこない。しかしはたから見ると、私も両親と同じように映っていたのかもしれない。友達との会話で、両親と同じく笑うということができなくなっていたからだ。  私はときどき、夜になると、主のいなくなった姉の部屋に入り、椅子に座って考え事をした。姉の部屋は、私の部屋の隣にあった。生前に断りもなく入ったとしたら、きっと姉に怒られていただろう。  使うもののいなくなった部屋は、埃のつもるのが早かった。姉の使っていた机の上に手を載せると、ざらつくものが表面を覆っていた。  姉はここでどのようなことを考え、生きていたのだろう。椅子の上で膝を抱えるようにして座り、家具のひとつひとつを見ながら思った。カーテンの閉められていないガラス窓は、夜の暗闇のために黒かった。  姉の顔が、ガラス窓の中に浮かんでいた。一瞬、そう思ったが、私の姿が反射しているだけだった。自分で見間違うということは、やっぱり私たちは似た姉妹だったのだろうか。  棚に、手鏡が置かれていた。私は自分の顔を見ようと、それに手を伸ばす。手鏡の横に小さな筒状のものが転がっているのを見つけ、そちらに興味がわいた。どうやら口紅らしい。手鏡ではなく、それを手にする。  血のような、赤色の口紅だった。薄いピンク色をしたかわいらしい口紅もいくつか転がっていたが、血のような赤に、私は吸い寄せられた。  鏡を見るまでもない。それらを持っているか、いないかが、私と姉の違いだったと思う。口紅を握り締めたまま、私は部屋を出た。  この先、どうやって生きていけばいいのかわからなかった。そのような状態の私が姉の声を聞くことになったのは、十一月の終わりかけたある夕方のことだった。    † 2  十一月三十日。  学校から帰る途中、街中にある大きめの本屋に立ち寄った。大学受験に関する問題集を購入するためである。意欲をもって大学への進学を望んでいたわけではなかった。姉のいたときははっきりと自分の学びたいことがあったけど、今は違う。他に自分が何をしていればいいのかわからずに、ただ漠然と、それまで行なっていたことをつづけているだけだった。  本屋の奥まった場所に、問題集を詰めこんだ棚はあった。私はその前に立ち、まず一番上の段を見上げて、並んでいる背表紙を左から順番に目で追った。棚の右端までくると下の段に移り、自分と気の合うような問題集を探す。  良さそうな本はなかなか見つからなかった。私は腰を曲げ、最後に、足元近くにある最下段を探した。並んでいる背表紙を左から一つずつ確認し、視線が右端まで移動し終えたとき、視界の端ぎりぎりのところに人の靴が見えた。  黒い靴のつま先が、私のほうを向いていた。あきらかに私という存在を正面にとらえた立ち方だった。私が顔を上げてそちらを見ようとすると、その靴は素早く遠ざかって本棚の間に消えた。  じっと見つめられていた気がした。胸に不安が広がっていくのを感じながら、再び私は、棚に視線を向けた。  今度は、背後に人の立つ気配がした。店内の蛍光灯が、すぐ正面にある棚に私自身の影を落としていたのだが、それを一まわり大きな影が覆った。  靴音もなにもしなかった。その人物は、私の背中に触れるか触れないかという近さに立っているらしく、呼吸する音が聞こえてきた。  痴漢だということはすぐにわかった。以前、この本屋に現れたという話をだれかから聞いていた。しかし、私は悲鳴をあげることも、逃げ出すこともできなかった。すくんで足が動かない。恐くて振りかえることさえできなかった。体中が硬化し、石になったように感じた。 「すみません、通してもらえませんか?」  唐突に、右手の方から声がした。まだ若い、男の子の声だった。 「痴漢の方、ですよね。さっきから鏡で見ていましたよ。ほら、天井に設置してあるでしょう、鏡が。興味深かったです。でも、僕はそこを通りたいので、脇によっていただけませんか」  人がきてくれたという安堵からか、魔法のように私の体が金縛りからとけた。声のした方を振り向くと、黒い学生服を着た少年が本棚の間に立ってこちらを見ていた。  背後にあった気配が、慌てたように少年とは反対の方向へ逃げ出していく。その後ろ姿を、私は見た。背広姿の、どこにでもいるような男の人だった。走って遠ざかる姿は少し滑稽で、自分の中の恐怖心が綺麗に溶けていくのを感じた。 「……すみません、ありがとうございます」  私は少年に向き直り、礼を言った。彼は私より背が高く、痩せた体をしていた。どこか力のない立ち姿が印象に残った。彼の着ている黒い制服には見覚えがあった。知り合いの男の子が通っている学校のものに間違いない。 「いえ、別に。僕は、あなたを助けようと思ったわけではありません」  彼は表情を変えずに淡々と話をした。 「それでは、本当にここを通りたくてあんなことを言ったの……?」 「あなたに話しかけようと思ったのですよ、北沢さん。北沢夏海さん、ですよね。お姉さんに、とてもよく似ていらっしゃいます。だから、すぐにわかりました」  あまりに唐突だったので、反応ができなかった。聞き返そうとする前に、彼はまた口を開いた。 「僕は生前の博子さんと少しだけ面識のある人間です。彼女から、あなたのことを聞かせていただきました」 「ちょっと待ってください。いったい、あなたはだれなんですか?」  それだけを言うのがやっとだった。  少年は私の問いに答えないまま、学生服のポケットから何かを取り出した。どこにでも売っている薄い茶色の封筒だった。中に何かが入っているらしく、厚みがある。 「これをお渡しします」  少年はそう言って私に封筒を差し出した。わけもわからないまま受け取る。封筒の口は開いており、中を確認すると、透明なケースに入ったカセットテープらしいものが奥に見える。 「すみませんが、今ここで中身だけ取り出して、封筒は返してください」  私はそのようにした。テープを抜いて、空になった封筒を少年に渡す。彼はそれを折りたたんで、ポケットにしまった。  カセットテープはどこにでも売っているものだった。シールが貼ってあり『Voice1・北沢博子』と書いてある。手書きではなく、プリンタで出力された文字だ。 「このテープはなに? なぜ姉の名前が書かれているの?」 「再生すればわかります。それは、生前の北沢博子さんから預かったものです。ぜひあなたに聞いていただきたいと思ってお持ちしました。あと二本テープが残っています。それは、また次の機会に。もしもあなたが僕のことをだれかに話せば、きっとその機会は訪れないでしょうけれど」  それだけを言うと、彼は背中を向けて立ち去ろうとした。 「待って……」  声を出して、私は追いすがろうとする。しかし、だめだった。さきほど痴漢に背後へ立たれたときと同様、足が動かなかった。なぜ、自分がそうなっているのかわからなかった。少年は私に危害を加えようとしたわけではないし、逆に痴漢から救ってくれたはずだ。それなのに私は、自分でもはっきりと意識しないうち、いつのまにか全身に汗をかいて緊張していた。  そのうちに彼の後ろ姿は本棚の陰に見えなくなった。後には、私と、手に握ったテープだけが残った。  帰りの電車の中、私は椅子に座って、受け取ったテープを眺めていた。辺りはすでに太陽が沈んで暗かった。窓の外は墨で塗られたように黒く、景色はほとんど見えない。そのせいか、電車が動いているようには思えなかった。すでに太陽は冬の時間で動いているのだと思った。たしか姉が殺されたとき、夕方は、明るかったはずだ。  あの少年は何者だったのだろう。高校の学生服を着ていたことから、私と同い年か、一、二歳年下だろう。彼は姉と面識があると言っていた。しかし、私は彼のことなど聞いたことがない。  もっとも、殺されるより少し前から姉とは親しくできていなかったから、彼のことを教えられていないのは当然のことなのかもしれない。  テープは、姉から預かったと言っていた。ということは、姉が私に、このテープに録音されているものを聞かせたがっていたということだろうか。『Voice1・北沢博子」という題名には、どのような意味があるのだろう。  電車がスピードを落として、私の体に慣性の力が働いた。私は立ちあがって電車を降りた。  駅前は人の通りが多い。しかし、わき道にそれて住宅地に入ると、アスファルトの道が闇の中をのびているだけである。私は冷たい風に震えながら家に向かって歩いた。暗い中で、道の両側に並んでいる家々の窓だけが明るく光を放っていた。その中のひとつずつに家庭が存在していて、夕食の並んだテーブルがあり、それを囲む人々が生活しているのだと思うと、途方もないという気持ちになる。  自分の家の窓は暗かった。しかし、留守でだれもいないというわけではない。私は玄関を開けると居間に向かい、ただいまと両親に声をかけた。  二人はソファーに座って、電気をつけないまま詰もせずにテレビを見ていた。画面の発する光だけが部屋の中を照らしている。私が蛍光灯のスイッチを入れると、二人は顔を私に向けて、おかえり、と言った。弱々しい声だった。 「玄関のドア、また鍵がかかっていなかったよ、だめじゃない」  私がそう言うと、「あら、そうね」と母が頷いた。そしてまたテレビ画面に視線を向ける。何もかもどうでもいいという、無気力な様子だった。  二人はテレビを見ているわけではない。画面に映し出されたどんな色の変化も二人の目には届いていない。私は、皺だらけの服に身を包んだ二人の小さな背中から目をそらし、居間を離れて二階の自室へ向かった。  制服を着たまま、鞄をベッドの上に放り出し、テープをステレオにセットする。小型で、やや青みがかった銀色のステレオである。柵の上から二段目に置いていた、私はその前に立って、心を落ち着けるための呼吸をする。  姉の顔を思い出す。死ぬ少し前の、どこか苛立った様子で私を見る彼女の顔ではない。もっと小さなころ、手をつないで坂道を歩いたときの、八重歯を覗かせて笑った姉の顔だ。  ステレオ本体にある再生のボタンを、人差し指で押した。ステレオの内部で機械の動き出す音がする。テープがまわりだした。スピーカーに視線を向ける。  最初の数秒間、無音だったが、やがて雑音のような風の音が聞こえてくる。緊張で、私の心臓は早鐘を打つ。  風の音だと思ったものは、どうやら風ではなかった。だれかの吐き出す息が、マイクに当たったもののようだった。  夏海……。  唐突に姉の声が聞こえてきた。まるで|憔《しょう》|悴《すい》したように弱々しい。しかし、確かに聞き覚えのある姉の声である。呼吸の音は、どうやら彼女のものだったらしい。あの少年の言ったことは嘘ではなかった。本当に姉が、私に残したテープだったのだと確信する。  ねえ、夏海、この声はあなたに届いているのかしら……。今、私は目の前に差し出されたマイクに向かって伝言を残しているの。でも、本当にあなたへ届いているのか、今の私には確認することなんてできない……。  姉はいつどこでこのテープを録音したのだろう。声はか細く、消え入りそうである。途切れがちに話す彼女の声は、苦しげで、切羽詰まっているように思えた。ゆっくりと、合間に沈黙をはさみながら声を出す。そのために、脚本ではなく姉が考えながら言葉を生み出しているのだと感じられる。  よく聞いて……。私は、伝言を残すことを許されたの……。どんなことでもいいから、今、一番、言いたいことをマイクに話せって……。ただし、だれか一人だけに向けて……。  そう言われたとき、咄嗟にあなたの顔が浮かんできて、言っておかなければいけないことが、たくさんあることに気付いたわ……。不思議ね、赤木さんではなくて、あなたへの言葉だけが浮かんでくる……。  今、私にマイクを差し出している彼、……彼のことは話してはいけないことになっているから、言えないの、ごめんなさい、……その彼が、録音されたテープを、後であなたあてに届けると言ったの……。送り届けて、私の言葉を託された人の反応を見て楽しむのだそう……。それは、とても悪趣味なことだと思うけど、私の声があなたに届くのであれば、それでもかまわないと思う……。  私は身動きできなかった。ただ、嫌な予感だけが膨れ上がっていった。頭の中で、この先を聞いてはいけないという危険を知らせる声が響いていた。恐ろしいことが待ち構えている、そしてそれを聞いて知ってしまうと、もう戻れなくなる……。私はそのことを確信しながら、息苦しさのため、あえぐように呼吸をした。  停止のボタンを押すつもりはなかった。私はじっとして、雑音混じりの姉の声を聞いた。  ……夏海、今、私は薄暗い部屋にいます。動けない状態なの……。まわりはコンクリートで……寒い……台に寝かされているわ……。  私は手で口を押さえ、悲鳴をこらえた。マイクに向かって話しかけている姉がどのような場所にいるのか、ある解答が頭に浮かぶ。  姉の声に、泣き声が混じった。鼻をすする音。  ここは……どこかの廃墟みたい……。  彼女の声は静かで、冷たいコンクリートの暗闇に虚しくこだまするような、悲しい響きを持っていた。その悲痛さが、直接、私の心を串刺しにする。  私は無意識のうちに、スピーカーの方へ右手を差し出していた。姉の声へ追いすがろうとするように、震える指の先が、スピーカーを覆っている網の表面に触れる。  ……夏海、ごめんね。  その一言が、私の指先のすぐそばで発生して消える。わずかな振動が余韻となって手に残った。まるで声の小さな塊をつかんだような気がした。やがて姉の呼吸する音が消え、スピーカーからは雑音さえ出なくなる。録音が終わったらしい。テープを裏返してB面を聞くが、そちらにはなにも録音されていない。  このテープは、姉が殺される直前に録音されたものに違いない。本屋で少年からテープを受け取ったときのことを思い出す。  テープは封筒に入っており、彼はその場で私に、封筒から中身を取り出させた。それから封筒だけを返却させられた。  彼は一度も、テープには触っていない。あの一連の動作は、指紋をつけないようにという配慮のためだったに違いない。彼が姉にマイクを向けて殺害したのだろうか。  このテープは警察へ渡すべきだ。それがもっとも、正しいことに違いない。  しかし、そうするつもりはなかった。あの少年は別れ際、警察に知らせたら残りのテープを聞く機会がなくなるだろうと言い残した。  まだ、テープには続きがある。私はそれを聞きたかった。  テープを聞いた翌日の夕方、私は学校を休んで、M高校の校門が見える場所にいた。  M高校は、私の通う学校とは二駅しか離れていない場所にある市立の高校だった。校門は車の通りの多い道路に面している。そこから敷地を囲むように、淡い緑色の葉をつけた木がすきまなく並んで生垣を作っていた。綺麗に葉が切りそろえられていて、緑色の平らな壁に見える。その上端から、敷地の奥にある白い校舎の屋上が突き出て見える。  道路を挟んだ学校の正面にコンビニエンスストアがあり、雑誌売り場に立つと、店のガラス越しに校門を確認することができた。雑誌を立ち読みするふりをしながら一時間ほど経過したとき、ようやく校門から、授業を終えた生徒たちが出てきた。日が傾き始めていた。  生徒たちは校門を出ると、ほとんどが道路を渡ってコンビニエンスストアのある側にくる。駅が道路のこちら側で、歩道も広いからだろう。おかげで一人ずつ生徒の顔を確認することができた。  大勢の行き交う生徒たちを見ながら、私は姉の声を思い出していた。昨夜のうちにも何度かテープを聞き返し、そのたびに動揺して一睡もできなかった。ベッドに寝転がり、天井を見上げて考え事をしたが、どこかへ思考が着地するわけでもなかった。  体がふらつくような気がした。眠っていないからだろう。持っていた雑誌のページをめくりながら、視線を店員に向ける。ずっと立ち読みするふりをして移動していないから、迷惑がられているかもしれない。もしかすると不審に思われている可能性もあり、呼びかけられたらどうしようかと、少し恐かった。  再びガラスの外に目をやり、道を歩く生徒たちの集団を見た。楽しい会話をしているのか、五人ほどの男子生徒が、おかしそうに笑い合いながら目の前を過ぎていく。その中の一人と、目が合った。  彼は首を傾げてその場に立ち止まると、一緒に歩いていた彼の友人たちに何か声をかけた。ガラス越しだったので、なにを言ったのかはわからなかったが、おそらく別れの言葉だったのだろう。彼一人を残して他の四人は去っていく。  私は居住まいを正した。  彼がコンビニエンスストアの店内に入ってきて、小走りに私のそばへ駆け寄ってくる。 「北沢先輩じゃないですか。どうしたんですか、こんなところで」  神山樹という名前の、中学時代の知り合いだった。バスケ部の幽霊部員をしていた男子生徒で、私はマネージャーだった。彼はぱっと明るくなるような笑顔の持ち主で、まるで子犬のようだった。背丈は私よりも高いが、その駆け寄ってくる様子が、ただの犬というよりも子犬のようだったのだ。 「どうしたんですか、俺の顔、ちゃんと覚えてますか?」  私は彼に声をかけられて、ほっとして泣きそうになった。今まで自分は心細かったのだと自覚する。 「ばかね、もちろんよ。ひさしぶり、樹君……」  姉の葬式の日を思い出した。親類や姉の大学の同級生たちが弔問に訪れる中、彼も学生服姿でかけつけてきてくれた。私のそばにいっしょにいてくれた。別に、元気付けるような言葉をかけてくれたわけではない。でも、そばに立っていてくれるだけで私は救われていた。  そのとき彼の着ていた制服の学章を、私は覚えていた。だから、テープをくれたあの少年が、樹と同じM高校の生徒であることがわかったのだ。少年の名前がわからない今、彼を探し出す糸口はそれしかなかった。 「偶然ですね、こんなところで会うの。だれかと待ち合わせですか?」  まさか、姉を殺したかもしれない犯人が校門から出てくるのを待っているなどと、説明するわけにはいかなかった。私は首を横に振る。ううん、そういうわけじゃないの。私はどんな顔をしていたのだろう、彼は顔を曇らせた。 「なにかあったんですか……?」  彼の声には、人を心配するやさしさがこめられていた。 「お姉さんのことで、今も……?」  彼は、私と姉の不仲を知っている。葬式のとき、隣に立つ彼へ話してしまった。きっと、葬式のときに飾られた写真が、死ぬ少し前に撮影されたものだったから、私は相談したい気持ちになったのだろう。胸から上を写された写真の姉は、綺麗だったが、私とは親しくなくなったころの姉だった。 「姉のことは、もういいの……」 「でもあんなに悩んでいたじゃないですか。お姉さんと話をしておきたかったって……」 「うん、でも、もういい……。お葬式のときはごめんね。私あのとき、あなたにそんなことを言ったのね……」  樹の私を見る目は、痛ましいものを見るときの目だった。 「お姉さんを殺した犯人について、警察が何か手がかりを見つけたんですか?」  私は彼を見つめた。 「なんとなく、様子が変だから」  なんて勘の鋭い子だろう。私は、首を横に振った。 「警察は、何も……」 「そうですか……」  彼がそう言って息を吐き出したとき、私の目の端に、現れた。樹と話をしている間にも太陽は沈みかけ、外は薄暗くなっている。それでも店のガラス越しに、校門を出て道路を渡る彼の顔を確認することができた。  あの少年が姉を殺害した犯人だと決まったわけではない。しかし私は、彼が視界に現れたとき、暗闇に閉じ込められるような恐ろしい気持ちになった。  彼は女子生徒といっしょに歩いている。髪の長い、美しい顔立ちの子である。二人ともほとんど無表情だった。  雑誌の並んだラックと店のガラスを挟んですぐ外を、二人の横顔が通りすぎていく。私が唐突に黙りこんでしまったので不審に思ったのか、樹も私の視線を追って外を見た。 「森野さん……」  樹の口から声が聞こえた。 「それが、あの男子生徒の名前?」 「いえ、女子の方。結構、有名な人なんですよ。以前、痴漢しようとした先生を逆に返り討ちにしたとか、しなかったとか」  あの二人は樹と同様に、M高校の二年生なのだそうだ。 「男子生徒の方の名前、わかる!?」  私はたずねた。つめよるような言い方だったので、彼は少し驚いていた。 「あ、はい、彼は……」  樹は名前を口にした。私は、その男子生徒の名前を忘れないよう頭に刻み付けた。  私は持っていた雑誌を置くと、店の外へ出た。冷たい空気と、車の排気ガスの臭いが、さっと体を包む。  私は店の前に立ったまま、彼の歩いていった方向に目を向ける。駅のある方角へ遠ざかっていく二人の背中が見えた。  視線を感じたのだろうか。少年の隣を歩いていた森野という女子生徒が振りかえり、こちらを見た。私をちらりと確認して、また正面を向く。  店のドアが開いて樹も店から出てきた。 「あいつとは一年のときに同じクラスだったんです」 「どんな人だったの?」  樹は私をまじまじと見て、肩をすくめた。 「別に、普通のやつだったけど……」  私は迷った。追いかけたほうがいいだろうか。しかし、そばには樹がいる。あの森野という女子生徒もいる。姉の声を録音したテープについて話を聞くことはできそうにない。  追いかけるのは諦めることにした。 「どうかしましたか……?」  私は首を横に振った。そして二人の去っていった駅のある方向へ私たちも歩き出す。すでに二人の背中は見えなくなっていた。  道路に面して並んでいる店の看板や自動販売機が、電灯で内側から明るく光っていた。歩いているうちに日が沈み、冬の冷たい闇が濃くなっていくと、それらの明るさだけがはっきりとしてくる。  歩道を歩きながら私と樹は近況報告をしあった。話してもさしつかえのないような、大学受験に関することばかり私は話した。一方で彼は、学校であったおもしろい話を聞かせてくれる。友達とどんな遊びをしたとか、どんなところへ出かけたとか……。  十七歳の男子高校生らしい、たあいのないエピソードが、こわばっていた私の心を解きほぐす。樹本人も何かに気づいて、私を励まそうと語ってくれたのだろう。  ヘッドライトをつけた車が絶えず道路を行き交い、私たちを照らして通りすぎた。 「そこで話をしていきませんか」  駅前で樹がファミリーレストランの看板を指差して言った。窓から見える店内は、白い蛍光灯に照らされて暖かそうだった。  店内は夕食を食べにきた人々の和やかな声で満ちていた。ウェイトレスが私たちを奥の席に案内する。テーブルのしきりや壁に銀色の装飾が施されており、店の照明がそこに反射して輝いている。 「おじさんとおばさんの調子はどうです?」  コーヒーを注文して、樹は質問した。私は首を横に振る。 「よくないわ、家にこもったまま……」  姉がいなくなってからの家の様子を彼に話した。部屋の片隅にある埃の塊のことや、電気をつけずに居間でテレビを見つづけること。鍵の閉められない玄関のこと。 「やっぱり、博子さんのことがまだ……」 「うん、特にお父さんとお母さんは、見てしまったから……、姉さんの遺体を……」  無言で彼は頷く。姉の姿が報道よりもはるかにひどい状態だったということを、以前、葬式のときに教えていた。 「立ち直れるのかしら……」  両親の姿を思い出しながらつぶやく。二人が再生した姿など想像できなかった。私の頭に思い浮かぶのは、いつまでも今と同じように心から火が消えたままの二人の丸い背中だった。 「赤木さんはどうしていますか?」 「葬式のとき以来、何度かうちを訪ねてきたけど、最近はこない……」  赤木さん。姉の恋人だった人である。姉が殺されてひどくショックを受けた人間の一人だった。姉とは同じ大学に通っており、はっきりと聞いたことはないが、おそらくそこで出会ったのだろう。彼は姉につれられてよくうちへ遊びにきていたから、私もよく話をした。葬式での赤木さんは、両親のそばについて支えてくれていた。 「博子を殺したのは僕なのかもしれない……」  彼は葬式の後で私に告白した。 「彼女が殺される前日、僕たちは喧嘩をした……。それで、彼女は僕の部屋を飛び出していったんだ……」  次の日の昼、姉は廃墟で見つかった。生前の姉を最後に目撃したのは彼だった。  もしも喧嘩しなければ、姉は犯人に会うこともなく、殺されることもなかっただろう。赤木さんはそう言うと、手で顔を覆った。 「そろそろ俺は行かないと……」  樹が立ちあがる。電車の時間らしい。 「私は少しここで考え事をしていくから」 「わかりました。それでは……」  彼は立ち去ろうとして、一度、振りかえった。 「……何か悩んでいることがあるのなら、呼び出してくださいよ」  店を出ていく彼の背中に向かって、私は感謝した。一人で残った私は、コーヒーに口をつけながら、通路を隔てた隣の席にいる家族を眺める。露骨に見ると気まずいことになるから、横目でひかえめに見る。  夕食を食べにきたらしい、子供連れの家族だった。若い夫婦に幼い姉妹という構成で、それは昔の私の家族に似ていた。姉妹のうち妹の方は言葉も話せないほどの年齢で、指をつねに口に入れてべとべとにしながら、混じりけのない黒い瞳で周囲を見渡していた。横目で見つめていた私は、その子と不意に目があった。  姉のことを、思い出した。  子供のころのことだ。私たちは二人で、遠くまで歩いて出かけた。おそらく春先で、暖かい季節だった。まだ私が小学校にあがったばかりくらいの年齢で、ガードレールや塀、ポストなど、あらゆるものが巨大に見えた。  住宅地の坂道を、姉とどこまでものぼっていく。やがて上がりきった辺りに森があった。私たちは木陰に並んで町を見下ろした。はるか遠くまで、小さくなった家々が並んでいた。  鳥が空の高いところを飛んでいた。白く、翼のまっすぐした鳥だった。町には大きな川が流れていたから、そこに住んでいる鳥なのだと、子供の私は勝手に決めつけた。  翼をぴんと伸ばして、あまりはばたかせることなく、風に乗って悠然と青い空を飛ぶ。それをいつまでも飽きずに眺めていた。  姉が私を見て微笑んでいた。口の端から八重歯が覗いていた。成長して歯が生え代わった後も、姉の八重歯は残った。よく、吸血鬼ごっこをして遊んだ。けれど、もうずいぶん長い間、姉が八重歯を見せて笑ったところを、私は目にしていなかった。  姉が髪を染めた時、私もそんな感じにしようかしらと何気なく口にした。 「やめなよ、夏海には似合わないから」  姉はそう言った。私はその言葉を、やさしさから出た忠告だとは受け取れなかった。姉の口調が、言い放つ、といった感じのものだったからだろう。  そういう瞬間に出会うたび、自分は姉から存在を望まれていないのだという気持ちになった。  なぜ、姉は死んでしまったのだろう。殺されるほどの恨みをだれかに抱かせていたとは思えない。そして殺される前に私へ残したがった話の内容とは、どんなことだろう。  そのとき、テーブルに影が落ちた。顔を上げると、黒い学生服を着た男の子がそばに立って私を見下ろしていた。さきほどコンビニエンスストアの前を森野という少女とともに通りすぎていったあの少年だった。 「北沢さん、僕が校門から出てくるのを見張っていましたよね」  私はさほど驚かなかった。それどころか、彼が突然に現れるのは当然なことであるかのように感じていた。私はテーブルについたまま、彼を見上げる格好で聞き返した。 「……あなたが、姉を殺したの?」 彼は少しの間、無言だった。やがて静かに唇が開いて、言葉が生まれた。  ええ、僕が殺しました。  彼の静かな声は、店内に満ちている穏やかなざわめきを私の耳から消しさった。    † 3  少年が、さきほどまで樹の座っていた向かい側の椅子に腰掛ける。私は麻痺したように体が動かせず、ただ彼の行動を見つめていた。しかし、もしも動けたとして、彼が正面に座るのを拒否したり、立ちあがって悲鳴をあげたりはしなかっただろう。  僕が殺しました……。  少年の言葉が頭の中で繰り返される。そうかもしれない、とは思っていた。だが、耳に入ったその声は、かんたんに心の中までは染みこんでこなかった。鉢植えに、一気に大量の水を流しこんだときと同じだ。頭蓋骨と脳の間で彼の声は立ち往生し、声の大部分が、脳へ吸収されずに溢れている。  少年が私の顔を見て、首を傾げている。わずかにテーブルへ身を乗り出して、何か口を動かしている。大丈夫ですか、彼はそう言っているらしい。唇が、そのように動いている。そして片手を伸ばし、テーブル越しに私の肩へ触れようとした。指の先端が、服に触れるか触れないかというところで声が出た。 「やめて!」  後からできるだけ遠ざかろうと、ソファーの背もたれに体を押しつけ、壁の方に体を寄せた。考えての行動ではなく、咄嗟のことだった。  その瞬間、急に店内の明るいざわめきが蘇った。いや、蘇ったというのは正しくない。店内の音楽も、客たちの会話も、それまで途切れずにあったのだ。私の耳に入ってこなかっただけである。しかし私には、止まっていた時間が動き出したように思えた。  通路をはさんだ席にいる家族にまで、私の声が届いてしまったらしい。夫婦そろって、怪訝そうな顔で私を振りかえっていた。目があうと、気まずそうに目をそらして家族同士の会話に戻る。 「大丈夫ですか、夏海さん?」  少年が、私に拒否された片腕を引いて、ソファーに深く座りながら聞いた。私も元通り座りなおしながら、首を横に振った。 「大丈夫じゃないわ……」  胸がつまった。泣いてはいなかったが、涙声だった。 「何ひとつ大丈夫じゃない……」  頭の中が、熱かった。彼に、恐怖すればいいのか、憤ればいいのか、何もわからなかった。しかし、目の前に向かい合わせで座っている少年の、何かを超越した雰囲気だけは感じていた。  目の前で私が動揺し、取り乱していても、まるで生き物の観察をするように冷静な顔をしている。私は、自分がまるで人間ではなく、虫眼鏡で覗かれている昆虫になったように思えた。 「夏海さん、僕はあなたに、悲鳴をあげてほしくありません」  彼の声には、感情のどんなゆらめきもこもっていない。まるで、心などないかのようだった。私は、テーブルを挟んでひどく恐ろしいものと向かい合っているのだと思った。 「なぜ、姉を殺したの……?」  彼はおそらく、樹のように笑ったり、突然に悩みを打ち明けられて動揺したりすることはないのだろう。枝葉を切り落として存在だけが純化された人間の塊……、不思議な表現だが、そのような印象を彼に対して抱いた。 「僕が博子さんをなぜ殺したのか、根本的なところは自分でもわかりません」  彼はゆっくりと、言い聞かせるように話をする。 「しかし彼女に問題があったわけでなく、殺したのは完全に僕の問題でした」 「……あなたの、問題?」  彼は考えこむようにして、少し沈黙した。その間も私から目を離さなかった。やがて、無言のまま、わずかに顎を動かして、通路を挟んで座っている家族を差した。 「あなたはさきほど、あの家族を見ていましたね」  子供の姉妹が、笑いあっている。その声が聞こえる。 「あの姉妹に自分と博子さんを重ねて、昔のことを思い出していましたか? 幼かったころの楽しい記憶を心の奥からそっと取り出して、大切な宝石を眺めるように見つめていたのではありませんか?」 「やめて……」  彼の声がもう入ってこないように、耳を押さえたくなった。土足で心の中に入られたように感じた。 「僕にも妹がいます。そして十数年前には、やはりあの家族のように食事をしました。覚えてはいませんが、したはずです。意外に思いませんか?」  彼が言葉を紡ぐたび、心臓が次第に鼓動を速めていく。奈落へ続く斜面を転がりながら、ゆっくりと加速度が増していくようだった。 「あの小さな女の子を見てください。見ていることを覚られないように、気をつけて……」  少年が、心持ち小声で言った。  私は彼から目を離し、隣の席の、小さな女の子を横目で見る。彼女はソファーの上に立っている。無垢な瞳を遠くに向けて、小さな指で母親の服をしっかり握っていた。私と、その女の子は他人で、名前すら知らない。それでも、愛しいという気持ちがわく。 「夏海さん、あの女の子が十年後に人を殺すとしたらどう思いますか?」  急に、心が冷えた。何を言っているの、振りかえってそう抗議をしようとしたが、声の出る前に彼が言葉を続けた。 「両親と姉を殺すかもしれない。可能性は、ゼロではありませんよね。もしかしたらもう、すでにその計画を練っているかもしれません。ああやって子供のふりをしているのはすべて演技で、本当はあのハンバーグを切り分けているナイフをつかみあげ、一刻も早く母親の喉元につけたがっているのかもしれません」 「お願い……」  もうよして。あなたは狂っている。私は顔を伏せ、目を強く閉じて彼の言葉に耐えた。まるで頬をぶたれているように、ひとつひとつの言葉が痛みへと変換するようだった。 「夏海さん、顔をあげてください……。冗談ですよ……。あの子はおそらくだれも殺さないでしょう。しかし今の話は、すべて僕自身のことです」  私は顔を上げて彼を見つめる。少し涙が出て、光がにじんで見えた。 「僕は、そういうふうに生まれついていました。あの子ほど小さかったときは自覚していませんでしたが、小学校に入った時はもう、自分が他人と違うことに気づいていました」 「……いったい、何の話をしているの?」  私は戸惑いながら質問した。彼は、面倒そうな様子を見せずに説明する。 「人を殺す、という宿命についてのことです。僕には、そうとしか思えません。まるで、吸血鬼が人間の血を吸わなければいけないように、僕は人を殺さなければいけなかった。あらかじめそのような運命を定められて生まれてきたようです。両親のふるった暴力が精神に傷をつくってそうなったわけでも、祖先に人殺しがいたわけでもありません。ごく普通の家庭に育ちました。しかし、普通の子供が想像上の友達やペットと一人遊びしているとき、僕だけは想像上の死体を見つめて過ごしていました」 「あなたは、何者なの……?」  もはや彼が人間には見えなくなっていた。もっと恐ろしく、禍《まが》々《まが》しいものに思えた。  彼は一瞬、静かになり、首を振った。 「わかりません。なぜ人を殺さなければいけないのか、考えても、答えは出ないのです。そして、このことを秘密にしたまま、演技をして生活しなけれはいけませんでした。だれにも自分の心の中を見せないよう慎重に生きてきました」 「家族にも……?」  彼は頷いた。 「家族は僕のことを、普通の、どこにでもいる子供だと思っていますよ。細心の注意をはらって、そのような自分の位置を築いてきましたから」 「あなたは……、何もかも偽って生きてきたのね……?」 「同時に、何もかも偽りにしか思えませんでした」  意味がわからなかった。すると、彼が説明を加えた。 「家族の会話も、知人たちの親しげな態度も、みんなが本心でやっているとは思えませんでした。どこかに脚本があるとしか思えずに、子供のころ、一度、家の中を探しました。自分も、みんなと同じように台詞を読みたかったのです。でも、脚本はどこにもありませんでした。本当に存在を感じるのは、死だけです」  だから、人の死を、欲する。  彼の唇はそのように動いた。 「……だから姉は……」 「あの夜、僕が道を歩いていると、彼女が自動販売機の前に座りこんでいました。泣きはらした目をしていて、大丈夫かと声をかけると、彼女は八重歯を覗かせてありがとうと言いました……」  彼は、その八重歯が気に入ったので姉を殺害したのだという。これは恋愛に似たものなのだと主張した。  私は話を聞きながら、レストランの皮張りのソファーに縛り付けられたような気持ちになった。テーブルの上に置いている彼の手を見る。学生服の黒い袖の先から、白い手が出ている。細い指に、綺麗に切りそろえられた爪。目の前にあるその手は、確かに人間の手である。しかし七週間ほど前、その手が、私の知っている姉を殺害したのだ。 「姉の八重歯が、気に入ったから……?」  彼は頷いて、傍らに置いていた鞄から、なにかを取り出した。片手に乗るほどの大きさの立方体だった。 「樹脂で固めたものです。あなたにも、見せようと思って」  彼がテーブルにそれを置く。透明なブロックだった。中に、二十個ほどの白く小さなものが浮かんで連なっている。ブロックの中で、上下に重なった二本のUの字を描いていた。 「部屋に散らばっているものをすべて集めるのに苦労しました」  歯だった。それが、樹脂の透明なブロックの中に浮遊したまま固定されている。ちょうど、透明人間のはめた入れ歯のように、もともとの形を保っている。  見覚えのある八重歯が、あった。  子供たちの明るい笑い声を聞く。店内の照明が、銀色の装飾品に反射していた。和やかに夕食の行なわれる店内で姉の歯を前にすると、夢の中の出来事であるように感じられた。  不思議なことに恐くなかった。ただ、悲しみがあった。私はだれからも、姉の歯がすべて抜き取られていることを知らされていなかった。  彼はブロックを鞄の中に戻し、かわりに封筒を取り出した。 「余計な話ばかりしてしまいました。これが、二本目のテープです」  彼は封筒の口を開けて逆さにした。中からカセットテープが出てきて、テーブル上に落下する。『Voice2・北沢博子』。そう印刷されたシールがテープに貼ってある。 「テープはあともう一つあります」 「それも、聞かせてください」  彼は立ちあがり、背中を見せながら言った。 「二本目のテープを最後まで聞いてから、考えてください」  彼が店から出ていった後、私はしばらくの間、立ちあがれなかった。テーブル上のテープを前にしたまま、樹脂のブロックに浮かぶ姉の歯を思い出していた。  私はコーヒーの入ったカップを口に運んだ。すっかり冷え切っていた。通路を挟んだ隣のテーブルで、少女が私の方を向いていた。口の端を、かわいらしくケチャッブかなにかで汚している。その子は綺麗な黒目で私の手元を見ていた。おそらく、私の持ったカップと受け皿が震えてカチカチと昔を立てるのが不思議だったのだろう。  レストランを出て電車に乗っている間、私は椅子の上で体を丸めるようにして座っていた。ひどい顔色をしていたのだろう、正面に座っていた中年の男の人が私を見ている気がした。おかしなことに、「見咎められるのではないか」という恐怖があった。あの恐ろしい少年との会話の内容や服のポケットに入ったテープのことを、周囲の乗客や駅員はすでに気づいて知っているのではないだろうか。私は声をかけられないかと不安だった。  改札を出ると、住宅地の暗い道を走った。家の前まで戻ってきたとき、窓からもれる明かりを見た。太陽が沈んだとき、両親がそれに気づいて電気をつける気力があるかどうかは、日によって違っていた。  玄関の扉を開けようとすると、直前に内側から開いて、中からだれかが現れた。赤木さんだった。私が玄関前に立っているのを見て、彼は少し驚いていた。 「……やあ、夏海ちゃん」  眼鏡の奥の目を細め、弱々しく彼は笑った。 「来ていらっしゃったんですね」 「もう帰るところだけど、心配だったから……」  大学から帰る途中に立ち寄ったのだという。私と赤木さんは、玄関先で向かい合ったまま話をした。彼は背が高い。私が普通に正面を見ていると、彼の顔は視界の上部に消えてなくなる。だから見上げていないといけないのだが、話をしているうちに首がいつもつかれる。  彼は本のことに詳しく、実家の二階は集めた本の重みで軋んでいるほどだという。私たちは話がよく合った。しかし今は、楽しく会話をする気になれず、お互いの心配や、姉のことを考えていてくれたお札などを言うにとどまった。  話をしている最中、テープのことを頭の端で考えていた。姉の声を、彼にも聞かせたほうがいいに決まっている。しかし、私はテープのことをだまっていた。 「じゃあね、夏海ちゃん、バイバイ……」  ひょろ長い手を振りながら、赤木さんは去っていった。私はそれを無言で見送りながら、自分の変化に驚いていた。  以前、赤木さんと話をしているときの私は、平常心ではいられなかった。心が上下左右に揺れ動いて落ち着かなかった。彼が姉へやさしい眼差しを向けるたびに、私は少し落ちこんだ。  赤木さんにあこがれている部分があった。しかし今は、まるで心が冷たい石になってしまったように沈黙している。  私は首筋をなでながら、別れの挨拶さえ言っていないことに気づく。前は、話をした後に残るおかしな首のつかれ具合とともに、熱心に手を振って、「またね」と声をかけたはずだ。  つながりが希薄になりかけている。姉の死をきっかけに、他人同士の関係へと戻りかけている。姉がいなければ知り合わなかった人だから、そうなるのは当然なのかもしれない。  しかし、関係を保つことに無関心なのは、おそらく赤木さんの方ではないのだ。でなければ、うちまで来てくれるはずがない。  家に上がり、冷蔵庫のように冷たい居間へ向かった。炬燵に入っている両親に挨拶をする。玄関先で赤木さんに会ったことを話しても、気のない返事しかなかった。私は、気分が急速に重くなっていくのを感じた。  階段を上がり、自室に入ると、扉を閉めた。ポケットからテープを取り出し、ステレオにセットする。それまでステレオ内にあった一本目のテープは、机の上に置いた。  再生のボタンを押した。本体の内部から機械の作動する音が聞こえる。私は椅子に座って、棚のステレオを見つめた。  不意に昔のことを思い出す。記憶の中で私と姉は小学生だった。ラジカセを使って順番に声を録音して遊んでいた。なぜ自分の声は録音すると変になるのだろうかと不思議だった。そこへ父と母が現れて、みんなで歌を歌い、テープに吹き込んだ。ひどく幼い歌を、はしゃぎながら歌った覚えがある。家族でドライブをするとき、父は車の中でよくそのテープをかけた。私と姉が中学生になってもそうだったから、「いやがらせはやめて!」と姉妹で半ば悲鳴をあげながら父からテープを取り上げようとした。母はいつも笑ってそれを見ていた。  ひどく楽しかった。  夏海……。  お父さんとお母さんに、そして赤木さんに、これまでありがとうって伝えておいて……。迷惑かけてごめんなさいって……。  それとも、みんなで直接このテープを聞いてくれているのかしら……。  私には、もう、なにもわからないわ……。  私は……。  この後で殺されるみたい……。  最初は冗談だと思ったの……。  夏海……。私はさっきまで、目隠しと猿ぐつわをされて暗闇に放置されていたの。泣いたり叫んだりするのは、無駄みたい……。そう思ったとき、急に、後悔が押し寄せてきたのよ……。  あなたに謝っておかなくちゃ……。だから私は、あなたあてに伝言を残すことにしたの……。  本当に、こんなことになるまで、私はなにをしていたのかしら……。  ねえ、私が時々、あなたを傷つけるようなことを言って、困らせてしまったのを覚えているでしょう……。  そのたびにあなたは不安そうな顔をして……。  ごめんね……。あなたに原因があるというわけではないのよ……。私が勝手に怒っていただけ……。  聞いたら、なんだそんなことで、ってあきれると思うわ……。  でも、このまま何も言わずに私がいなくなると、あなたは何も知らないままになってしまうから、ちゃんと言わなくちゃね……。  テープはそこで無音になった。  続いて、姉の声ではない、聞き覚えのある少年の声が再生された。  ……北沢夏海さん、十二月三日の夜十一時に、博子さんの死んだ病院の廃墟まで一人で来てくだきい。場所は知っていますね。死体の発見された部屋ですよ。そこで、テープの続きをお渡しします。  彼の声を最後に、録音は終わっていた。  二本目のテープを開いた二日後、十二月三日はすぐに訪れた。私はその間、警察へ行くわけでもなく普通の生活を送った。学校へ行き、受験の勉強をする。  一日の授業が終わって教室を出ようとするとき、仲のいい友人が廊下で私を呼びとめた。 「夏海、今度の日曜にどこかへ遊びに行こう」  姉が死んで以来、私があまり笑わなくなったのを、その友人は気にしてくれていた。私を元気付けようと、声をかけてくれる。 「うん、いいよ。……でも、行けなくなったときは、ごめん」 「夏海、そのころなにか用事でもあるの?」  友人は首をかしげて聞いた。  用事はない。しかし今夜、必ず生きて帰ることができるという保証はなかった。私は、録音されていた少年の言葉に従うつもりだった。二日前の夜、テープを聞き終えた直後に、そのことは決定していた。  廃墟へ行ったら、姉の声を録音したテープが聞けるかもしれない。しかしそのかわり、生きて帰れるかどうかわからない。彼が何のために私を呼び出すのか意図が見えない。私はその場で殺されるかもしれないのだ。 「用事、というほどのことでもないんだけど」  そう返事をしながら、目の前にいる友人を私は不意に抱きしめたくなった。彼女はこれからどのような人生を歩むのだろう。つい最近まで、私たちはどこにでもいる普通の人間だった。あくびをしながら高校に登校し、黒板の文字をノートに書き写す生活を続けていた。これからも似たような日々を送るのだと思っていた。それは、なんて平凡で、幸福な日々なのだろう。  しかし、もう自分にそのような日がくるとは考えられなかった。穏やかな日常生活を送るには、あまりにも深く私は死と関わってしまった気がする。それでも目の前にいる友人には未来が待ちうけていて、もしかすると今ここでわかれたのを最後に二度と会えないかもしれないと考えると、愛しくなった。 「じゃあ、また明日ね」  私は手をふって友人にわかれを告げた。  校舎を出ると、十二月の冷たい風が頬を打った。まだ日は落ちていなかったが、空一面に鉛色の雲がかかっており、辺りは薄暗かった。コートの前を重ね、足元を見ながら歩いた。  校門の辺りで携帯電話が鳴った。樹からだった。 「今? 学校が終わって、ちょうど校門を出ようとしたところよ」  私は校門のそばに立ち止まって、電話の向こう側にいる彼と話をする。学校前の道は車の通りが激しかった。その音と、風の音とで、会話はしばしば遮られた。 「え、なんて言ったの? よく聞こえない」  声をはりあげて、聞き返す。 「あ、うん……。この前は、どうもありがとう。なんでもないよ、大丈夫……」  彼とも、この電話が最後になるのかもしれない。そう思うと、周囲の雑音に負けないよう大きな声で電話しながら泣きそうになる。樹とは中学生のときにはじめて会い、姉と弟のように親しくしていた。 「もっと大きな声でしゃべって……」  雑音でかすれがちに聞こえる樹の声を、私は目を閉じて聞いた。 「だから平気だってば、うん、心配かけてごめん。え? 泣いてなんかいないわよ……」  そして私と樹の、短い会話が終わった。  家へ帰る電車内で時間を確認すると、午後五時だった。駅までの道のりで太陽は沈み、電車の窓には暗闇しか見えなくなっていた。あの少年との待ち合わせの時刻まで六時間ある。  なぜかわからないが、激しい恐怖のために体が震えるといったことはなかった。心の中は静かで、私は目を閉じて電車の振動を感じていた。自分に訪れるかもしれない危険に対して、すでに麻痺してしまっているのかもしれない。レストランで見せられた姉の歯は、麻酔だったのだ。いつのまにかじわじわときいてきて、私の中から現実の感覚を失わせている。  私はあの少年に対して抵抗することなど考えていなかった。武器を持って身を守ることも、だれかにこのことを知らせることもせずに廃墟へ行くつもりだった。ただ姉の声を聞ければいいという、それだけの気持ちしかなかった。他にはなにも必要ない。たとえ、あの少年が私に危害を加えるつもりだったとしてもだ。  今日も両親は玄関の施錠を忘れていた。家に入り、帰ってきたことを両親に告げる。  母は和室で、洗濯し終えた服をたたんでいた。私が声をかけると、おかえり、と弱々しい笑みを浮かべた。これ以上、ほんの少しの力が加わるだけで崩れ去ってしまうような、脆い表情だった。  父は居間で、うなだれるような格好で炬燵に入っていた。表情は見えなかった、幼かったとき、私と姉は父の腕にぶらさがって遊んだ。それは遠い過去のことなのだと、小さく見える背中が教えてくれた。 「お父さん、ただいま……」  私はそばに膝をついて言った。返事がなかったので、寝ているのだと思った。そのままにして私は去ろうとする。 「……夏海」  父に呼びとめられた。 「その……、心配かけてごめんな……」 「なに言ってるの」  今日、私は友達に何度、父と同じことを言ったことか。 「おまえと博子が似ている、といろんな人が言っていたけど……、最近になってようやく、そのことがわかるようになったんだ。博子が生きていたときはあまり感じなかったけど、おまえだけになってみると、たしかにそうだな……」  父は顔をあげて、私を見た。ときどき私を、死んだはずの姉と間違う瞬間があったと、父は言った。その目は、やさしさと悲しみが入り混じっていた。 「しかし夏海、おまえ、今、学校から戻ってきたのか?」  私が頷くと、父は訝しげな顔をした。 「さっき、階段を上がるだれかの足音を聞いたような気が……」 「お母さんじゃなかったの?」 「ここにいたから違う」  その足音は、チャイムを鳴らさずに家へ入ったので、娘のものだと思ったらしい。  私は階段を上がって自分の部屋に向かった。  部屋の中から、テープが消えていた。おそらく少年が家に入って持ち去ったのだろう。それは容易に想像がついた。  今夜、私が廃墟から戻らないといったことになれば、警察は私の部屋にあるテープを調べるだろう。そして彼のことを知るにちがいない。そうなるのを防ぐために持ち去ったのだ。  つまり、彼は私を無事に帰すつもりがないということだ。  全身から力が抜けていくような気がして、椅子に腰掛けた。この二日間、自分は殺されるかもしれないという予感はあった。それがたった今、明確な彼の意思としてはじめてつきつけられたのだ。  テープの声に従って廃墟へ行けは、私は死ぬ。  死、とはいったい何なのだろう。あの少年は、死だけがこの世界で感じられる唯一の存在だと言う。吸血鬼が血を吸うように、彼は人の死を味わうのだ。  私はしばらくの間、椅子に座ったまま動かなかった。静寂だけがあった。姉が彼に殺される場面を私は想像する。そのうちに姉の顔は私の顔へとすりかわっていた。しかし、思ったほどの精神的な衝撃はなかった。  以前の私にとって、生と死の境界は明確に存在した。自分は生きている。姉も、両親も、みんな生きている。そうはっきりしていた。  しかし今の私にとって、その境界は曖昧になっていた。白と黒の混じった灰色の場所に私は立っている。姉の死体を間近で見た両親も同じだ。片足を死の世界に踏み入れて、そこから動けなくなった。  そして姉……。姉は確かに死んだ。だが、私にとって録音された彼女の声は生きているとも言えるのだ。テープの中に存在する姉は、今も呼吸し、何かを考え、言葉を発しようとして、私がくるのを待っている……。  生と死をわけ隔てるものがいったい何なのか私にはわからない。しかし、今、その境界上に自分は立っている。 「夏海」  階下から名前を呼ばれた。母の声だった。 「夕食よ」  私は立ちあがり、「今、行く」と返事をしようとした。私が行かなければ、父と母、二人だけの夕食になる。それでは隙間が多いだろう。  姉に残された私たち三人は、それぞれがたがたの状態になりながら、食事だけはできるだけいっしょにとっていた。一個だけ余った椅子を先にして明るい会話もなかったが、食卓は、家族の存在を確かめる最後の砦だった。  しかし私は、立ちあがりかけて、途中で動きを止めた。 「夏海……?」  私の返事がないことを不審に思ったのだろう。母の声が、階段の下から響いてくる。  先ほどの父の表情を思い出しながら、もしも今、二人と食卓を囲んだら、廃墟へ行く気持ちは確実になくなるだろうと思った。私が帰ってこなければ、父母はこの先どうやって生きていくのだろう。そう思うと、愛情なのか、憐れさなのかわからないものが、鎖のように私の動きを封じこめる。 「ごはんは……?」  母の声を聞きながら|逡《しゅん》|巡《じゅん》する。  そのうちに私の目が、机の上に転がっていた小さな筒状のものを発見する。吸いこまれるようにそれを見つめた。姉の部屋から以前に持ち出した、血のように赤い口紅だった。  私は目を閉じ、そして決断を下した。再び椅子へ、静かに腰をおろす。 「……今日は、おなかすいてないから、いらない」  部屋の扉は閉まっていて、階段の下の母が見えていたわけではない。しかし気配はわかる。返事を聞いて、少しの間、母は動かずに私の部屋を見上げていた。  罪悪感が心臓を貫く痛みに、私は胸を押さえて耐えた。二階から娘が降りてこないのを知り、母が肩を下として階段の下から去る。その様子が見えるようだった。  椅子に座ったまま、心の中で何度も両親に詫びた。しかし、どんなに請うても、自分の決断が許されるとは思えなかった。私は親不孝だ。両親を残して、廃墟へ向かうつもりなのだから。    † 4  夜がふけたころ、私は起きてコートを着た。  棚に飾っている兎の人形を手にとる。子供のころから大事にしていたものだった。頭を手で撫でると、柔らかい感触が肌の上を通りすぎた。部屋中に、小さなころから大切にしていたものがあった。それらに心の中で別れを告げる。人形を棚に戻し、姉の口紅をコートのポケットに忍ばせた。自分の決心を忘れないため、持っていくことにした。  懐中電灯を携え、両親に気づかれないよう静かに家を出る。呼びとめられていたら廃墟へは行かなかっただろう。しかし私を止める声はなかった。  姉の死体の見つかった廃墟は、家から自転車で二十分ほど離れた場所にあった。街灯ひとつない国道を私は進んだ。辺りは暗闇が続いており、私の乗る赤い自転車のライトだけが唯一、光を発していた。  姉と共同で使用していた自転車だった。どこかでぶつけたのか、籠が多少、歪んでいた。私がやったという記憶はないから、犯人は姉だろう。赤い自転車、というところから、私は童話の『赤ずきんちゃん』を思い出した。まるで自分は主人公の少女のようだ。ただし、狼がいることを知った上でおばあさんの家に向かっている。  夜空の方が周囲よりも明るかった。おかげで、黒い大地と空の境目は明確に見える。山の方角へアスファルトの道路を進むと、途中で砂利のわき道がある。私はそこで自転車を降りた。道の途中に金網が張ってあり、懐中電灯で照らすと、『立入禁止』と書かれた看板が浮かび上がる。  その向こう側に病院の廃墟はあるはずだった。しかし懐中電灯の光は届かず、なにも見えない。暗闇の中に光はすいこまれてかき消える。周辺には明かりを点すような店舗や民家がなく、枯れた草だけが生い茂っていた。風はなく、細長い草はゆらぎもせず静かだった。  私はその場に自転車を置いて、懐中電灯だけを持って金網に近づいた。靴の裏側で、砂利道を踏みしめる音がする。私の吐き出した息が白くなり、すぐに消えた。金網は、砂利道のところだけ開閉式の扉のようになっている。押してみると、造作もなく開いた。私はそこを抜けて、奥へ進んだ。  姉は殺された夜、どのようにして敷地へ入ったのだろう。今の私のように、歩いて金網を通りぬけたのだろうか。少年に刃物かなにかをつきつけられて、そうすることを強要されたのかもしれない。それとも、気絶させられるか、身動きできない状態にされて、ここに選ばれたのだろうか。彼女にとって廃墟に通じるこの道は、最終的に進むだけの一方通行となってしまった。  かつて駐車場だったのだろうか。広い空間に出た。乾燥した冷たい土と小石の覆った地面に、私の持った懐中電灯の帯が細長く伸びる。その先に、巨大な白いコンクリートの塊があった。二階建てで、夜空を背負うように建っている。病院だった建物は、外側だけになり、まるで死んだ後も骨だけ残った恐竜の化石のようだった。  病院の入り口を抜けて中に入る。入り口は、かつてガラス製のドアかなにかはまっていたのかもしれないが、今はただ四角い口が虚ろに開いているだけだ。病院のロビーらしい場所を電灯で照らす。およそ原形をとどめていないようなベンチが片隅に積まれ、コンクリートの破片がいたるところに転がっていた。電灯の丸い明かりが壁を暗闇の中に浮かび上がらせると、そこにはカラースプレーで描かれた落書きの跡があった。  息苦しく、私の呼吸は浅くなっていた。頭上を、天井がどこまでも続いている。その圧迫感で、たえず頭を上から押さえつけられている気がする。天井のところどころに、蛍光灯のはまっていたらしい跡があった。その下には割れて破片となった蛍光灯が落ちており、踏みしめたときに出るガラスの砕ける音でそのことに気づいた。  暗闇の奥へ、廊下はどこまでも続いている。姉の死体が見つかった部屋を目指して、私は進んだ。おおまかな場所は話に聞いて知っていた。一階の奥にある部屋で、彼女は見つかったのだ。  手術室。そう書かれた案内の表示に従って私は進んだ。足音は壁面に反響して、冬の冷たい空気を震わせた。  やがて私は廊下の突き当たりにその部屋を見つけた。かつてドアのはまっていたらしい入り口は、ただの四角い穴になって奥に時間を湛えている。以前は何重にもドアがあったのだろうか。ひとつ入り口をくぐったところに、またひとつ同じような四角の口があった。そこを抜けると、広い空間へ出た。  電灯の丸い明かりを周囲にめぐらせる。冷たくて、心の奥底から凍えてくるような寂しい気配に満ちていた。小石の転がる音さえ響くような静けさで、暗闇の奥から、孤独な魂のすすり泣きが聞こえてくるようだった。  手を洗う場所らしい、細長い洗面台がある。壁に、いくつか小部屋の入り口があった。それらは開閉式の扉になっており、奥が手術を行なう場所となっているらしい。小部屋は、全部で三つある。ひと部屋ずつ電灯で調べていくことにした。  どこにも人の気配はなかった。小部屋は一辺が五メートルもない広さをしていた。最初に調べた二つの小部屋は、殺風景で何もなかったが、三つ目の、もっとも奥まったところに位置していた小部屋の扉を開けた時、私は奇妙な雰囲気を感じて足を止めた。  そこだけ他の場所よりもやけに暗く、闇が濃かった。火事でもあったように、壁や天井、床がところどころ黒い。  部屋の中に入り、だれもいないことを確認した。扉は支えていないと勝手に閉まるようにできており、私が通りぬけると、ゆっくり閉じた。壁際にボンベらしいものが寄せてあり、鎖で倒れないよう固定してあった。中央に、いたるところ錆びた金属製のベッドがある。いや、それは手術台というものだろうか。  私は、気づいた。壁や天井は煤けていたのではなかった。それらの黒い染みは、中央の台から広がって、私の靴が踏んでいる床まで黒く染めていた。手術室の床一面を侵食し、入り口から外にまではみ出している。  私はいつのまにか後ずさりして壁に背中をつけていた。懐中電灯を持っていないほうの手で口を押さえ、必死で悲鳴をこらえる。おそらく黒い染みは、二ヶ月前に流れた姉の血だった。  暗闇の中で、一瞬、見た気がした。警察が拾い集めたという、かつて人間の形をしていた姉の体が、黒い染みの中に散らばっているのを……。  夏海……。  ねえ、夏海、この声はあなたに届いているのかしら……。  唐突に、すぐそばで姉の声がした。それは一本目のテープに録音されていたいちばん初めの言葉だった。懐中電灯を部屋の入り口に向ける。丸い光の中で、扉が閉まろうとしている。たった今、そこをだれかが通りぬけたらしい。 「北沢夏海さん」  あの少年の声が、台をはさんで私とは反対側の壁際から聞こえてきた。唐突に、その一画が明るくなり、私はまぶしさで目を細める。  逆光の中、少年が立っていた。学生服ではないが、上下ともに黒い服を着ている。ライトを片手に持っており、それは私の懐中電灯よりもはるかに明るく部屋の中を照らし出していた。もう片方の手には黒いラジカセを持っている。小型のもので、姉の声はそのスピーカーから聞こえていた。  ……その彼が、録音されたテープを、後であなたあてに届けると言ったの……。送り届けて、私の言葉を託された人の反応を見て楽しむのだそう……。  姉の声は再生され続けている。音量は大きい。憔悴した姉の息遣い、呼吸の音が、コンクリートの壁面でわずかに反響しながら、血の染みに覆われた部屋に満ちていく。他の場所よりも一段と黒く汚れている中央の手術台を見る。ほとんどなにもない部屋の中、ライトに照らされて濃い影をつけていた。 「博子さんはこの台の上でテープに声を吹きこみました」  少年はライトとラジカセを部屋の片隅に置いて台のそばに立った。黒い染みのついた部分を、手のひらでそっと撫でる。慈しむような手つきだった。 「……なぜ、私をここまで呼び出したの?」  私の声は震えた。  手術台は、もともと表面に黒い革が張ってあったらしい。しかし今は剥がれてしまって一部分しか残っていない。何かで切り裂かれた跡があり、金属製の部分が露出している。黒い染みはそれら一面を覆い、少年の指先は舐めるようにその上を移動する。ざらざらと、指の腹と血の染みのこすれあう昔が聞こえてくるようだった。自分が触れられているようで、鳥肌がたつ。 「さきほど博子さんがおっしゃったでしょう。テープを聞いたあなたがどんな反応をするのか、僕はそこに興味がありました」  少年はそう言うと、私を見つめながら、手術台を片手で二回そっと叩く。無言の中での、静かな動作だった。しかし彼の目が、こちらへおいでと私に語りかけていた。  私は壁に背中をつけ、ゆっくりと、首を横に振った。彼に近づけば私は死ぬだろう。姉のように、殺されるにちがいない。しかし、彼の意思を退けたのは、恐怖からではなかった。  手術台と、その傍らで静かにたたずんでいる少年の姿は、ライトの光のため、暗闇の中で浮かんでいるように見えた。少年の横顔は白く輝き、私の目に神々しく映る。恐怖というよりも、むしろ畏怖に近いものが私の心にあった。どんな意味もなく、無条件で、不条理な死を人間にもたらす高い位の存在として感じられた。  ねえ、私が時々、あなたを傷つけるようなことを言って、困らせてしまったのを覚えているでしょう……。 「夏海さん、こっちへ……」  少年が言った。手術台に上がれと、命じている。台までは三歩程度の距離しかない。彼が素早く動けば、私などかんたんに捕まえて、身動きできなくさせられるはずだ。しかし彼は、決して動かなかった。私から手術台に歩み寄るのを待っている。  足が、一瞬、彼の望んだ通り台の方向へ進みかけた。心の奥に、不思議と、そうしなければならないという気持ちがある。そのことを自覚して、動揺した。  自ら近づいていくなんて、どうかしている。壁に背中をつけたまま、困惑して少年を見つめる。彼は、諭すように言った。 「夏海さん、あなたはもう気づいているはずです……」  何に……? 首を傾げて、私は問う。 「あなたは僕に殺される……。そして、そうされることを、すでに決断している……」  姉の震える声、息遣いが、私と少年の間に流れている。少年はほとんどまばたきをせずに私の瞳を見つめている。まるで、頭の中が覗き見られているような、透過性の高い視線だった。 「あなたは、死に魅入られた……。同時に、自分から近づいた……」 「……そんなこと、ないわ」  私は否定する。少年は、目を細めた。 「僕は、死というものを、『失われること』だととらえています……」  静かな口調だった。 「死の瞬間、その人と、その周期にあるものすべての関係が断たれる……。好きだった人や、執着していたものとのつながりが消える……。太陽や風、暗闇や沈黙とも、もう会えなくなる……。喜び、悲しみ、幸福、絶望、それらと自分との間にあった関係性の一切は失われる……。夏海さん、あなたがここに来るとき、どのような決断を下したのか、僕には手にとるようにわかりますよ……」  私は額を押さえた。握っていたはずの懐中電灯は、いつのまにか下に転がっていた。両親や樹、クラスメイトや赤木さんの顔が頭に思い浮かぶ。 「ここへ来るのはつらかったでしょうね……。でもあなたは、すでに決断済みなのです……。自分が帰れなかったとき、父親や母親がどれほど悲しむのかをわかっていながら、あなたはここへ来た。関係を断ち切り、心の中でわかれをつぶやいて、死人の声を求めた……」  私を動揺させる的確な場所を、少年は言葉で貫いた。声にならないものが、私の口から流れ出る。悲鳴とも、うめきともつかないものだった。手で額を押さえつけ、私は耐える。  ……夏海、私があなたにつらくあたってしまったのは、本当に些細なことなの。それは、赤木さんのこと……。  私のしたことは、長女を失って傷ついている両親を、見捨てたのと同じだ。その罪悪感が、炎となって私の心を焼き尽くす。 「二本目のテープを渡して、今日までに二日の空き時間がありましたね。その間、あなたは何人の人に、心の中で別れを告げましたか……。あなたが、自分の人生に関わってきたものに対してひとつずつさようならを言うたびに、一歩ずつ、自ら死に近づいていたのですよ……」  私は、ようやく気づいた。少年に会って以降、私の行なっていたすべてのことは、緩慢な自殺だったのだ。両親を残して家を出てきたとき、引き返すことのできる最後の地点は通り過ぎてしまった。私をこの世につなぎとめておく、もっとも太い鎖を、自ら断ち切ってここへ来ることを選んだのだ。  ねえ夏海、私と赤木さんがどうやって知り合ったのか、一度も話していなかったわね……。 「私は……」  頭を押さえていた手を下ろし、自分の周囲を見る。コンクリートの冷たい部屋に、虚ろな闇がある。血のついた手術台と少年があるだけで、他に何もない、寂しい場所だった。  足が、動いた。背中が壁から離れて、手術台の方に近づく。  自分の人生にあったいろいろなものを、私は自ら捨てた。姉の声以外の、すべてのものに執着をなくしていた。私という人間は、それで生きていると言えるのだろうか。もはや肉体が生命活動をしているだけで、半分以上は死の世界に足を踏み入れているのではないだろうか。  あるとき、街中で声をかけられたの。同じ大学に通っているってことを知ったのは、その後よ……。  気づくと、手術台をはさんで少年と向かい合っていた。彼は一切、身動きすることなく、言葉だけで私の中から躊躇いを取り除いたのだ。  少年がすぐそばから私を見つめる。背丈の差から、わずかに見下ろすような格好だった。 「夏海さんの存在をはじめて知ったのは、博子さんがここで、テープに声を吹き込んだときでした。それ以来、いつかあなたに会ってみようと思っていましたよ」  囁くような声だった。 「本当に似ていると思います……」  ラジカセから出る姉の声が、静かな廃墟に響いて消える。 「あなたが私にテープを渡して、なぜここへ呼び寄せる必要があったのか、ようやくわかった……」  私がそう言うと、彼は興味深そうな顔をした。 「あなたは、遊びのためにこんなことをしたのではなかったのね。遊戯性を求めたのではない……。あなたはレストランで言ったわ。まわりにいる人々の会話が脚本のようだ、すべてが偽りに思えるって……。そして、死だけが存在を感じられるって……」  ……でも、つきあいはじめてから赤木さんが言ったの。私がよく本屋にいるのを見て、以前から気になっていたって……。いつも歴史小説の棚の前にいたでしょう、よく着ていた白い毛糸の上着はどうしたのって……。  この少年は人を殺した。そのことに対する罪悪感も、おそらく抱いてはいないだろう。決して同情などしてはいけない。それでも、私は彼が少しかわいそうに思えた。 「あなたは、死を甘受してでも私が姉との関係を取り戻そうとするのか試したかったのね……。自分に理解できないものを、わかろうとしていたんだわ……」  彼は無表情にしばらく私の顔を見つめていた。言葉はなく、姉の声だけが辺りに響いていた。どのような感情が彼の中にあったのか、推し量ることはできなかった。  ……わかったでしょう。赤木さんは、最初、あなたを見ていたの。    やがて、彼は手術台に両手を載せた。  夏海さん、この上に座って……。  私は恐怖することなく、姉の血のついた台へ腰掛ける。少年に背中を向けた格好だった。背後に立つ少年の存在を強く感じる。  ジーンズの生地を通り抜けて、手術台の冷たさが伝わってくる。これから死ぬというのに、凪いだ海のような、穏やかな気持ちだった。  両手は、手術台の縁を握っていた。姉の血の固まったものがこびりついている。体が動かなかった。あるいは、動かそうという気持ちがないから、そう感じたのかもしれない。指先から冷たく、硬くなっていく。  背後からライトの光を浴びる。正面を見ると、コンクリートの灰色の壁に、台に座る私の形が大きく写し出されていた。それに半分ほど重なって、立っている少年の形もある。  私たちはそのころ、いつも同じ格好をして、似ていると言われていたでしょう……。それで赤木さんは、あなたと間違えて、私にある日、声をかけたというわけ……。  少年の影が、動いた。腕が持ちあがり、座っている私の影に覆い被さる。  視界が彼の腕によって遮られ、何も見えなくなった。完全な闇の世界である。背後から抱きすくめられていた。首に片腕が巻きつけられ、もう一方の腕が顔を覆っている。力をこめられれば、私の首の骨は音をたてて砕けるだろう。私の吐き出す息が、顔を覆う彼の腕に当たる。そのため、自分の息の熱さを感じる。背中に、少年の胸が密着していた。服越しに、体温を感じた。 「お願い……、姉さんの声を最後まで聞かせて……」  姉の声は、少年の腕越しに耳へ届いていた。赤木さんの話は初耳だった。からまっていた糸がほぐれるように、姉がなぜ私にあのような態度をとっていたのか少しずつわかりかけていた。  首に巻かれた腕の関節が、骨の具合を確かめるように、締まったり、ゆるくなったりを繰り返す。顔を覆う腕も、骨を砕く瞬間に備えている。短距離走の選手が準備運動として手足を動かすように、私の頭をゆっくりと左右に動かした。  私は、自分の首が、細い草花の茎に思えた。糸のような茎は、花を摘み取るとき、たやすく折れるだろう。  ……そのことがわかったあとでも、私たちの間には、何も問題は起こらなかった。それはたんなるきっかけでしかなくて、結果的に恋をしたのは、私と赤木さんだったのだから。彼は私の内面を好きになってくれた……。  ……でも、不安だったの。  姉の静かな声に、私の胸は痛みを覚えた。 「あなたの言う通りかもしれません……」  少年が静かにつぶやいた。彼の声は、抱きしめられた私の頭のすぐそば、ほとんど耳元で聞こえた。声を出したときの、少年の胸の振動が、密着した背中から感じられた。私の心臓が、高鳴った。 「次の被害者になる候補は二人いました……。一人は北沢夏海さん、そしてもう一人は、同じ高校に通っている女子生徒の……」 「……森野さん? いっしょに歩いていた……」  私の声は、彼の腕に遮られてくぐもる。次第に速くなっていく心臓のため、血管を大量の血液が通りすぎるのを感じた。軽く圧迫を受ける首で、血管が脈を打つ。頭が、熱くなっていく。 「神山樹くんに名前を聞いたのですね……。二人の候補の中から、最終的にあなたを選んだのは、さきほどあなたのお話しした理由が、心のどこかにあったからなのかもしれない……」  耳元で聞こえる彼の声は、私に聞かせるというより、自問自答するような響きを持っていた。彼自身も、はっきりと自分の心の中を知らないのではないだろうか。そう思ったとき、不思議なことに、私はまるで彼のことを友達のように感じた。  赤木さんにも、最後までだまってた……。彼が見ていたのは、私ではなくて、実はあなただったってこと……。どうしても言えなかった……。  私は姉の、何を見ていたのだろう。少年の腕の中で姉の独白を聞きながら、その思いが次第に膨れ上がる。  姉は私と違っていつも自信に満ちた人なのだと思っていた。明るく、堂々としていて、だれからも好かれる力を持った強い人だとも思っていた。  でも、おそらくそうではなかったのだ……。  あなたを正視できなかった……。やっぱり、私とあなたは、似ているのだもの……。私は苛立って、あなたにつらくあたってしまった……。あなたの姿から遠ざかるように、髪型や服装を変えたわ……。  あなたの、赤木さんに対する気持ちにも気づいていたから……。  本当の姉は、不安と心細さにいつも耐えていたにちがいない。赤木さんや私に打ち明けることができず、ずっと秘密を胸に抱えていたのだ。ポケットに入っている口紅……、彼女は怯える自分を他人から隠すために、それを唇へ塗っていたのだ。  生きているときに気づきたかった。もしそれを知っていれば、抱きしめて、不安に思うことなど何もないのだと言ってあげることができたはずだ。  彼の腕の関節が、締まる。準備運動は終わったらしい。力強く私の頭を抱きしめた。かき抱かれるように、私の頭は彼の腕の中に収まっている。闇の中で私は、これから殺されるというよりも、愛しさのために抱擁されているような気分になる。  姉の声が終わったとき、私の首は勢い良くひねられるのだろう。締まっている首と、ひねられた頭との間で、首の骨は耐えきれず、鈍い音をたてて砕けるのだろう。彼がそのタイミングで殺すつもりだということが、なぜだか理解できた。  今、こうやって最後の言葉を録音していて、後悔がおしよせるの……。あなたに告白できるときが、もっと何ヶ月も前だったらよかったのに……。  彼の腕に目隠しをされた状態で、自分の心臓の昔が、次第に大きくなっていく。血を全身に送るポンプの激しい音は、姉の声に重なってもはっきり聞こえていた。  少年の心音もわかる。背中越しに、彼の心臓の鼓動が伝わってくる。私は、泣きたいような、胸の締めつけられるような気持ちになった。彼に対して、もはや憎しみも、怒りも抱いていなかった。死と同じで、避け難いもののように彼を感じていた。  姉の告白は終わりに近づいている。そのことが、姉の声の高まりや、少年の腕の緊張から感じられた。  テープを聞くことができて、良かったと思う。 「ここで私を殺すから、あなたはうちに入ってテープを取り戻したのね……。私が家に帰らなかったとき、警察がテープを発見しないように……」  姉の声を一言も開き逃すまいと注意しながら私は言った。姉は人生の最後に、私にこの声を残してくれたのだ。だから、テープを最後まで聞くことは、私に課せられた使命だと思う。  ……でも、時間はもう元には戻らない。夏海、私はあなたが好きだった。 「夏海さん……」  少年の声が聞こえる。同時に、私の首へ巻かれていた腕がゆるんだ。筋肉の緊張が消え、弛緩する。予想外だったので、私は彼の行動に戸惑った。 「僕はあなたの家に入っていない……」  彼は言った。すぐには言葉の意味がわからなかった。テープを持ち去ったのは、あなたではない……? そう聞き返そうとしたとき、唐突に、手術室の入り口の開閉する音が聞こえた。  だれかが部屋に入ってきたらしい。  ゆるんだとはいえ、私の顔にはあいかわらず少年の腕がかぶさっており、目隠しされた状態だった。したがって、三人目の人間の姿を見ることはできなかった。腕を押しのけるために動くこともできず、私は、部屋に入ってきた人物の足音が移動するのを闇の中で聞いていた。 「だれ……?」  私の声はかすれた。  足音は、入り口を抜けた後、私と少年のいる手術台の脇を通りすぎた。古い、埃のたまったリノリウムの床が、靴の踵を受けて音を出す。  少年が、ゆっくりと、私の顔や首に巻きつけていた腕を解き放つ。私は自由になった。彼の腕で闇に覆われていた視界が元に戻ると、目の前の壁に、三つの人影が写し出されているのを見た。  あなたを悲しませることを言ったのは、あなたが悪かったからじゃない……。  私でも、少年でもない、三つ目の影が、腰を屈める。ラジカセの停止ボタンが押される音。同時に、姉の声が聞こえなくなった。手術室内は、静寂となる。  私は台に腰掛けたまま首をめぐらせた。私の背後に少年が立っており、彼も振りかえって後ろを見ている。少年の向こう側、壁のすぐそばに、樹がいた。樹は、下に置かれていたラジカセの停止ボタンから、人差し指を離すところだった。 「テープを持ち去ったのは俺です、先輩……」  もう聞けないと思っていた彼の声だった。なぜここにいるのだろう。私は幻覚を見ているのだろうか。しかし、彼はたしかに存在し、ライトによる影が壁に写し出されている。決して幻ではない。 「病院内は広くて、探すのに苦労しました……。博子さんの声が聞こえなけれは、二人がどこにいるのかわからなかったかもしれない……」  夕方に彼からもらった電話を思い出す。電話で私は、自分が学校の前にいることを話した。なぜなら彼が電話の向こうで、私の居場所をたずねたからだ。部屋に入りこんでいる間、私が帰ってこないかどうかを、彼は確認していたのかもしれない。  レストランで私は、両親がよく玄関の鍵をかけ忘れると話した。だから堂々と侵入できたのだ。そして偶然、私の部屋に奇妙な題名のつけられたカセットテープを発見した。そう考えれば、どうしてこの場所にいるのかもわかる。この場所と時間の指定は、二本目のテープの最後に録音されていたからだ。 「神山君、ひさしぶり……」  背後に立っていた少年は、そう言うと私の左肩に手を置いた。熱のある手のひらだった。それから、手術台のそばから離れて樹と向かい合う位置に移動する。肩に置かれた手も離れて遠ざかる。私はその間、動くこときえできなかった。樹を振りかえった格好で固まっていた。 「こんばんは**君」  樹は少年の名前を口にして、そのまま彼から目を離さない。その横顔は、まるで私がこの部屋にいることなど忘れてしまったかのようだった。  二人は部屋の両端に立ち、無言で向かい合っている。手術室内は、音のない緊張に包まれた。耳が痛くなるような静寂だった。  それまで部屋にあった姉の声を私は求めた。手術台に座ったまま、視線を樹の足元に向ける。テープの止まったラジカセがあった。  手術台の縁を握り締めて冷たくなった指先へ、動くようにと信号を送る。麻痺したように、力は入らない。 「きみは、彼女を助けるためにここへ……?」  少年が、問うように声を出す。部屋の沈黙はそれで破られたが、押さえつけられるような息苦しい緊張は強くなっていく。  もう一度、動くように筋肉へ命令する。しかし、指先も、足も、私の意思に反応しない。心臓は早鐘を打つように動いていたが、まるで全身に麻酔をかけられたようだった。  目を閉じ、息をつめ、祈った。  お願い、動いて。そしてあのラジカセのところまで私を歩かせて……。  |痙《けい》|攣《れん》するように、指先がぎこちなく震えた。 「邪魔をして悪かったかい」  樹の声。  指先が動くようになると、連鎖反応のように、腕や足が眠りから覚めた。しかし筋肉は硬く強張り、動きはしたが、力が入らない。それでも私は、手術台の黒くなった血の染みに手のひらをついて落ちるように床へ下りる。姉の死んだ手術台を離れると、私は、自分が生きているのだという、なんでもないことを感じた。  足が震えて立ちあがれなかった。私はリノリウムの床を這った。腕に全体重をかけ、足を引きずるようにして進む。床を覆っていた土ぼこりで、私の全身は汚れた。手術台をまわり、樹の足元にあるラジカセを目指した。  樹と少年は何か言葉を交わしていた。しかし、私にはもはや何も聞こえなかった。地面を這う虫のように体を動かしながら、テープのことばかり無心で思いつづけた。  床に落ちていた尖ったコンクリートの破片が、体重をかけた腕に刺さる。しかし、気にならなかった。  少年はさきほど、死とは『失われること』だと言った。私はすでに多くのことを自ら放棄して死を選んだのだとも言った。  しかし、私はまだ死んでいない。生きることを放棄してなどいない。私がこの廃墟まできたのは、失うものを越えて、取り戻したいものがあったからだ。  姉さん……。床に置かれたラジカセに近づきながら、強く姉のことを思う。  ラジカセの横にあるライトが輝きを放ち、目がくらむ。樹の踵が持ちあがり、ライトの前を横切った。私に影を投げかけて、視界から消える。しかし私は、彼を目で追いかけなかった。  手を伸ばせばラジカセまで届く場所に辿り普く。床に這いつくばって、指先を、少年の持ってきた黒いラジカセに引っ掛けた。急いで胸に引き寄せて、震える人差し指で再生のボタンを押す。  ラジカセの内部から、機械の作動する音と振動が伝わってくる。金属製の網の張られたスピーカーから、姉の声が聞こえてきた。空気の震えではなかった。ラジカセを抱きしめる腕から、直接、声の振動が伝わってきた。  ……夏海、あなたのことがずっと気がかりだった。あなたにひどいことを言うたびに、後悔した……。あなたを不安そうな表情にさせてしまって、本当に、ごめんなさい……。  最後の数年間、私と姉は仲良くできていなかった。同じ家の中にいて、まるで他人のように遠くへ感じていた。私は嫌われているものだと思っていた……。  こんな伝言を残されて、あなたには迷惑かしら……。きっと、そうよね……。私だったら戸惑ってしまうと思うの……。でも、最後に謝ることができて良かった……。だって、あなたがこの先、私のことで笑えなくなってしまったら、私は嫌だもの……。  姉さん……。私はラジカセを胸に抱き、床の上で体を丸めた。腕の中から、やさしい姉の声が聞こえてくる。腕の中に、仲良く遊んだころの姉がいた。  今、こんなときに思い出すのは小さいころあなたといっしょに遊んだことばかり……。  私は目を閉じて、耳を傾けた。  坂道をのぼったところに、見上げるような大きな森があったわね……。  頭の中に、幼かったころ見た風景が蘇る。  暗い闇も、冷たいコンクリートの壁も、すべて一瞬のうちに消え去り、私は心地よい日差しの降り注ぐアスファルトの坂道に立っていた。  ガードレールも、ポストも、すべてが大きかった。私は子供用の小さな靴を履いて、はるか高い坂の上を見上げていた。道の片側に家が並んでおり、もう一方の側はガードレールの他に何もなく、町を見下ろせた。  手をつないで歩いたこと、覚えてる……?  なつかしい子供の声に呼びかけられて、私は振りかえる。そこに姉が立っていた。背丈はほとんど私と変わらず、会う人はみんな、私たちのことを似ていると言った。  姉が、小さな手で私の手をつかむ。坂道の先を指差して、あそこへ行ってみようよと提案する。  私は、わくわくした。姉の手に引かれながら駆け出す。暖かい日差しが私と姉の小さな影を地面に落としていた。坂の上で枝葉を伸ばしている木々を目指し、アスファルトの道に靴音を響かせる。  坂をのぼりきって、森の茂みに入ると、涼しい空気が汗を乾かしたの……。木々の間を抜けると、見晴らしのいい崖があって、そこから町を見下ろしたよね……。並んで、私たちは手をつないでいたわ……。  姉の小さな、熱い手の感触が蘇る。かたわらに立つ姉が、私を見て微笑んだ。口のはしから、八重歯が覗いていた。  町の上を高く、鳥が飛んでいた……。  翼をぴんと伸ばした白い鳥だった。私はその鳥が、町を流れる大きな川に住んでいる鳥なのだと、勝手に思っていた。ほとんど翼をはばたかせることなく、風に乗ってはてのない青空を飛んでいた。  夏海、お姉ちゃんはここで死ぬの。でも、あなたはこれからも生きる。生きていくんだわ……。そしてまっすぐに笑いなさい。でないと許さないからね。さようなら、夏海……。  小さく消え入るように、姉の声は聞こえなくなった。呼吸も雑音もなく、スピーカーは沈黙し、告白の終わりがきたことを告げる。胸に抱いたラジカセの、前面にある透明なプラスチックの小窓の奥で、無音のままテープがまわり続けている。そこに透明な水滴が落ちた。私の頬を伝った涙だった。  ごめんなさい、ありがとう……。  心の中でつぶやいた。暗闇の濃い、寂しく、虚ろな病院の廃墟に私はいる。しかし、確かに私はたった今、姉と坂道を歩いていた。  どれくらい、体を丸めて泣いていたのだろう……。  いつのまにか廃墟の中で私は一人になっていた。手術台と、明かりを点し続けるライトだけがそばにある。二人の姿はどこにもなかった。  ライトの光が床の一部分で反射し、そこだけ強く輝かせていた。目を凝らすと、床のその辺りだけが濡れているとわかる。大量の血だまりが広がっていた。新しく、乾いていない。私はそれが、樹のものではないことを祈った。  ラジカセを抱いたまま立ちあがろうとする。最初、足に力が入らなかった。ゆっくりと時間をかけて、よろけそうになりながらなんとか立つことができた。  危うい足取りで手術室を出る。樹の名前を呼んだ。私の声は壁に反響しながら暗闇の奥へ消える。  病院の入り口で樹が戻ってくるのを待った。静かな冷たい空気が服を通り抜けて体を冷やした。震えながら体を丸め、廃墟の暗闇へ身を潜ませていた。やがて半分眠りかけながら朝を迎えた。結局、樹も、あの少年も戻ってこなかった。    † エピローグ 「この傷は、なんでもない……。犬が僕にじゃれついてきたとき、転んでできたものだよ……。」  黒い鞄を片手に持って階段を下りる森野に、僕はそう説明した。  十二月四日の放課後、僕たちは同時に教室を出て、歩きながら話をしていた。階段の踊り場に差しかかったとき、彼女は僕の首筋にできた赤い線を指差し、それはどうしたのかとたずねたのだ。 「あら、そう。きっとあなたを殺そうとしたのよ」 「犬が?」 「間違いないわ」  確信するように彼女は頷いていた。実際は、昨晩に病院の廃墟でつけられた傷だった。他の部分にも打撲した個所はあったが、学生服で隠れて見えなかった。 「そういえは、北沢博子さんの殺害事件についてスクラップを作るために、私は先日から情報を集めていたの」  彼女は図書館で知り合った人物から様々な情報を得ていた。しばらく前、その情報通の名前をたずねたが、彼女は教えたがらなかった。後をつけてその人物について調べようと思ったこともあったが、もはやどうでもよかった。 「完成はしたのかい?」 「もう少し、というところね。後は、そう、犯人のインタビューさえとれたら完璧なのでしょうけど」  校舎を出て校門に向かって歩きながら、あの事件は警察が公表しているよりもはるかに猟奇的な事件だったことを彼女は述べていた。外はすでに太陽が沈みかけて、冷たい風が吹いていた。校舎から校門までは、両側に並木の植えられた幅の広い道が続いている。今はそこを数人の生徒が歩いているだけである。風に吹かれて白いビニール袋のゴミが道の上を滑っていた。  校門を出て、道路を渡る。その先にあるコンビニエンスストアの中に、北沢夏海がいた。雑誌売り場に立ち、ガラス越しに目があった。  僕はコンビニエンスストアの正面で歩みを止めた。横を並んで歩いていた森野も、それにあわせて立ち止まる。  店内で北沢夏海が、持っていた本を下に置いた。その間も、目を僕の顔から離さなかった。店の出入り口を抜けて、外へ出てくる。  店の前には数台分の車がかろうじて停められるほどの小さな駐車場があった。その車止めをはさんで、僕と彼女は向かい合った。店内から漏れてくる白っぽい蛍光灯の明かりが僕たちを照らしていた。  昨晩、ラジカセを抱いたままうずくまっている彼女の横で、僕は人間を殺した。ナイフが乾燥する音は、それで止まった。  しかし僕は彼女に構っている余裕がなく、廃墟に残したまま帰っていた。彼女は、横で行なわれていた乱闘に気づいておらず、僕が校門から出てくるのを見るまで、どちらが血を流すことになったのかわかっていなかったのだろう。  僕が北沢夏海に話しかけようとすると、横にいた森野が先に口を開いた。彼女はじっと北沢夏海の顔を見つめていた。 「もしかして北沢夏海さんですか」 「……はい、そうです」 「やっぱり。新聞に掲載されていたお姉さんの写真に似ていらっしゃいます」 「髪型を変える前の写真ですね……」 「はい。私は趣味で、お姉さんの事件のことを調べています。でも、あなたの写真は入手できていなかったから、数日前、あなたがここに立っているのを見たとき、似ているな、ぐらいにしか思っていませんでした」 「姉の事件のことを、調べていらっしゃるの?」  北沢夏海は意表をつかれたような顔をして、問いかけるような視線を僕に向けた。 「彼女には情報源があるみたいです。はっきりと教えてくれませんが……」  僕がそう補足説明をすると、北沢夏海は複雑な表情をした。  森野は僕に顔を向けた。いつもの無表情ではあったが、興味深そうな声だった。 「それで、北沢さんとはどういうご関係なのかしら」  僕は返事をせずにポケットから小銭を取り出して森野に握らせた。彼女は受け取ったコインを眺めて、これはなに、と質問する。百メートル先に自販機があるから、そこでジュースを買ってきてもらえないでしょうかと丁寧に頼んだ。 「目の前にコンビニがあるけど、ぜひ遠くにある自動販売機のジュースが飲みたいと思うのです。もちろん、きみに話を聞かれないよう追い払う目的でそうしているのではないよ」  森野は僕と北沢夏海を交互に見て、しばらくためらっていた。しかし、だまって背中を向けると、自販機のある方向へ歩いていく。 「あの子は、なにも気づいていないのね。自分が、殺される標的になっていたことにも……」  北沢夏海のつぶやきに、僕は頷いてみせた。  しばらく二人で、遠く小さくなっていく森野の後ろ姿を見ていた。暗くなった歩道に、彼女の黒い姿は半ば消えそうになる。道路を、ライトのつけた車が通りぬけるたびに、小さな形が浮かび上がる。 「……少し前、博子さんの死体写真を、彼女に見せてもらいました」 「死体の写真を?」 「はい。どこにも流出していないはずの写真を、彼女は、だれかからもらっていました。確かに博子さんの顔が写っていました。葬式のときに飾られていた写真と同じ髪型でしたよ……」 「それじゃあ、あなたはそれを見て……」 「犯人が撮影した写真だという可能性は、ゼロではないですよね。自分でも半信半疑でした。しかしそうだとすると、博子さんを殺した人間が、彼女へ近づいていることになる。もしかすると次の標的として彼女を選んだために……」 「それは半分、当たっていた……。でも犯人が最終的に選んだのは森野さんではなく私だった……」 「先輩がこのコンビニに立っていたとき、犯人がまた活動をはじめたのではないかという予感がしました。先輩の様子が変だったから、犯人がなにか接触してきたんじゃないかと……」 「そう……、そういうことだったのね……。あなたはそう考えたから、その証拠となるものを求めて私の部屋へ侵入した……」 「先輩はきっと、聞いても教えてはくれなかったでしょう?」  店内から漏れる明かりは、僕と北沢夏海の形を駐車場の乾燥したアスファルトに浮かび上がらせた。まるで影絵のようだった。彼女はそれを見ながら、ええ、そうね、とつぶやいた。 「でも、樹くん、あなたがそんなに非常識な子だとは思っていなかったわ……」 「先輩も、非常識では負けていませんね」 「昨晩、心配したのよ……。急にいなくなっていて……。夜が明けてあなたに電話したけど、つながらないから」 「俺の携帯電話、あいつとのごたごたで壊れてしまっていたから」  かつて、あの北沢博子を殺害した男と僕は同じクラスに所属していた。さほど親しくはない間柄だったが、もしも近づくことが多かったなら、目の中の常人とは違う気配に気づいていたのだろうか。 「あの後……、あなたたちは、いったいどうなったの……?」  彼の死体は、廃墟の裏側にある深い|叢《くさむら》の中に埋めた。残酷な魂は、ナイフの銀色に光る刃へ吸収されたのだ。もちろんそれは僕の勝手な想像だった。体に刃が深く刺さって小さなうめきとともに彼が口から血を吐いたとき、ナイフの柄を握り締めていた僕の手が、乾きの癒える手応えを感じたというだけである。 「あいつは逃げていきました。追いかけたけど、つかまらなくて……」  こういうこともありうる。彼はそう納得した顔で、廃墟の冷たい床に散った自分の血を見つめていた。膝をつき、おそらく北沢博子の命を奪ったのと同じ程度の簡単さで、彼は自分の死を受け入れた。そして僕を見上げてそれはいいナイフだねと言うと動くのをやめた。 「そう……。警察に連絡したほうがいいのかしら」 「先輩の好きにするといいですよ。あ、でもわずらわしいのが嫌だから、俺のことはだまっていてもらえませんか。先輩の部屋に不法侵入したわけだし」  僕は歩道の先に目をやった。遠く街灯の下に小さな動く点が見えて、明かりの下を過ぎるとまた闇のなかに溶ける。しばらくしてひとつ手前の街灯の下に再び現れたとき、小さな点ではなく、戻ってくる森野の姿になっていた。 「……今朝、家に戻ったとき、お父さんに叱られたの」  北沢夏海は車止めをつま先で蹴りながら、目をほそめて言った。微笑んでいる。彼女は自転車で朝方に廃墟から帰ったそうだ。家に着いたとき、娘が自室にいないのを知って両親がひどくうろたえていたという。疲れた表情で玄関を開けた彼女を見ると、親は叱りつけた後、強く抱きしめたそうだ。 「私の顔を見て、お母さんは泣いていたの。当然ね、姉さんのことがあったのだから……。そして、私も、両親も、生きているんだなと思った……。ねえ、来年の頭に引越すことが決まったわ。たぶん、遠くへ……」  北沢夏海は顔を上げて歩道の先を見た。遠くを見る彼女の横顔は、店内からもれる明かりのために白く輝いていた。 「あなたともお別れね……」  缶ジュースを手にして戻ってくる森野が、少し離れた場所で立ち止まった。電柱にもたれかかり、僕と北沢夏海を見ている。車の通りすぎた風を受けて、彼女の髪が踊るようになびいた。どことなく、マッチ棒が立っているような、心もとない様子だった。 「お話は終わったのかしら……?」  森野が声をかける。もう少し、と僕が返事をすると、元気のない様子でなにか小さくつぶやいて、僕と北沢夏海に背中を向けた。距離があったので、彼女が何と言ったのかはわからなかった。ただ、肩幅の小さな背中だけが見えた。 「森野さんは……」  北沢夏海は彼女を見て、続いて僕に視線を向けながら、言いよどんだ。 「なんですか?」 「いえ、なんでもないわ……。でも、私たちのことを誤解しているんじゃないかしら。……事件のことを、あの子に言うつもりはないの?」 「必要がなければ、言いません。これまでもそうでした」 「それじゃあ、あの子は、あなたに守られたのだということを知らないままなのね……。樹くん、あなたは私を助けるつもりで廃墟に来たの? もしかしたら、あの子に振りかかろうとする火の粉を払いのけたかったのではないのかしら……」  彼女は僕の瞳をまっすぐに見て言葉を続けた。 「やっぱりそうなのね。森野さんに愛情を抱いているから?」  愛情ではありません、これは執着というのですよ、先輩……。  口には出さず、僕はそう心の中でつぶやく。  北沢夏海は僕から視線を外し、遠くを見つめる。右手のひらで、自分の左肩を触っていた。 「肩、怪我でもしたんですか?」  僕がたずねると、彼女は少し微笑みを浮かべて首を横に振った。 「あの子が別れ際に、ここへ手を置いたの……」 「あの子?」 「なんでもないわ。ねえ、ところでいつまで森野さんを待たせているつもりなの」  電柱にもたれている森野の背中に向かって、もう話は終わったからと僕は声をかけた。  無言で森野は戻ってきた。よく見ると彼女の手には、柑橘系のジュースが一本、握られているだけである。三人いるのだから三本買ってこなければいけなかったのではないかと僕が指摘すると、あまりに待ち時間が長くて二本は飲み干してしまったのだと彼女は言う。なおかつ、その柑橘系のジュースはだれにも渡さないと主張した。外見からはよくわからなかったが、彼女の機嫌は悪いようだった。  駅まで三人で歩くことになった。僕と北沢夏海が話をしながら並んで先を歩いた。話題は引越しのことや、大学進学についてのことばかりだった。さほど興味のある話題ではなかったが、僕は他人の話に合わせることになれていた。彼女は楽しそうに、時折、笑顔を交えて話をした。  数歩下がったところを、森野がついてきた。北沢夏海と話をしながら、僕は時折、背後を確認した。片手に鞄を下げ、もう一方の手で缶ジュースをもてあまし気味にしながら、彼女は自分のつま先を見て歩いていた。長い髪の毛が前に垂れ下がって、顔を隠していた。  彼女は無言のままで、僕と北沢夏海の会話に入ろうとはしなかった。それは教室にいるときも同じだった。僕がだれかと話をしていれば、決してそこに割って入らない。横目でちらりと見ながら、見えなかったふりをしていつも通りすぎる。  やがて駅前の広場に到着した。すでに空は暗かったが、周囲には店がひしめきあっており、看板の色づいた光や店内の蛍光灯が周囲を明るくしていた。  会社や学校が終わる時間だ。家へ帰宅しようとする人で、駅は混雑していた。巨大な駅ビルの一階が四角いトンネルのように刳りぬかれて、駅の入り口になっている。そこを、まるで駅ビルが呼吸でもしているように、大量の人間が出入りしている。  駅の入り口で北沢夏海とは別れることになった。彼女は別れの言葉を言って、片手を振りながら僕と森野から離れていく。切符を購入するらしく、券売機の方へ向かっていく。流星群を回避するSF映画の宇宙船のような動きで、彼女は人ごみを避けながら遠ざかる。券売機のあたりでは大勢の人が列を作っており、その最後尾に彼女はついた。  通行人の邪魔にならない駅の壁際に僕と森野は立った。二人ともうるさい場所や人間の多い場所は好きではなかった。長時間いると、頭が痛くなる。  駅の壁は大理石のような白く滑らかな材質だった。一定の距離を置いて、視界を覆うほど大きな、女性モデルの写った化粧品の広告が壁に並んでいる。そのうちのひとつによりかかっている森野に、僕は話しかけた。 「北沢夏海が、殺された姉とうり二つで驚いたでしょう」 「それよりもあなた、人によって『僕』とか『俺』とか使い分けるのは疲れないの?」  森野は腕組をしていた。右手に握っている缶ジュースが、左腕の下から覗いている。おそらく、彼女の体温でぬるくなっているだろうと思った。  森野は、列に並んでいる北沢夏海を視線で差し示す。 「あの人にしろ、あなたにしろ、どうしてそう自然に笑えるのか私には不思議よ」 「僕は別に、おかしくて笑っていたのではないけど」  どんな会話の中でも、心が愉快になることはない。いつも暗い穴の底にいる気がする。しかし無意識のうちに僕は演技をしつづけて、他人との会話に|齟《そ》|齬《ご》を生じさせないようにしているだけだった。 「それに、あの人も最近は笑うことがなかったんだ。さっきまで僕と話をしながら微笑んでいたけど、これまでいつもあんな感じだったわけではないんだ」  僕がそう言うと、森野は首を傾げた。 「普段は笑わない人なの? 意外よ、明るそうな人に見えたのに……」  僕は彼女に、北沢夏海とその姉の不仲について簡単な説明をした。  顔の似た姉妹で、長い間、隔たりのある関係しか持てなかったこと。嫌われているのだと思い、笑顔を浮かべられなくなっていたこと。  僕の説明を、森野は口を挟むことなく黙って開いていた。 「僕は、いつもの趣味で、北沢博子の葬式に出席したんだ。そこで、その話を聞いた。でも、先日、生前に北沢博子の残した肉声のテープが見つかってね……」  北沢夏海は、死んで永久に会うことのできなくなったはずの姉と|邂《かい》|逅《こう》を果たすことができた……。  ややこしくなるため、犯人に関することや、昨夜のことは話さなかった。ただ、テープの内容と、それが北沢夏海にもたらしたであろう心理的な変化についてだけ説明をする。  昨夜に見た、ラジカセを抱きしめて廃墟の床に丸くなっている北沢夏海の姿を思い出す。そのとき僕は、ナイフを片手に持っており、あの男の服で刃についた血を拭っていた。ラジカセから聞こえていた北沢博子の独自は、幼い姉妹の遊ぶ姿を僕に想起させた。  彼女たちの思い出に関することまですべて話し終えたときも、森野は腕組をしたまま壁の広告に寄りかかっていた。視線をやや下方に向けて、何か考えるように沈黙していた。|瞼《まぶた》をふせぎみにしていたため、駅の白い蛍光灯によって睫毛の陰が目の下に落ちていた。 「……あなたの情報は、私の作った事件のスクラップブックからもれていたわ」  やがて彼女は、聞こえるか聞こえないかの小声でそう言った。ゆっくりと首をめぐらし、券売機の列に並んでいる北沢夏海へ目を向ける。  列が進んで、ようやく北沢夏海は券売機にコインを入れている。ボタンを押して、最寄りの駅までの切符を購入する。駅を行き交う大勢の人波に遮られ、見え隠れしながら、その姿が確認できた。  森野が腕組を解いた。右手に持っていた缶ジュースに、一度、視線を落とす。  壁の広告にもたれかかっていた彼女の背中が、離れた。その動きに少し遅れて長い髪の毛がついていく。止まっていた川の水が音もなく静かに流れを再開するように、そろそろと彼女は歩き出した。  あまりにも静かな動作だったので、森野が動き出したことに、一瞬、僕は気づかなかった。彼女の意思が読めず、最初のうち、目で追うだけだった。その背中が人通りの中へ埋没したとき、ようやく僕も後を追う気になった。  彼女の視線の先に、北沢夏海の姿があった。切符を購入して、改札に向かっている。森野夜は、どこか夢遊病者を思わせる心もとない足取りで、北沢夏海を目指して歩いていた。しかし、人ごみの中を歩くのになれていないらしい。行き交う人々に、次から次へとぶつかる。彼女なりに避けようとしているらしいが、まるで狙っているとしか思えないタイミングで、帰宅を急ぐ背広姿の人や若い女性に衝突する。そのたびに跳ね返されて、鼻を押さえながら、また歩き出す。僕はこれまで生きてきて、ここまで不器用に人ごみを歩けない人間を見たことがない。だから、彼女の背中に追いつくのはかんたんだった。  そうしているうちに、北沢夏海は雑踏に紛れて改札を通りぬけた。人通りに対して改札の数は少なく、大勢の人間がその辺りに集中している。僕と森野の前に多くの人間の背中や頭があり、視界を遮って、ついに北沢夏海の姿は見えなくなった。どうやら彼女は、森野に気づかないまま駅構内へ向かったようだ。  森野がまた、人に衝突した。相手は体の大きな中年の男性で、ダンプカーと三輪車の衝突事故を思わせた。彼女は跳ね返され、よろめき、後ろをついて歩いていた僕に倒れ掛かってきた。僕は、顎に頭突きをくらった。それは、ここ数ヶ月のうちに起こったいろいろなことの中で、もっとも大きなダメージだった。しかし彼女は僕に気づいた様子もなく、ただ前方の、北沢夏海の消えたところに目を向けていた。姿勢を立てなおし、やや躊躇うように顎をひいた後、肩を張って大きな声をあげた。 「夏海さん!」  普段の彼女からは想像できない、大きな声だった。細い体のどこに拡声機が仕組まれているのかと思った。辺り一帯にあったすべての音、雑踏や話し声が、一瞬、消えた。歩いていた大勢の人が驚いた顔で立ち止まり、沈黙し、彼女を見た。  森野が、再度、歩き始める。まっすぐに、北沢夏海の消えた改札へ進む。声を聞いて立ち止まっていた人々は、彼女のために体を避けて道をあけた。僕も後を追う。  再びざわめきが駅に戻り、人々は歩き出した。そのときすでに森野は改札へ駆けよっていた。彼女は電車通学をしているわけではなかったので、切符も定期も持っておらず、自動改札機を通り抜けることはできなかった。閉ざされた改札の手前で立ち止まる。 「森野さん?」  北沢夏海の声が聞こえた。改札の向こう側にある人波の間から、彼女の姿が現れる。声を聞いて戻ってきたのだろう。驚いたという表情をして小走りに近づいてくると、改札を挟んで森野と向かい合わせの位置に立った。その改札を抜けようとしていた人々が、立ち止まっている森野のために足止めを食らい、周囲は一気に混雑さを増した。しかし森野は気にしなかった。 「夏海さん、これをあげる」  森野は、持っていた柑橘系の缶ジュースを改札越しに差し出した。 「あ、ありがとう……」  北沢夏海が戸惑いながらそれを受け取る。 「さっきは、不機嫌になっていてごめんなさい。あなたともっとよくお話をするべきだった。……お姉さんと仲直りしたそうですね」  森野と、そのそばにいる僕へ向かって、改札を通れない大勢の人間の視線が集中していた。騒ぎを見た駅員がこちらを気にして駆け寄ってこようとしている。僕は森野の左腕を引っ張り、そこから退かせようとした。しかし彼女は、わずかに姿勢を崩しながらも反抗して北沢夏海の正面から動かなかった。 「私も、姉と喧嘩中で……。いえ、少し違うけど……。とにかく、おめでとうってあなたに言いたかったの。ただそれだけ」  言い終えると森野は僕に手を引かれて改札の脇に退いた。まるで体重などないように、彼女は軽かった。人の波が動き、僕と森野の前を洪水のように流れ出す。一瞬で北沢夏海の姿は人の流れに飲まれて消えた。その直前、彼女が森野に向かって口もとをほころばせ、ありがとう、と言ったのを僕は聞いた。  森野は放心したように力の消えうせた状態で、僕の手にひかれるまま改札のそばから去った。いつのまにか彼女は鞄を持っていない。周囲を探すと、さきほどまで立っていた壁際の地面に放置されていた。  僕は森野の手をひいて、外人女性の大きく写っている広告の前に戻る。人ごみの中、森野を引いて歩くのはつかれる作業だった。押されて、流されようとする彼女をつなぎとめておかないといけなかった。彼女は前方を見ておらず、下ばかり見ている。口が小さく動いて、何か言葉を発しているようだったが、雑踏にかき消されて聞こえなかった。  鞄の落ちている場所に辿り着き、人の流れから外れて、ようやく彼女の声が聞こえた。 「神山君は私と正反対だと思うわ……」  彼女はそればかり、何度もつぶやいていたらしい。  この後、彼女は駅前から徒歩で自分の家へ向かわなければいけない。僕は電車に乗るため、彼女は一人になる。森野にはどこか精神状態に危うさが残っており、無事に帰ることができるかどうか疑問の余地があった。 「最初あなたは、私に似ていると思ったの。姉さんと同じ雰囲気を持っていたから。でも、違う。私たちは似ていない……」  森野の鞄は、シンプルな黒色のものだった。それを拾って、手に握らせる。次の瞬間、鞄が落下して音をたてる。  拾い上げて、もう一度、取っ手を握らせるが、無駄だった。彼女にはつかんでおく気力がないらしい。指が鞄の重さに負けて開き、取っ手は手の中から離れる。 「神山君はときどき、心が空っぽのまま笑っているような気がするの。気を悪くしたらごめんなさい……、私の知っているあなたと、みんなと楽しそうに振舞っているあなたが、とても違うからそう感じるだけなのかもしれないけど……。私はあなたが、ときどきすごく憐れに思えるの……」  伏し目がちに彼女は言った。声がわずかに震えて、泣き出す直前の子供のようだと思った。 「言っておくけど私は逆よ……」  彼女は顔を上げて僕の目を見た。背は僕のほうが高く、そばに立つと、彼女が見上げる格好となる。特に表情があるわけではないが、彼女の目は赤味を帯びて、水分を多く含んでいる。 「言われなくても知っている」  僕の言葉を聞いても、彼女はしばらく沈黙したまま動かなかった。やがて、ゆっくりと顔をうつむかせ、頷く。 「そう、それならいいの……。おかしなことを言ってごめんなさい……」  拾い上げた鞄を彼女に差し出すと、まるで何事もなかったように受け取る。取っ手をしっかりと握り締め、今度は離さなかった。  目の前を過ぎる人の流れに、彼女は目を向ける。右に行く人もいれば、左に行く人もいた。正確に彼女が何を見ているのかはわからなかった。ただ、僕たちの前を、大勢の人間が歩いているだけだった。彼女が口を開き、静かに言った。 「夏海さんのこと、私は本当に良かったと思っているの。それに、うらやましかった……」  僕の手を借りないいつもの立ち姿に、彼女は戻っていた。僕たちは別れの挨拶もしないまま、その場所で反対方向に歩き出した。 [#改ページ]  あとがき Postscript  できあがってみると、手帳と姉妹と犬の本になっていました。GOTHの一話目を書いたときは、まさかこのようにシリーズ化して短編集にするとは思っていなかったので、不思議な気持ちです。一話目の『暗黒系』は、もともと、角川スニーカー文庫『ミステリアンソロジー・殺人鬼の放課後』に収録する予定で書きました。しかし、妙にこの主人公コンビが気に入った僕と担当編集者は、勢い余って、あといくつか同じキャラで短編を作ってみることにしたのです。そのため、急遽、アンソロジーのために『seven rooms』という別の話を書くことになりました。  僕はこれまで、人間が回復する話を好んで書いていました。ほかのことにいまいち興味がわかなかったからです。書きたいものを書くのはいいことだと思うのですが、馬鹿のひとつ覚えだなと、自分のことを恥じています。そしていつのまにか「せつないものを書く人」という肩書きができていました。このGOTHは、そういった方向性とはちがうものだったので、楽しくもあり、心配でもありました。  二話日の『リストカット事件』を書いたとき、知り合いのホームページの掲示板に、「せつなくない」「乙一のウリであるせつなさが感じられない」という感想があって憂鬱になりました。やばい、GOTHは失敗だ、とも思いました。同時に、「せつない」という言葉への軽い恐怖症にかかりました。ところで、僕本人は、「せつない」というのをウリにしたいと思ったことはあまりありません。もちろん、本の中身が「せつない」のであれは、そういう売り方をしないと本が売れないわけですけど……。でもそういう売り方は、人の尊い部分を資本主義の汚い手で触れているような気がします。祈りをお金に換算する怪しい宗教団体と同じキナ臭さがあるように思うのですが、気にしすぎでしょうか。  また、僕はこれまでミステリというものをないがしろにしてきた気がします。もちろん、ミステリ作家としてデビューしたわけではないので、こだわる必要はないのですが。物語を最終的に収束させるやりかたとしてミステリ的な方法を使うと、なんだか書く方としては楽なので、よく利用していました。でも、そのやりかたが安易だった気がするのです。  たとえば、ドラマ部分とミステリ部分がかちあったときなど、迷わずミステリ部分を単純にして物語を作りました。途中で犯人がわかろうが、構いませんでした。そのため、知人に「あの話、途中で犯人がわかったよ」と言われたとき戸惑いました。そこを重要に感じる人もいることは知っていましたが、自分にもそれが求められているのだなと、あらためて感じました。そこで、GOTHの一話目と二話目は特に、ドラマなんてひとまずいいからとにかくミステリをやろう、という気持ちで書きました。  三話目の『犬』はさておき、四話目の『記憶』は、この本に収録されている短編の中で、最後にプロットが作られた話です。他の話が出揃って、「なんかいまいち森野の影がうすいかも」という気持ちから、即席に作ったものでした。したがって、森野のキャラクターがまさかあのような秘密を持っていたとは、作者の自分も知りませんでした。してやられました。  五話目の『土』は、担当編集者が一番、気に入っている話だそうです。そういえば担当編集者の青山さんのことを、「小説ソムリエ」と僕はときどき呼んでいます。小説を書き終えた後、青山さんに読んでもらって、違和感やおかしな部分を指摘してもらうというのがいつものやり方なのですが、そのときの青山さんの仕事っぷりといったら、ワインの雑味を探し出しているようにも見えるのです。舌の上で、文章が分解され、吟味されているのがわかります。今回とくにお世話になりました。ありがとうございます。  六話目の『声』。この話を考えていたころ、もはやネタに困っており、「なにかこう、おもしろい異常者の設定ってないですかね」と編集者に話しかけたことを覚えています。そういえば、僕はスニーカー文庫の『妖魔夜行シリーズ』が好きでした。そのシリーズが毎回いろいろな妖怪を出したように、GOTHも毎回、いろいろ変な人を出そうと思っていました。僕はこのGOTHという話を、ファンタジーとして書きました。吸血鬼ものでもあります。  僕は作中で、異常快楽殺人者のことを「生まれついてそうだった」というふうに書きました。つまり、人間ではなく、怪物のように描いてしまったのです。そのことに今でも僕は引っかかっています。もちろんこれは、ファンタジー作品の特殊な設定と同じもので、現実もそうだとは決して思っていません。そこをどうか取り違えないようにお願いします。  最後になりましたが、今回もまたいろいろな人にお世話になりました。雑誌掲載時に挿絵を描いてくださった緒方則志先生、ありがとうございました。装幀デザインを担当してくださったみなさん、どうもありがとうございます。担当青山さんも小説ソムリエ的におつかれさまでした。  GOTHの続きをまたいつかやろう、短編も長編も、という話もあるのですが、なにも思いつきません。はたしてどうすればいいのでしょうか。あるいは、二度と出ないかもしれません。書くとしたらどうせ主人公の妹が死体を発見する話なのだろうなと思います。それでは。  二〇〇二年六月 [#地付き]乙  一 [#改ページ] [#ここから6字下げ] 初出 暗黒系        ザ・スニーカー01年12月号 リストカット事件   ザ・スニーカー02年2月号 犬          書き下ろし 記憶         書き下ろし 土          書き下ろし 声          書き下ろし [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 乙一(おついち) 1978年福岡県生まれ。「夏の花火と私の死体」で第六回 ジャンプ小説・ノンフィクション大賞を受賞しデビュー。先日、 病院にて、「安楽死したいときはいつでも来てください。 いい薬ありますから」と医者に言われる。うれしかった。 GOTH《ゴス》 リストカット事件《じけん》 平成14年7月1日 初版発行 著 者   乙一《おついち》 発行者   角川歴彦 発行所   株式会社角川書店       東京都千代田区富士見2-13-3 〒102-8177       振替 00130-9-195208       電話 編集部 03-3238-8694 営業部 03-3238-8521 印刷所   暁印刷 製本所   本間製本株式会社 落丁・乱丁本はご面倒でも 小社営業部受注センター読者係宛にお送りください。 送料は小社負担でお取り替えいたします。 ◎Otuichi 2002 Printed in Japan ISBN4-04-873390-7 C0093 写真      厚地健太郎 ヘア&メイク  米花 スタイリスト  鬼束香奈子 モデル     吉川知見(ミル・ヴィサージュアジャンス) プロデューサー 栗本知機 [#改ページ] 乙一の本 角川スニーカー文庫 きみにしか聞こえない CALLING YOU  定価:476円(税別) 友達のいないリョウは携帯電話を空想していた。心の中にしかない携帯電話でも、握ってみるとさみしさを忘れられる気がしたのだ。しかしある日、空想のはずの着信音が、実際に聞こえてきた!? おそるおそる受けた電話の向こうにいたのは……? ふたつのさみしい心が共鳴して起きた、現代のおとぎ話。 同時収録「傷」「華歌」 失踪HOLIDAY  定価:552円(税別) 14歳の冬休み、私はいなくなった──。 継母とケンカして家を飛び出したナオ。潜伏したのは、家の敷地内にある使用人の部屋。その三畳間から、家族のようすをコッソリと観察することにしたのだったが? 「じぶんの居場所」を探す少女の、果敢で無敵なものがたり。 同時収録「しあわせは子猫のかたち」 2002年秋刊行 未来予報 僕と彼女は、たまたま近所に住んでいるというだけの、ただの幼なじみだった。ところが、「未来が見える」という同級生が、「おまえら、将来結婚するぜ」と告げたことから、お互いに目を合わせられなくなってしまう。せつない想いのゆくえは……? 同時収録「手を握る泥棒の話」「フィルムの中の少女」 角川書店